2019年3月27日水曜日

かしはら神宮と自撮り棒

3月16日、奈良で学生時代の友人K氏と会った。

「休日で朝から空いている。夜のうちに泊まりに来ていいよ」と誘ってもらったが、
溜まった仕事もあったので、朝大阪から行くことにした。

季節外れの冷たい雨。
近鉄で生駒を超える時はみぞれになっていた。
大阪上本町から30分、新大宮駅で待ち合わせ、彼がレンタカーを借りてくれていた。
当初はのんびり歩こうと思っていたが、こんな天候では悲惨な大和路になるところだった。

彼の運転で明日香に向かう途中、仕事やら家族やら、お互い近況を話す。
1977年から3年間、彼は団子坂上に下宿し、私は本駒込・谷中で行き来した。
他の同級生を交えず二人でじっくり話すのは91年12月早稲田甘泉園以来、27年ぶり。

私が転職して1年後、2014年3月、彼も役所を中途退職し、しばらくぶらぶらした後、大阪で就職、5年経った。以前から10年くらい関西に住んでみたいと考えていたようで、いま、週末は奥さんと西日本の旅行を楽しみ、いい人生を送っている。

南下する途中に雨が上がり、雲の合間に見えた山々は、
遠く西の葛城、金剛、東の笠置だか三輪だか宇陀だか知らないが、山の上の方が白くなっていた。

1973年高校の修学旅行以来、奈良は道が狭いという印象があった。しかし盆地が広いこともあり、かつての田畑に無料の高速道路はじめ、自動車道も郊外店もできた。

農地がどんどん転用され、これでは奈良らしさはなくなるのではないか、と心配する。

橿原神宮前駅という道路標識をみて、急きょ頼んで神宮に立ち寄った。

かしわら、かしはら、日常生活で音を聞かないため、いつもどっちだか分からなくなる。
大阪や信州の柏原は「かしわはら(ばら)」だから「かしわら」、橿原はそうじゃないから「かしはら」と覚えることにした。
しかし「きょう覚え方を、考えたこと」自体を忘れてしまう老いの現実がある。


神宮参道で写真を撮ろうとしたら、彼が自撮り棒を取り出した。
私は実物を初めて見た。
シャッタースイッチはマジックハンドのように先端で指のようなものが画面を押すのかと思っていたら、bluetoothだった。
そうだよな。
彼はまだ慣れておらず、シャッターが下りなかったり構図が決まらなかったり。

しかし、髪の毛薄くなった老人二人がキャッキャッ言いながら自撮りしているのは、はたから見てどうなんだろう? 
私ならゲイだと思う。
上の写真の拡大像

ところで、鏡を2つ向い合せれば光が永久に行き来し、画像が無限の入れ子状態になるのだが、スマホを2つ向かい合わせても、そうはならない。
当たり前だが。

写真を撮るとき彼はいつも私の右に来た。
「利き腕の右手で棒を持たなくちゃいけないから」と。

(写真)

後日、このとき撮った写真を彼に送ってもらって気が付いた。
自撮りするモニター画面は鏡像だった。

今書いているとき、自分のスマホで初めて自撮りしたら、やっぱりモニターが反転されていた。(みんな知っている常識?)

あえて反転させている。
たぶん我々は鏡を見て手を動かす習慣がついているからだろう。

灯篭の奉納は200万か300万円のようだ。

私の現地聞き取り調査によると、伏見稲荷の赤い鳥居は 25万円くらい(1995年)、
栃木市日限富士浅間神社の白木鳥居は 1万6千円(2017年)。


結婚式の二人がしずしずと歩いていた。
雨が上がって良かったなぁ、とK氏。
本当に。

ここで彼は新郎新婦を写そうとするが、直接写すのでなく、我々のバックに入れ、なおかつ橿原神宮と畝傍山も入れたい。まだ自撮り棒に慣れていないから悪戦苦闘。
早くしないと二人が行ってしまう。
(写真)

後日送ってもらった写真は、この必死の作業に、彼が珍しく険しい顔になっていた。



なんとここから本殿の中央に丸い鏡が小さく見えた。
2016年(紀元2676年)、神武天皇崩御2600年祭に今上天皇から送られた鏡だろうか。
(神武は在位76年で死んだとされる)

さざれ石。「君が代」との関係から。
この石は京大の東、吉田山でも見た。

頭頂が薄くなっている。
上着は彼のもの。寒いだろうからと持ってきてくれた。
こまやかな心遣いに、そっと感謝する。

畝傍山をもっときれいに見たい、
と言ったら、池の向こうがいいと連れて行ってくれた。
5年間、何回もいろんな人を案内しているから隅から隅まで知っている。

私など、いくら仲の良い友人でも、見飽きたところなら一人で周ってもらって、自分の行きたいところだけ案内するかもしれない。Kのやさしさは昔から変わらない。

(写真)
彼も自撮りにだいぶ慣れてきて、ツーショットの写真はいい顔している。

・・・・・
橿原神宮は当然のことながら、天皇制が復活した明治に作られた。
記紀において神武天皇の宮(畝傍橿原宮)が畝傍山の東南にあったとされるため、この地に、1890年(明治23年)官幣大社として創建された。日本中の小さな、ほとんどの神社よりも新しい。

ここまで来たなら神武天皇陵も見たい。
近くに車を止めて、彼には待ってもらい、走ってみてきた。
記には「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」、
紀には「葬畝傍山東北陵」と記されている。
江戸時代に神武陵を探す動きができ、幕末にミサンザイという小さな古墳に特定し、幕府が整備したという。もちろん明治期になって大々的に整えた。
しかしこの周辺にはいくつも小さな古墳があって、藤原京造営のときほとんど削って平らにしたらしいから、本当かどうか。
もっとも神武そのものも伝説だから、本当というものはもともとないのだが。

「紀元1年(旧暦)1月1日に即位した」というのは、1が続いてなんか嘘っぽいが、日本書紀の「辛酉年春正月庚辰朔」と言われるとそれほど変に感じない。
朔は旧暦では1日である。

即位した年を元年とするのだから、当然紀元元年一月一日となる。
もっとも紀元前660年はあり得ないが。

建国記念日は、即位を西暦紀元前660年(いちおう辛酉)とすれば、60日に一度回ってくる庚辰の日で春に近いものはグレゴリオ暦で2月11日となる。同時に天文学的計算でも月齢ゼロすなわち朔となるらしい。記紀の作者はきちんと一致させるように書いたのか、それとも偶然か。

ちょうど昨日、2019年3月26日、天皇皇后両陛下が退位を前に神武天皇陵を参拝された。
佳子様も成年になったときに参拝された。皇族は頻繁に来られるようだ。

凡人ならば、こんな伝説をむりやり造形したものに、国民が見ている前で仰々しく頭を下げたくないな、と思うかもしれない。
しかし儀式は理屈を考えてはならない。
決まった通りのことをしなくてはならないのである。

2019年3月26日火曜日

東大第二工学部と千葉大

東大第二工学部というのは、戦時中の軍事技術者養成のため、急きょ千葉に作られた東大の工学部。

1941年1月 、内閣直属の企画院で第二工学部設置が可決。
東大の定員を増やし、本郷と学力が均等になるよう学生を二分し、42年に開校した。
教職員441人、学生定員420人。

戦後、51年まで各学科は順次閉鎖、3月閉学、54年最後の学生が卒業した。
卒業生は2562人。

第二工学部は東大生産技術研究所となり、
1962年 六本木(旧歩兵第三連隊)に移転。(→別ブログ)
跡地は千葉大となったが、一部区画には生研千葉実験所が残った。

当時の建物が残っていることを知り、訪ねてみようと思った。

3月22日、薬学会ポスター発表の後、海浜幕張駅に急ぐ。

京葉線で曽我まで行って戻る途中、本千葉駅近くで亥鼻城がみえた。
1987年3月末だったか、初めて行った薬理学会の帰りに、この模擬天守(郷土博物館)に寄ったことがある。桜がきれいだった。

 西千葉駅到着。
夕闇が迫っているので急ぐ。
やはり閉まっていた。
生産技術研究所は2017年4月、柏の葉キャンパスに移転している。
フェンス越しに桜の老木並木が見えた。

グーグルストリートビューでは、裏の東大教職員宿舎の敷地に入れそうだったので、回ってみた。もし宿舎と大学の間にフェンスがあっても、ひょっとしたら近くから旧校舎を見られるのではないかと期待したが、ここも閉鎖されていた。
しかし、入居者はどこに行かれたのだろう?
ここもダメ。
それにしても戸数が多い。
かつて製剤学の花野学先生が住んでいらした。

そうだ、隣接する千葉大からフェンス越しに見えるかもしれない。
と、西千葉駅前まで戻る。
この日は卒業式だったらしく、正装した学生たちとすれ違う。
1979年から81年にかけて薬学部に二、三回来たことがある。

ほかに1980年4月フジキヨに呼ばれて新入生歓迎バスハイクに来た。
長尾研時代の1989年6月、薬理学会関東部会でも入ったかもしれない(記憶なし)。

まっすぐ進むと、右に旧第二工学部の敷地が見えた。
現存する建物は木造、ペパーミントグリーンのペンキが塗ってあるので、見つけやすい。林の中に一部だけでも確認できた。この写真でもかすかに見える。

しかし千葉大は広い。
第二工学部の規模が分かる。
戦時中だったから畑も作っていたらしい。
薬学部の区域に来た。
薬学部は亥鼻地区に移転、医学部、看護学部と一緒にキャンパスを作り、元の建物は他の学部が入っている。
その一つに入ってみた。
高いところなら見えるかもしれない。
最上階6階までエレベーターで行き、さらに階段を上って屋上に行こうとしたが鍵が掛かっていた。
それでもガラス越しに、その戦前旧校舎が小さく見えた。
 5階まで降りると、外に出る扉に鍵がかかっていなかった。
見えた。

千葉大薬学部は、百周年記念館を建てたのに、移転してしまった。
6年制となり薬剤師教育の重視だろうか。
理学部や工学部と一緒のほうが良かったと思うが。

 それにしても千葉大薬学部は広い。何棟あるのだろう?
この薬学部講堂は見覚えがある。今は楓ホールというらしい。

学生時代、千葉大に来たのは教授同士が仲良しで毎年研究室対抗で野球をしたからである。すぐ近くの検見川グラウンドで試合をして、千葉大薬学部のどこかの会議室で宴会だった。

当時はカラオケがなく(スナックにはあったが)、千葉大側の人がアコースティックギターで「さだまさし・天まで届け」を歌ったことを覚えている(高山廣光先生ではなかったか?)。
こちらは木内さんもギターを抱え、藤井さんと一緒にハモった。
私も若く、はしゃいで歌ったけど、書くのも恥ずかしい。

駐輪禁止の看板が薬学部のまま。
今は学際研究棟だったか、工学部の環境関連だったか、しっかり見てこなかった。

薬学部百周年記念館。
「教育環境整備グループ西千葉チーム」という表札(?)が窓に貼ってあった。

明治19年、全国に国立の高等中学が5つ作られた。
のちの旧制高等学校である。
それぞれは東京にあった帝大の予科でもあったが、同時に専門教育を行う学部も持っていて、第一高等中学は、本部が本郷、医学部が千葉亥鼻にあった。医学部には付属の薬学科があり、設立の明治23年(1890)から数えて100年ということである。
→別ブログ

この裏に行けば、第二工学部が見られるのではないか?
と林に踏み入れたら
茹でればおいしいコゴミの群落。
まさかこんなところで見られるとは。

 コゴミを踏まないように、そっとフェンスに近づき、柵ごしにスマホを出して旧校舎を写す。
主のなくなった建物はすぐに朽ち果てる。

それにしてもこの広大な敷地はどうするのだろう?
以前は国有財産だったから、民主党の仕分けみたいなものがあればマンション用地になってしまうだろうが、独立行政法人になると大学のものなのだろうか?

そういえば先週薬理学会で若森さんから聞いた話だと、最近2017年、東北大の農学部が市街の一等地から青葉山キャンパスに移転した時、大学が旧敷地をマンション用地として売ってしまったそうである。
しかしそこは、地元の酒造家が農学の発展のために寄付したもので、移転するならその篤志家に感謝を込めて返還するべきではないか、と二人で憤慨したところだった。

このあたりの大木は戦前からあったものだろう。

歩いているうちに標識があり、ここが薬学部の付属植物園であることが推察された。
立ってみていると、きょう卒業式だったと思われる美男美女のカップルが、すれ違って林のほうに消えていった。

薬用植物の畑だろうか。
水道など設備も充実している。
これをみると野菜を植えたくなってしまう。
給料いらないから私を雇ってくれないかな、と思った。

まあ少しでも見れて満足して帰ろうと思ったら目の前にビルがあった。
工学系総合研究棟2
最上階の9階に上がってみる。
東側の外に出るドアは鍵がかかっていた。
 それでも格子の合間にペパーミントグリーンが見えた。
西側の眺め。
駅から近くて広い。
入試の合格発表も終わり、新入生はいちばん嬉しい時期だろう。

階段を一つ降りて8階へ


薬学部方向
 7階に降りてみる。
ペパーミントグリーンの建物の左に灰色の板造りの校舎が見える。

このあと6階に降りたが、より良くは見えなかった。

だんだん暗くなってきて帰ろうかと思ったが、また高いビルが目に入った。
自然科学系総合研究棟2
入ってみる。
中が屋根付き吹き抜けになっていて、東大の理学部1号館に似ている。

各エリアは関係者以外立ち入り禁止とある。
ドアが空いたらいきなり実験室で一斉に見られ誰何されたらどうしよう。

最上階10階にあがるも外へのドアは鍵がかかっている。

9階に降りると学生控室みたいなコーナーがあり、そこの窓から覗くと一番よく見えた。

東大第二工学部は、本郷の第一と入学した時の学力がまったく同じであったから、大学教育の実験をしたとみなすこともできる。

急造の学部であったから、校舎はバラック、本郷と比べて不自由な環境で講義、実習が行われたが、権威者不在の自由な雰囲気であったことだろう。
若手教員が多く、寄宿舎で生活したので強い仲間意識も生まれた。
不足と無秩序がフロンティア精神を生み、80年代の製造業の社長は、本郷の第一より千葉の第二出身のものが多かったという。

本郷が従来通り、官界、学会に進出したのに比べ、戦後の実業界に進出したものが多かったのが理由のひとつかもしれないが、我が国の工業の復興、発展に大いに貢献したのは間違いない。
来る前は面倒だったが、やはりきて良かった。
千葉大は40年前と比べて、木々が成長し、建物が増えていた。


第二工学部は、現地では小さくとも見えていたのだが、今写真だとよく分からないので、Google view 3Dを乗せておく。
左上に二棟、昔の建物がある。
また、ちょうど下に薬学部百周年記念館、右に私が上がった工学部、理学部のビルがある。いつかこの絵も貴重なものになるかもしれない。

反対の南側から
やはり瓦屋根、板張りの大学っていいなぁ

ところで、2016年12月に開始、ブログもこれが500本目となった。
記念すべき号として何か書けばよかったが、今気が付いた。


2019年3月25日月曜日

トウの立ったアブラナ科

3月16日夜遅く大阪から帰ってきて翌17日朝庭に出てみたら、野菜が育ちすぎていた。

たまたま出てこられた斜め前の家の方にお化けのような小松菜を上げる。
花屋さんにお勤めという彼女はその夜、スナップエンドウとブロッコリーの苗をくださった。

翌18日、月曜、明るくなると同時に起きた。
最近まで白菜のあった場所を耕してエンドウを植える。

3月18日
2019-03-18 朝日差す。

ブロッコリーは翌火曜、また早起きして植える。
2019-03-19

それにしても庭はすっかり春が進んだ。
2018-03-18
大根はトウ(薹)が見事に伸び、白菜も広がりながら上に伸びてきた。
2019-03-18

小松菜は日陰で細くて小さいものもトウが出てきた。
この時期になるとトウは真ん中より上しか食べられない。

このあと最高気温が、19日から、19.2、21.5、22.3、23.9と暖かい日が4日続き、野菜はますます成長した。
以下の写真はすべて3月24日の午前。日曜晴れ。
筋が出て賞味期限を過ぎた大根もだいぶ抜いて整理した。

初期のころは大根の葉っぱももったいなくて煮物に使ってもらったが、もはや食べきれない。本体(根)だけ分離し、冷蔵庫に入れたりした(実験)。
土から吸収したミネラルを少しでも返すために、これらの葉っぱは乾燥させて埋める。


すべてトウが立ったアブラナ科3種。左から
 ・小松菜 Brassica rapa var. perviridis アブラナ属コマツナ
 ・白菜  Brassica rapa var. pekinensis アブラナ属ハクサイ
 ・大根  Raphanus sativus var. longipinnatus ダイコン属ダイコン
小松菜と白菜は、生物種としては同じBrassica rapa で、栽培品種として違う。キャベツは同じアブラナ属だが種が違う。

属から違うダイコンは、写真の外見からも違って見える。
ダイコンだけは菜の花にならないし。(→別ブログ


ところで、小松菜の畝の間にほうれん草をまいていた。
小松菜がなくなったせいもあり、ほうれん草も急成長。
2019-03-24
 ホウレンソウもトウも出始めた。
目を転ずると、
柿の下にコゴミが伸びていた。

柿も芽が出ている。
昨年はわずか2個。今年は生るだろうか。

桜は22日夜に5輪以上咲いていたから、開花日は3/22

すべてが萌える庭にあって、一人枯れた棉。
ワタの字はクサ冠でなくキヘンだから、ひょっとしたら冬越しして芽吹くかと思った。
しかし、やはり枯れていた。