2020年8月5日水曜日

胸突坂の蕉雨園と田中、渡辺、講談社の野間


7月26日は芭蕉庵の前からそのまま神田川沿いに西に歩いてしまったので、胸突坂を上がるため8月3日、再訪した。
2020-08-03
左 胸突坂 右 駒塚橋
幕末の絵図を見れば、肥後細川家下屋敷と駿河小島藩松平丹後守1万石の間の道が胸突坂である。名前はともかく昔からあった坂だ。
しかし絵図の駒塚橋はもっと下流にある。

また、水神社は坂下の西、すなわち現在地にあるが、坂下の東角(いまの芭蕉庵の場所)に水神別当とある。昔は神社を近くの寺が別当として管理していたが、ここは管理する屋敷だけがあったのだろうか。

芭蕉庵と水神社は別ブログに書いた。

胸突坂
2020-08-03

坂が急になって石段になる手前に芭蕉庵入り口があるが、月曜休館。
(神田川沿いの正門は普段しまっている。)

坂の途中から東側は蕉雨園。
西は肥後細川庭園か永青文庫かどちらかの森。

胸突坂上
蕉雨園は明治30年、田中光顕伯爵(1843天保14 - 1939昭和14)が建てた。
敷地6000坪。
道路から見えるのは母屋でなく、グーグル航空写真で見ると一番大きな建物は森の奥にある。



広大な屋敷である。

まず思うのは東隣りが山縣有朋邸(いま椿山荘)。
これだけ広ければ隣は気にならないかもしれないが、仲が悪ければ宅地として選ばないだろう。

田中光顕は土佐藩士であったが、武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加、政変で謹慎処分になると同志と脱藩、長州藩に頼った。高杉晋作の弟子となり、以降は長州の人々と行動を共にして戊辰戦争を戦った。このあたりから山縣有朋とも面識はあった。

維新後は新政府に出仕、岩倉使節団にも参加、順調に出世した。
陸軍少将、元老院議官、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。
1898年(明治31年)、宮内大臣。
ちょうどこのころこの地に屋敷を建てたことになる。

坂上をだいぶ歩いてようやく正門があった。

1919年、田中光顕はこの邸宅を、わが谷中でもなじみのある渡辺治右衛門(渡辺銀行総裁)に譲った。かつて私が3年住んだ谷中真島町、あかぢ坂上の広大な屋敷は渡辺の別邸で本邸は目白にあると読んだが、ここだと思わなかった。
その後昭和恐慌で渡辺銀行が破綻、1932年に講談社創業者の野間清治が購入した。
現在は講談社の所有。
 非公開だが、茶会やドラマの撮影などに使用されている。

ちなみに蕉雨園は、ここを訪れた漢学者諸橋轍次(1883- 1982)が詠んだ
芭蕉葉上孤村の雨 蟋蟀聲中驛路の塵
から蕉と雨の二文字をとり名づけられた。
彼は、崖下に芭蕉庵の芭蕉の葉を見ていたことだろう。

諸橋の年齢を考えれば田中邸の時は蕉雨園の名はなかっただろう。

右はまだ蕉雨園がつづく。
左は和敬塾東門。
バイクで入りかけたところで停止、スマホをみている彼は寮生のようだ。

和敬塾の北隣も樹木が多い区画だが、よく見ると公明党の看板。
創価学会文京平和会館である。
元はどなたの屋敷だったのだろう?

道路の北(右)は一般住宅地になっている。明治42年の地図を見ると、今の目白運動公園から水神社のあたりまで一面が細川家の邸宅となっているが、この北東の一角だけ民家が並んでいる。あたかも江戸時代から細川家で働いていたご家中の住居だったように見えるが、真相は知らない。

目白通りに出て東に歩く。
講談社野間記念館
創業者清治が集めた美術品、野間コレクションを収蔵。コロナでなく建て替えで休館。

もともとは清治の孫、野間佐和子(1943 - 2011)第6代社長の邸宅だった。
ちなみに佐和子は野間省一(父親、婿養子、4代社長)の一人娘、
野間惟道は夫、婿養子、5代社長、急死。
野間省伸は長男、7代社長。
墓所は護国寺。

芭蕉庵から蕉雨園、記念館、と椿山荘の西を、神田川べりから目白通りまで所有する講談社。
集英社、小学館と並ぶ3大出版社の一角。
出版不況で経営は安泰ではないと思うが、マンション業者に売却することは避けてほしい。

目白通りで野間記念館の東隣りは音の葉という園芸ショップ。
郊外のホームセンターと違って野菜の苗よりもっとおしゃれな鉢が多い。
背後の建物は椿山荘

ホテル椿山荘
かつてはフォーシーズンズホテルだったが、1992年のフランチャイズ契約は20年であり、2013年1月からホテル椿山荘東京にリブランドした。
言わずと知れた山縣有朋邸あと(2万坪)

目白坂を下りて帰宅しようと思ったが、講談社が気になって見に行った。
2020-08-03
講談社本館 1933年築
椿山荘の帰りなどここでバスに乗ったりして何回か見ているが立派である。

しかし、発祥は千駄木団子坂下。
野間清治により1909年(明治42年)「大日本雄辯會」として設立、「雄弁」を発行した。2年後に「講談倶楽部」を創刊、講談社の名前も併せて使用した。

文章家の多かった本郷にも近く、また郷里桐生から社員を募集したから城北の本郷区に社屋を構えたのだろう。

団子坂下の不忍通り沿いでは手狭になり、1933年に音羽に移転した。
新館
タワーマンションかと思うような高層ビル。
いくら大出版社とはいえ、印刷工場が入っているんじゃないのだから、なんでこんなに大きいのだろう? 原稿用紙(パソコン)をまえに編集している姿しか想像できないから、各階、各部屋で何をしているのか素朴に不思議である。

いま発祥の地、千駄木には社宅があり、「講談社発祥の地」と彫られた石が置かれている。



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