2020年6月8日月曜日

伝通院。於大の方と堺屋太一の墓石

家から自転車で白山通りを越え、伝通院にやってきた。
初めて来たのは2005年11月27日、安藤坂を上り参道正面からきた。
2回目は千駄木から自転車で2015年9月21日。東の善光寺坂からこの門前に来た。
3回目は2020年のこの日、西の三百坂を上がって山門に来た。

ここまでの道中は別ブログに書いた。

20200607 井上哲次郎旧宅、無量院、処静院など
20200606 三百坂と陽だまりの樹
 
2020-06-04
2012年3月に再建された山門

東都小石川絵図 東京都立図書館

今の山門は昔の中門の場所にある。

入ってすぐ左に指塚 
物故指聖供養塔とあるが、指聖とは何だろう? 
業界団体の全国コンテストで売り上げチャンピョンだろうか。
浪越徳治郎の日本指圧専門学校は山門を出て参道に面して左にある。

鐘楼も新しい。
江戸時代、明治41年と火事にあい、さらには昭和20年の空襲で、堂宇、宝物すべて燃えた。

2020-06-04
本堂は1988(昭和63)年建立
戦後昭和24年に再建したが、40年後に建て直した。

於大の方の墓は東向き。そうとう古そう。

松平広忠の正室、家康の生母である。
尾張国知多郡の豪族で三河国刈谷城主、水野忠政の娘。

その後、水野氏は広忠がついた今川と絶縁して織田に従ったため、於大は今川との関係を心配した広忠により離縁された。彼女は実家・水野の刈谷城に返され、その後、知多郡阿古居城久松俊勝に再嫁した。

しかしその後も息子の家康とはつながっていたので、水野家、久松家ともに江戸時代は厚遇された。水野家はいくつかの大名に分かれ、天保の改革、水野忠邦も一門である。

於大の方は1602年、京都伏見城で死去し、家康は母の遺骸を遺言通りに江戸へ運び、今の竹早公園あたりで火葬した。その場所は1645年智香寺が立った。
(別ブログ)

文字を読めば
傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼
とある。
このことから、1608年に竣工した伝通院だけでなく、戦前まで竹早公園、区立一中あたりに存在した光岳寺(千葉に移転?)、智香寺もすべて彼女の戒名からとったことがわかる。

伝通院は無量山寿経寺であったが、いま正式名は無量山伝通院寿経寺らしい。浄土宗。
麟祥院も報恩山天沢寺と称したが、春日局の法号をもって天澤山麟祥院と号するようになっている。
(別ブログ)

家康は、当初菩提寺である増上寺に埋葬するつもりであった。しかし増上寺開山の聖聡上人の師、了譽上人が庵を開いた小石川に新たに寺を建立されるようにと言われ、ここに埋葬、堂宇を建てたという。
1613年には増上寺から学僧300人が移されて関東十八檀林の上席に指定され、多いときには1000人もの学僧が修行していたという。


 
本堂裏に当たる場所に大きな墓。
石の冠木門はくぐるとき崩れるのではないかと少し怖い。
葵の御紋
墓石は左の方が古くて大きく
霊鏡院殿円誉智照慧高大姉 天保八丁酉年
この場で分からず、メモして帰宅後調べると
文姫(1809~1837)徳川家斉の十六女。松平頼胤の正室。
右は
高嶽院殿卓蓮社立誉善得源靖大居士 明治十年十二月三十日
高松藩主10代松平頼胤(1811-1877)
ここは水戸の分家で家紋も三つ葉葵。

墓域は奥(北)が下がっている。

整然と並んでいるから一見、近年分譲した所かと思ったが、墓石は古かった。

近年分譲しているのはこちら。
0.41m^2で一区画100万、墓石150万円から。
1.88m^2になると500万、墓石300万から、という。
家から2.7㎞だが、地下鉄乗り換えが不便。

奥の方に徳川家縁者の墓が並ぶ。
千姫
秀忠とお江(母は信長の妹、お市の方)の長女。
秀頼の正室として何度もドラマに出てくる。のち本多忠刻(忠勝の孫)の正室となる。
70まで生きた。



新規分譲墓地のための場所は、徳川家墓域を整理してを作ったもの。
徳川家縁者の墓石が並ぶ。
見れば三角柱の石が、戒名しかない墓石の説明をしている。

慧明院~ 11代将軍家斉の側室・お志賀の方 
清昇院~ 11代将軍家斉側室・於ハチの方 
など。
家斉だけでも特定されるだけで16人の妻妾、男子26人・女子27人を儲けたが(多いから男女比は1:1!)、成年まで生きたのは半分(28名)だったと言われる。墓が多いわけである。


傳通院は小石川台地の北東斜面の際にある。
昔は斜面は山林であったが、明治後に民間にわたると切り崩され崖となっている。

壮観 歴代住職の墓

2020-06-04
左から貞女阿連墓、清河八郎正明墓、斎藤家之墓
出羽庄内藩郷士、清川村出身、本名齋藤正明

浪士組は幕府の下で結成され、将軍・家茂上洛の際、その前衛として京へ出発。しかし京都到着後、将軍警護でなく尊王攘夷が真意と宣言、攘夷に反対する近藤土方芹沢らとたもとを分かつ。
江戸にもどった後、幕府の刺客に殺された。
それが西軍と戦った近藤土方らと違い、明治41年正四位を追贈された理由である。

清河のとなりは佐藤春夫
他に柴田錬三郎が眠る。

堺屋太一
令和元年九月建之
平成三十一年二月八日 俗名池口小太郎 行年八十三歳
と書いてあった。
戒名などほかの文字はない。

もちろん通産官僚、作家、経済企画庁長官、内閣特別顧問など歴任した多才人の本名、没年月日と一致する。

最近は墓石も「先祖代々の墓」「〇〇家の墓」でなく文字を彫ることが増えてきた。しかし、愛、真実、永遠、絆、などが多く、ずばり「堺屋太一」とは珍しい。故人を最もよく表すものを彫るとすれば、いちばん良い。ただ、これでは家族は入りにくい。それとも奥さん(洋画家、池口史子)と愛犬も隣に名前を彫られるのかな。

山門から。
かつては向こうまで参道両側に塔頭、学寮が並び、増上寺、寛永寺と並ぶ大寺だった。


別ブログ
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大
20200125 麟祥院の立像と稲葉家、堀田家

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