「日本はサルファ剤に飢えていて、捕虜収容所では、日本人看守が赤十字から支給されるサルファ剤を捕虜から数錠もらうのに何でもした」
最初読んだとき、日本では欧米からの情報が伝わらず、あるいは伝わっても製薬会社が十分生産していないのかと思ったが、実際、戦前であっても、情報も生産も十分だった。
1935年12月には試供品を使う医師もいたし、37年7月には山之内製薬と第一製薬がスルファニルアミドを生産、販売し、その後、各社が雨後の竹の子のように続き、その優れた効果を示す論文発表も急増した。
驚くべきは開戦一年前の1940年の時点で
・アゾ色素剤 9銘柄
・一基ズルホンアミド剤 74
(うちスルファニルアミド 59銘柄、つまり59社が製造、販売していた)
・二基ズルホンアミド剤 22
・一基二基合剤 2
・四基ズルホンアミド剤 3
・スルファピリジン剤 2
合計、122銘柄も作られていたことだ。
一部示すと
しかし太平洋戦争を考えると日本には問題が二つあった。
1.欧米がサルファ剤の有効性をよく理解し、大量生産して兵一人一人に、粉末のキット(ドイツ、アメリカ)や錠剤を持たせ、傷を受けたらすぐ振り掛けるよう指導していた。しかし日本は?
2.スファニルアミドは最初に発見されたサルファ剤だが、その後、優秀な誘導体が多く合成された。
とくに
スルファピリジン(1937)
スルファチアゾール(1939)
スルファジアジン(1940)
スルファグアニジン(1940)
は優れ、この4つで世界市場を占めた。
スルファピリジンは別名M&B693、肺炎に劇的に効き、カイロ会談の帰り、北アフリカで死にそうになった69才の英国首相チャーチルがこれで助かったことは有名である。
またスルファグアニジンは赤痢によく効いた。アメリカ軍はニューギニア戦線、ガタルカナル島攻略戦に、この薬物を大量に使用し、治療を受けた赤痢患者1万人のうち、二人しか死なず、また患者はすぐに回復した。(T.ヘイガー)
ところが日本はどうか?
世界では使われなくなりつつあるスルファニルアミドを、60社近い中小医薬メーカーが同じ化合物を小規模に競うように作っていただけだった。
122銘柄のうち、新しいサルファ剤は、わずかに田辺と塩野義によるスルファピリジン2銘柄だけである。120銘柄はスルファニルアミドと同じかそれ以下の薬物だった。
これは既に開戦前から統制経済になっていて、スルファピリジンの原料であるピリジンが配給されず、作りたくても作れなかったからである。田辺と塩野義は以前からそれぞれ大して効かぬピリバン、タルタリンを作っていたおかげで実績として配給された。
こんな状況では赤痢に有効なスルファグアニジンなど合成できない。
南方では実際の戦闘ではなく、飢えと赤痢、マラリアで兵が次々と消えていった。
日本はよく言われるように、戦闘(戦術、兵器)のみを考え、兵士の健康を考えなかった。大和魂があっても病気には勝てない。
薬は砲弾と同じ、あるいはそれ以上に重要と考えたら、医薬原料は真っ先に回し、国家として増産させねばならなかった。
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