8月末からの長雨が終わり、10月4日、御殿場線に乗って沼津にきた。
熱海から丹那トンネルにはいって出てきた三島の次であり、静岡県では西の浜松、中央の静岡とならび、東部の中心都市である。
江戸時代、品川を一つ目とすれば東海道の12番目の宿場町だった。
しかし城下町でもあったことは、あまり知られていない。
すなわち沼津藩の藩庁所在地であった。
なぜ有名でないか?
10:22に駅前でレンタサイクルを借りた。
スマホのアプリで借りるのも、電動自転車に乗るのも初めてだった。
まず有名な千本松原に行こうと駅南口から真っすぐ南下する大通り(さんさん通り)を走った。
すぐに東西に走る旧国一通りと交差し、この、一番繁華な交差点の左角に公園があった。
スマホの地図を見れば中央公園・沼津城址とある。
計画では、駅の近くだから自転車を返してから帰りの電車待ちの間に遺構を見ようと思っていたが、はからずも出くわしてしまった。
素通りするのもナンなので入ってみた。
しかし何もない。
しかし城跡らしき遺物は何もない。
10:36
沼津城本丸址と彫られた石碑だけあった。
沼津城はもともとは天正7年(1579年)に武田勝頼が築いた三枚橋城が前身である。
この三枚橋城と狩野川を挟んで対峙したのが北条氏の戸倉城で、両者の間で小競り合いが絶えなかったという。
(今回、当初は沼津御用邸から戸倉城を経て三島のサイクリングスポットに返す予定であったが、朝寝坊したし、自転車も意外と疲れるので断念した。)
沼津は東海道の、しかも箱根の西、すなわち要衝であるから徳川時代は譜代大名が置かれる場所である。関ケ原のあと大久保忠佐が2万石で入った。彼は大久保宗家である小田原藩初代藩主・大久保忠隣の叔父にあたる。嫡子が早世しため、異母弟であった大久保忠教(通称・彦左衛門、天下のご意見番)を養子として継がせようとしたが、忠教は「自分の勲功はない」と固辞したという。忠佐の死後沼津藩は無嗣改易とされた。
その後、三枚橋城は火災にあって廃城となり、開墾地となってしまった。
その後1世紀以上たった1777年、水野忠友が三河大浜藩より2万石で転封してきて三枚橋城の跡地に縮小した形で新しい沼津城を築いた。
(ちなみに大久保氏、水野氏とも「忠」を通り字とする)
水野氏は老中、老中首座など出して幕末まで続くのだが、明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい沼津も封地となったため、押し出されて上総菊間に移った。
城主、家臣たちがこぞって菊間にうつり、沼津に関係者が残らなかったことや、東海道線の駅にあまりに近かったことなどから、徹底的に破壊されてしまったのだろう。お城のど真ん中を国道1号線、駅前から南下する大通りが十文字に分断した。
そして全国的にも珍しいほど見事に何もない城址となった。
東のほうは狩野川に向かって下り坂になっていて、何かあるかもしれないと思ったがこれから海のほうに行かねばならない。帰って来てから見ればよいと思い、この公園の探索はしなかった。
南に延びる大通り(さんさん通り)に戻り、自転車で南下するとすぐ、道脇に石垣があった。
ちょうど中央公園の裏にあたる。
10:40
三枚橋城(沼津城)石垣
発掘された石を積み上げたというから城の遺構ではなくモニュメントのようなもの。
さんさん通りを南下、御成橋西詰の交差点を右折した。
10:44
御成橋通りを西に向かう。
江戸時代、このあたりはお城の南西にあたり、沼津宿本陣があった。
幕末には本陣3、脇本陣1、旅籠55、総戸数1234を数えた。
古い街があったはずだが、1945年7月17日未明の沼津大空襲で市街の89%が破壊された。
このあと、ぐるっと風光明媚な千本松原、文学の道、海鮮レストランの多い沼津漁港をみて、沼津御用邸記念公園を見学し、正午を過ぎた。
このあと、まっすぐ国道414号(沼津―下田)をひたすら北に向かって自転車をこぎ、沼津市役所の角を左折して御成橋まで戻ってきた。
橋を渡ると右角にリバーサイドホテルがあり、そこの正面玄関の奥の駐車場にハレノヒサイクルのステーションがあった。
12:33 返却
2時間10分で1080円。
これは便利でお得だ。
無事返却できて一安心。
落ち着いたところでリバーサイドホテルの裏のリバーに行ってみた。
12:38
上土朝日稲荷神社と狩野川
漁港のそば、港大橋で渡ったときは富士が大きく見えた。
しかしここは東北から流れて来るから方向が違う。
狩野川は伊豆半島の雨を集め真ん中を北に向かって流れ、ここ沼津で大きく曲がって海に向かう。
太平洋側の川で北へ向かうのは珍しい。
これは伊豆半島が南からきて本州にぶつかったからか。南からきてヒマラヤにぶつかったインドのデカン高原の川も北へ向かう。プレートが動いてアンデスにぶつかった南米アルゼンチン、ブラジルの川も海と反対の北西に向かう。
伊豆半島は多雨地帯のため、昔からこの川の流域は洪水が多かった。戦後、放水路の建設が計画され、1951年、伊豆長岡あたりから江浦湾に向かう狩野川放水路が着工された。途中の山にトンネルを掘る大工事だった。しかし完成前の1958年、伊豆半島を台風が襲い、1000人を超える死者を出した(狩野川台風)。完成したのは1965年である。
川から離れサンサン通りに戻った。
12:39
5人が手をつないで崖を登っているようなモニュメント駅に向かって歩いていくと右手に川のほうへ下っていく古い道があった。
12:41
旧東海道 川廓通り
三枚橋城
沼津市公式サイト>文化財>城跡編 から
旧東海道は本丸と狩野川の間を通った。
だから川廓の廓は遊郭の廓ではなく、城郭の廓(曲輪)である。
おそらくこの道は沼津城東側を回り込んでいるから石垣などがあるかもしれないと思ったが、自転車を返してしまったし、疲れていて行かなかった。
内堀に囲まれた本丸二の丸のど真ん中を国道一号と駅前大通が貫通し、破壊ぶりがよくわかる。
明治維新なって水野氏が上総に去ってから、残った二の丸御殿に沼津兵学校が作られた。
徳川宗家の駿府藩が明治元年(1868)に開設。創立当初は徳川家兵学校と称した。海があって海軍兵学校と名前が似ているが、フランスに倣った軍隊の養成を目標に掲げたから陸軍である。
そして領内の沼津城、二の丸御殿が使われた。受講資格は徳川家臣で14歳から18歳の者であることが原則であったが、他藩からの留学生もいたといわれる。初代学長は西周であり、教師は優秀な旧幕臣の中から選ばれた。
明治4年に兵部省所管となり、翌年陸軍兵学寮に統合され廃止、明治7年に陸軍士官学校となった。
沼津兵学校の記念碑がどこか近く(二の丸跡?)にあるらしいことは知っていたが、疲れて面倒になり探さなかった。
今回は南口しか回らなかったが、北口には沼津市明治資料館、沼津東高校(旧沼津中)などがあるが、自転車でも遠い。
それよりも自転車を返したらとたんに歩くのがおっくうになり、三島にも行きたいので沼津をあとにした。
・・・・・
ところで、三枚橋城跡地に沼津城を築き、江戸期を通じて駿東郡、富士郡から伊豆までを治めた水野家について書いておく。
水野氏というのは家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたる。
三河の刈谷城主であった。
20200608 伝通院。於大の方から堺屋太一まで
家康が生まれたころ水野氏は松平氏と同等の勢力であり、於大の方の婚姻も同盟といった、そういう流れであった。しかし水野氏は桶狭間の戦い後に家康に仕えた。信長時代、いったん武田内通を疑われ断絶するが、のち復活し、江戸時代にはいくつかの家が譜代大名となった。
明治時代初期の廃藩置県まで残った大名の水野家には、下総結城藩、上総菊間藩、上総鶴牧藩、近江朝日山藩、それに紀州藩の付家老だった紀伊新宮藩を加えた5家があり、華族令施行後には前者4家の水野家が子爵、付家老の水野家が男爵に列した。
1.結城水野家は宗家筋にあたり、再興を許された忠重の次からは勝を通り文字した。備後福山のときは10万石あったが、いろいろあって幕末結城藩は1万8千石であった。子爵水野家19代当主水野勝邦氏(1904-1988)は文京区大塚に住んでいた。20代水野勝之氏は数年前の文京区主催、藩校サミットに出席されていた。
20231122 全国藩校サミットに出席した殿様50人、一覧
2.菊間の水野家というのが沼津藩の水野である。
三河刈谷、吉田、信濃松本の後、沼津にきてこの沼津城を築いた。3万石。この家はしばしば老中を出した。明治元年に徳川宗家が駿河にきたさい、上総菊間に押し出された。
3.鶴牧の水野は当主は、大番頭や若年寄といった役職に就任する機会が多かった。文京区大塚の高台の住宅地の一角はかつて上総鶴牧藩の抱え地だった。
20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや
4.朝日山水野家は7万石、岡崎、唐津、浜松と領地を転々とした。天保の改革の老中・水野忠邦はこの家である。忠邦は二度の老中を失脚、5万石となり子の忠精に家督を譲ったが、この家は浜松から山形に左遷させられ、25年後の明治3年、山形から近江朝日山に移された。現当主は数年前の文京区開催藩校サミットにも山形藩として出席された。
5.紀州家付け家老の水野氏は以前、紀州新宮のブログに書いた。
20250205 新宮2 丹鶴城と附家老の水野氏、徐福
このほかに旗本になった水野氏も多い。
ちなみに水野氏繁栄のもととなった於大の方は、松平氏と離縁して実家に帰った。すなわち1543年家康を生んだ翌年、兄・水野信正が今川氏を離れ織田についたため、今川に気を遣う松平広忠が離縁した。その後、1547年彼女は久松氏に再嫁した。水野、久松は家康の母の家ということで江戸時代譜代大名として優遇された。
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