2021年4月10日土曜日

秋葉原2 ラジオセンターと秋葉神社

秋葉原駅のまわりは直交する二本の線路で座標面のように4分割されている。
北西にあった青果市場は秋葉原UDXなどになり、すっかり様相が変わった(別ブログ)。

2021‐04‐04 13:28
しかし南西の第三象限はあまり変わっていない。
電気街秋葉原としては昔からの表玄関である。
かつては改札を出たここで包丁や万能スライサーなどキッチン道具の実演販売などもやっていた。

「世界のラジオ会館 秋葉原」のロゴも昔のまま

戦後、神田須田町の靖国通り沿いに闇市が並んだ。
昔、その万世橋、昌平橋辺りは都電が何本も通り交通の要衝で、闇市のなかには軍から横流しされた電気部品を売る露店も多くあった。
近くにあった電機工業専門学校(現東京電機大)の学生が安い部品を組み立てラジオを作りそれが高く売れたらしい。農家にもっていって食料と交換したのである。
しかしGHQが露店排除を命じたことで露天は行き場を失う。その電器屋の収容を目的に「ラジオ会館」が建てられた。当初は電気製品・部品を扱う店が多く入っていたが、時代とともに一般家電、オーディオなどが並ぶようになった。私の学生時代1979年には46店舗が入っていた(別冊アングル1979,10月号)。

1984年12月石油ファンヒーターを買いに来たとき、普通の大型電気店のようなラジオ会館にも入った。
改札出たら目立つからね。

その後パソコンのショールームが次々とオープン、しかしほかに移転、一般家電なども縮小し、今外から外壁を見るに、アニメやカードなどの店が多いのかもしれない。
ラジオ会館の旧館は2012年に解体され、今のビルは2014年に竣工したという。
別冊アングル1979年10月

秋葉原にきた露天商が集団で入居したのは、ラジオ会館のほかに、総武線ガード下のラジオセンター、ラジオストア、中央通りの向こう、セガの隣の東京ラジオデパートなどである。

「ラジオ」というのは、テレビがなかった時代、無線で何か面白いものが聞こえるものとして若者が自力で作ろうとしたのであろう。真空管や電気部品一般を扱う商店はみな○○無線、○○ラジオという店名にし、ラジオは電子部品一般の代名詞だったのではないか。

1979年10月号
ラジオストアのあった一角は2013年閉鎖されたが、ラジオセンターは今も残る。

13:30 ラジオセンター
しかしコロナ禍で三密になりやすい休日は自主的に閉店しているようだ。

1987年から88年ころ、ここに電気部品を買いに来た。
東大薬理の遠藤實先生、飯野正光先生のところはよく測定機器を自作した。
私のひと世代前は電気生理学を研究するにはアンプ(文字通り細胞の微小膜電位、微小電流を増幅させる)を自作した。
さすがに私のころアンプは実験機器メーカーから市販されていたが、有機合成化学や生化学と違い、生物学というのは物理の知識と、細かいはんだ付けや旋盤工作の技術とを必要とする。例えば超微小筋肉片の張力を図るに、金属片がわずかな力で変形すると抵抗が変わることを利用し、ブリッジ回路を作ったりした。
ラジオセンターも中には開いている店もある。

その切片を入れる実験槽の容量もわずかであるから微量液量でも測れる温度計も自作した。
様々な値の抵抗やコンデンサー、ケーブル、スイッチ用のケースなど買って帰った。
新しい発見、人と違うデータを出すには、新しい装置を作らねばならない。飯野先生らの哲学だった。

ラジオセンターを出ると中央通り。
13:33
上野から銀座まで続く中央通りと総武線

1984年石油ファンヒーターを買いに来たときは商品を見ていたら、「安くしますよ」と声を掛けられた。中央通りを渡ると人通りも少なくなって、連れていかれたのは箱に入ったまま積んである小さな問屋のような店。電気街は思ったより広がっていた。

学生時代のステレオなどは生協だったし、就職してからのラジカセやビデオカメラは大宮。ビデオデッキはどこだったかな? そのうち大宮に量販店もできて、わざわざ秋葉原まで来て電気製品を買ったことはたぶんない。

中央通り沿いの九州電気。
1979年の図だと同じ場所に九州電子。同じ店だろう。

再びラジオセンターに入る。
13:35
かつては暗くて狭い路地?通路?に入ると、地面に箱を並べて電子部品やジャンク品を売っている一角があった。

シンシナチで娘同士が小学生の同級生だったインド系のRajan Rati夫妻が1996年6月来日、埼玉の我が家に一泊した。翌日東京案内でこのラジオセンターに連れてきた。東京タワーや増上寺よりその路上部品ショップに感激したようで写真を撮りまくっていた。東南アジアなどの猥雑な生鮮市場がハイテク日本ではこういうふうになるのかと思ったのではあるまいか。日本だってふつうは輪島の朝市など路上は野菜の箱やかごが並ぶのだが。
13:36
ブースというか棚を月1500円で貸していた(2か月目からは2500円?)。

結婚当初家電を買った大宮、北浦和のラオックスなどは戦後、秋葉原の一坪の店から大きくなった。
アメリカではよくベンチャー企業がガレージからスタートするが、この1500円の棚に出品した子供からハイテク大企業が生まれればいいな。
今はネットの時代で昔ほど必要性ないかもしれないが、コアな人が集まり現物を手に取れるメリットはある。

戦後そのままのようなラジオセンター2階への階段。
なぜか昭和30年からの年表が貼ってあった。

周囲がきれいになる秋葉原になぜここだけ戦後が残ったかというと、すぐ上を総武線の線路が通っていてどうにもいじれないから。一時移転すれば改装は可能だが、渋谷のような全面的高層化はいったん線路を地下に作ってからでないと無理だろう。いや地下は地下で日比谷線、TXが南北に走っているから無理だ。

13:39
天井に配線が走る階段踊り場に神棚のような神社。
さては秋葉神社か!?とおもったらお稲荷さんだった。

この地は火事の多かった江戸の北。火除け地として家屋を撤去し火災鎮護の神、秋葉神社を勧進した。幕末の切絵図にはないが、明治11年の実測図にはある。
旧昌平橋と和泉橋の間

この秋葉社は上野からの鉄道の延伸にともない、台東区松が谷(上野公園と浅草の間)に遷座した。
アキハバラは国鉄の駅の読み方で定着したが、昔はアキバッパラとかいろいろ呼ばれた。
だから1999年11月3日、次女の七五三で埼玉指扇の秋葉神社アキバジンジャにいったときはアキバハラが正しいのではないか、と思ったが、いま浜松の本宮、秋葉神社はアキハと読むことを知った。
13:41
ラジオセンターのすぐ横までアトレが迫っている。
戦後から続く昭和のラジオショップがどこも同じ駅ビルのようになったら寂しいな。

埼玉からはるばる秋葉原に来ることは滅多になかったが、2002年8月、ダンス雑誌の懸賞で燕尾服が当たり、東の昭和通りのほう、再開発前の小さな出口から出て岩本町のカインドウェアに採寸に来た。(しかしまだダンス競技は始めておらず、パートナーも見つからず、服は2年以上タンスにつるされたままだった。)

次に来たのは2010年。
駅はすっかり変わっていた。
東側は貨物駅が1975年に廃止になった後、上野発着列車の留置線になったが、それもヨドバシカメラやTXの駅、広場になった。青果市場と電気街があった西側は
改札を出ると総武線の下をくぐる自由通路ができていた。
朝市のように地面に電子部品の箱が並んでいた一角はなくなっていた。

2010年は秋葉原UDXでMDC社のオートパッチクランプ装置のユーザーミーティングだったのだが、駅の変わりように驚き少し周りを歩いた。メイドの格好をした少女がティッシュを配り、フィギアを求めるむさくるしい男たちが行列を作っていた。ゲームセンターに入ると視覚と聴覚が刺激されすぎて気分が悪くなった。昔も独特な駅だったが、また違う方向に変貌していた。

左・秋葉原ダイビル 2005年竣工
右・秋葉原UDX 2006年竣工
ダイビルは1923年創業の大阪ビルヂィングの略「大ビル」だろう。
UDXはUrban Development Xという。

UDXは翌2011年もイオンチャネル創薬のセミナーがあり、澤田、関野、黒川、今泉氏と会ったとメモにある。ここは階段席の会議ホールもあり、交通至便、また来るだろうと思ったら、転職したこともありまったく用事がなくなった。

その、戦後闇市、電気街から大変貌してびっくりしてから早くも10年、あのとき新たに登場したメイドカフェ、AKB48もすっかり古くなってしまった。
13:42
線路越しに東のヨドバシカメラが見えないかと振り向いたら、昭和のまんまの京浜東北線と駅舎が見えた。

別ブログ

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2021年4月9日金曜日

ナス、トウモロコシの実生苗と場所つくり

今年は暖かくて3月中に桜が散った。

キャベツは順調
2021‐04‐01 春菊
サツマイモのあと11月7日、遅くまいたため成長する前に冬に突入、
育ちが悪く、一度も食べずに花蕾が出てしまった。

ウルイは隙間に自生。
年に一度は義務として取る。

2021‐04‐01
収穫したウルイは3等分し、2包みは人にあげた。
いくらでもあるのだが、交友関係が狭くもらってくれる人がいない。

ニラも自生しているが毎年一度も食べずに硬くなってしまう。
畑でないところだから黙認。

そろそろ夏野菜の準備。
ナス、ピーマン類はどこに植えるか?
2021‐04‐04
手前の2畝はサツマイモと落花生用。
春菊の場所はトウモロコシ、枝豆用。
ナス類はほうれん草、ネギの場所に決めてある。

2021‐04‐03
ネットを被るホウレンソウはもうじきなくなるからいいが、永遠に枯れないネギが邪魔。

2021‐04‐03
ネギを移すために人参(右)をすべて抜く。
本来なら玉突きで人参も移動するのだが、もう大きくならないと思い、地中に埋めて保存。

2021‐04‐08
空いた人参の場所にネギを移動。
ホウレンソウも強制終了。
2021‐04‐08
ホウレンソウのトウは70センチまで伸びていた。(板幅は隙間入れて18センチ)
スナップエンドウは今季初収穫

種まきは例年より早くした。
3月22日、24日にトレイにまき室内窓際においたものが発芽。
3月31日、外にまいたものはトウモロコシだけ発芽が始まった。

2021‐04‐05

2021‐04‐09
トレイにまいたものを外に出してポットに植え替えた。

落花生は早すぎた。
パプリカは2年前食べた後の種、ナスは4年前の種も大丈夫

しかし、この分だと大量の苗ができる。
人参やネギを移動しても場所はない。
それどころか他の品目を全部やめても、庭の全面積を使っても、これら苗の一部しか植えられないだろう。まあ捨てるしかない。

ところで今年も苗は購入する予定だった。
毎年ナス、ピーマンは種をまいて芽が出ても発育遅く、大きくなる前に梅雨入りして育たず結局購入した苗からしか実は取れない。
でも今年は発芽が早かったから、自家製苗だけで行こうかな。。。
駄目だとしても、スーパーで買って食べればいいだけのこと。
これら苗の成長観測の年にしても良い。


2021年4月4日日曜日

秋葉原駅にあった青果市場

秋葉原駅は貨物駅だったものが1932年に高架の旅客駅となった。
同時に直交する総武線の乗換駅ともなった。
2021‐04‐04 13:07
だから三層構造で地上の改札から総武線に行くには京浜東北線のホームを通るという複雑な構造をしている。
代々木は総武線の線路を90度曲げると同時に立体交差させ同じ階に並べているし、南浦和は交差しても二層であるから、秋葉原の複雑さと古さは際立つ。
最初に秋葉原駅を使ったのは1974年。
高校3年生の夏休みに上京見物、たぶん乗り換えたはずだが、記憶はない。

2回目ははっきり覚えている。
2021‐04‐04 13:04
同じ1974年の11月2日、剣道班の高倉仁史氏、関谷幸雄氏とともに駿台模試を受けるために上京した。高倉の父上の好意で高輪にあった日本鋼管のホテルのような寮?研修所?に泊めてもらい、翌朝品川駅からお茶の水に行くのに秋葉原で乗り換えた。
朝食を食べていなかったので、この駅のミルクスタンドでパンを立ち食いした。
この店は当時もここにあったのだろうか?

今この写真をみて80年代?ころのテレビ番組を思い出した。
東のほうから総武線に乗ってきた人が駅の停車時間で立ち食いそばを食べられるかという企画。ドアが開くと券売機にダッシュして、必死に口に入れ、ほおばったまま閉まるドアに飛び込んだ。本当にできるかどうか、私もいつか試してみたいと思いながら何十年も経ってしまった。
13:12
探したが今秋葉原に立ち食いソバはない。

乗り換えでなく初めて駅から外に出たのは、つまり初めての秋葉原は、
1975年の夏か秋。
普通の人と違い電気製品を見に来たのではなかった。
帰省したとき父親から野菜か花の売り上げ伝票をもらった。
これを秋葉原の東京青果市場にもっていけばお金になるという。

学生時代私は仕送りしてもらわなかった。昭和50年春、大学入学するとき父親がライトバンで私と衣装ケース1つ、布団、それと箱一ぱいのリンゴを寮まで運んできてくれた。深夜に出たので早く着きすぎて、構内に駐車して時間をつぶした。車の中で封筒に入った20万円を渡された。初めて子供を東京に出す。心配だったのだろう。「足りなくなったら連絡しろ」と言われたことを覚えている。

ちなみに当時我が家の年収は(奨学金申請で覚えているのだが)96万円とか104万円だった。今の主婦のパートみたい。ごまかしたのではなく、出荷量に農協の決めた単価をかけたらこの数字になったらしい。これで祖父母を含め7人が暮らし、父親は大学へ行けとは言わなかったが反対もせず、田舎では極めて珍しく、子供3人とも希望通り大学に行かせてもらった。

さて、夏休みに帰省した時その20万円は使い切っておらず、まだいらないといったのに持たされた。そのハガキくらいの大きさの売上伝票を何枚か持ち、初めて秋葉原駅に降りた。

市場で人に聞きながらうろうろし、外階段を上がって事務所に行き、換金したことを覚えている。
このころはまだ家庭教師のアルバイトもしていなかったが、大学入学と同時に育英会の奨学金を十分もらっていたし、寮だったから金もかからず、貯金してしまったのではなかろうか。

その青果市場はどこにあったか?
上京してすぐに買った地図 1975
青果市場は秋葉原駅の北西の区画。神田明神通りの北側にある。
今の秋葉原UDX(2006年竣工、22階)の場所である。

もう少し詳しい地図を探していたら
アングル別冊(1979年10月)には駅に隣接するように神田市場と書いてある。
はて、市場の位置はどちらが正しいのだろう?

国土地理院 1979‐1983
当時の航空写真を見れば確かにUDXの場所は市場である。
いっぽう総武線ガードに近いところはなにやら小さい粒粒が見える。
そのあとの年代の航空写真では粒粒が整列していたり、市場の移転、閉鎖が決まった後は粒粒が消え白線のみ残っている。
これはどうも市場関係者の屋上駐車場ではあるまいか?
すなわち両方とも正しく、駅北西の区画はそっくり市場だったのである。

その屋上駐車場のあった場所は駅前広場と秋葉原ダイビルになった。
(地上31階、2005年竣工)

秋葉原の青果市場が神田市場と言われたのは、この場所が神田山本町であることももちろんだが、震災前は神田多町にあり神田青果市場と長らく呼ばれてきたからである。
今の区立千代田小学校(90年代まで神田小学校)の前にあった神田市場が震災で壊滅、昭和3年(1928)帝都復興計画で移転した。江戸時代以来の青果市場であったが、鉄道の時代となれば、貨物駅のあった秋葉の原のほうが相応しい。
明治40年(1907)
(goo地図は区分図を融合しているから区界付近はダブっている。)
まだ総武線はない。
上野から貨物線だけ南下して終点となり、水運が使えるよう神田川から池が掘られていた。

駅の北西方面 13:18
神田青果市場は1989年埋め立て地にできた大田市場に移転した。
青果の神田・荏原市場(蒲田分場含む)、水産の大森市場、花卉部門を統合した東京中央卸売市場である。
市場は場所を差すこともあるが、運営していたのは会社組織、
大田区移転後も社名は東京神田青果市場株式会社である。

跡地には近代的なダイビルと秋葉原UDXができた。

2021‐04‐04 13:17
駅構内から見た北東方面
左から京浜東北線南行き、上野東京ライン(北行き、南行き)、新幹線(半地下)と並ぶ。

上野方面から延びて行き止まりとなっていた貨物線の跡地は、駅前広場や富士ソフト秋葉原ビル(写真中央、2007年竣工、地上31階)、秋葉原センタープレイス(右手前、2007年、16階)などになった。

かつて京浜東北線に乗れば汚くて古い青果市場の建物がすぐわきに見えた。


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2021年4月3日土曜日

トウが立つと大根はどうなるか

 今年はほんとに暖かい。

2021-03-15
モンシロチョウが家の中にもぐりこんだ。
9月8日まいた人参は
小さいが食べられないことはない。

2021-03-15
こちらは9月27にまいたもの。発育遅れたが追いついている。

2021-03-15
大根のトウが伸び放題。
伸びるとき「大根」部から栄養を吸い取っているのではないか?
すると春先にスが入るのはトウが伸びるからかもしれない。
トウを切り取ったほうが大根部は長持ちするのではないか?
2021-03-15
トウは35センチから50センチ
捨てるのももったいないし、トウは身が柔らかいので食べる。
(右はコゴミ)

3月20日、畑を広げようと耕していたら水道管、下水道管にぶつかる。
再び間違えて傷つけないように、ペットボトルを切ったものでカバーして埋めた。

3月22日、トウを切って1週間、暖かい日が続いたのでさらに伸びた。
2021‐03‐22
2021‐03‐22
左、トウを切ったもの3本。190,260,190,グラム
右:トウを伸ばしたもの4本。480,160,90,230グラム
これらは遅く(11/7)種をまいたものだったり、日陰にあったものだったりで小さい。

3月22日、上の大きなものを除いた3本vs3本を食べて比較する。
料理してもどちらか分かるように、一方はきれいに輪切りにし、他方は三角に切ることで目印をつけて煮た。
テレビを見ながらおいしく食べていると、一切れ、筋のあるものがあった。
はっとして口から出してみたが、ご飯と一緒にぐちゃぐちゃになり形は分からなかった。
食べるときは1つ1つ確認しながら口に入れなくてはいけないのに、また一切れかみ砕いてから筋に気づく。

結局調査は最後の段階で失敗。
トウを切ったもの、残したものはまだ畑に残っていて、二回目の調査を試みる。
2021‐03‐29
トウは60センチ、80センチに伸びていた。
葉っぱを落とすと左から200,200、590、100グラム
50、260、1150グラム

しかし菜の花の出た小松菜、白菜、トウが立ち始めたほうれん草も伸びていて、そちらを食べなくてはいけないので、調査は後回し。
大根は保存のため土に埋めた。

別ブログ