5月19日、晴れ。
上二人が結婚し、一人家に残っている次女が、母の日、父の日でご馳走してくれるという。
庭作業を終えて(中断)、11時40分、3人で出かける。
一緒に歩くことなどめったにないので嬉しい。
ただし娘は私とふだんあまり仲良くない。
林町ガレージが高級老人ホームになっていた。
狸坂をおりようとして半床庵。
これが茶室(官休庵、武者小路千家の稽古場)とは、我が家の女たちは知らなかった。
一般人の日本家屋と思っていたらしい。
正面玄関を見るため坂を下りずに曲がると、もっと驚いたことに二人とも初めて通る道だという。市嶋家の屋敷も初めて見たようだ。
彼女らは自分の住む町に関心ないのだろうか。
市嶋家の塀は倒壊防止か、鉄枠で強化されていた。
越後の豪農・市嶋家、早稲田の女子学生寮、久米マンションを説明したくとも、二人はすたすた歩いていく。
大給坂も説明しないまま降りた。
別ブログ
20181010 林町2 高風荘、宮本、市嶋、高村
20181008 動坂、狐坂、大給、団子
不忍通りの信号待ちでようやく向かいの平和地蔵(→ )の話を聞いてくれたが、渡ると二人の関心はすぐサクラホテルに。つい最近できたと思ったがオープンは2017年。
20180304 谷中の空襲、みしま地蔵と十四地蔵
ステーキの鉄平はおしゃれなサンドイッチ屋になっていた。
結局我が家で鉄平で食べたのは先輩におごってもらった次女だけ。
大賑わいの谷中銀座を過ぎ、諏訪台通りに上がって南に。
スギウラでフランス料理のコース。
店員とのやり取りなど、娘の所作はスマート。食べ方も我々より美しい。
親が躾けなくとも子は育つようだ。
窓の外はお向かい、朝倉彫塑館の緑
妻がトイレに立って二人になり少し緊張したが、冗談を言うとかわいらしく笑った。
まっすぐ帰るか、散歩するか、
初音小路
昼はまだ閉まっている?
大黒山経王寺
上野戦争の弾痕跡は有名
二人は彰義隊を知らなかった。
「義を明らかにすると書く」と教えたら帰り際に案内板を見て娘が「ああ、こういう字ね」と言ったから、まんざらバカでもないようだ。
寺内は入りにくかったが観光客が増え、彼らが入っていくので我々も。
本堂と日暮里高層マンションのコントラスト。
空が広いと「境内」というイメージがない。
高台なのに井戸がある。ちょっと自撮りになれたかな。
佃煮中野屋
長野へのお土産に買ったことはあるが、自分用に買ったことはない。
アサリがうまかった。
別ブログ
20171112 中野屋と柏湯、谷根千トークショウ
経王寺のつぎは本行寺にはいる。
長久山 本行寺
陽炎や道灌どのの物見塚 一茶
人文学的な常識がない娘はカゲロウと読めなかった。
ほっと月がある東京に来てゐる 山頭火
本行寺は別名月見寺ともいう。
上野台地の東崖の縁。
物見塚はどこにあったのだろう?
常磐線が行く
陽炎や月だけでなく、昔はこの時期、田んぼや荒川が白く光っていたことだろう。
北へ向かう新幹線
こちらは日暮里駅の向こうにスカイツリーがみえる。
関東大震災の時も空襲の時も、あのあたりからここまで多くの人が逃げてきた。
関家の墓
せき 関
ひらき 開
永井尚志(ながいなおゆき)の墓
長崎海軍伝習所の総監理、外国奉行、軍艦奉行として幕末の話によく出てくる。
榎本武揚らとともに五稜郭にこもったが、新政府に出仕し明治27年まで生きる。三島由紀夫の高祖父(父方の祖母の祖父)でもある。
・・・・・
本行寺の前は駅からの人がいっぱい歩いている。
帰りはどこを歩こうか。
夕焼けだんだん上の古書店、信天翁(アホウドリ)がなくなった。
コミック、文庫本、ゲームソフトなどの古本屋が多い中で、硬派の個性的な品ぞろえだったが、2019年2月閉店。魚て津も、一度も入らないうちに閉店、先月、落語演芸にっぽり館になった。
谷中銀座は歩く気がしない。
何の変哲もないあんな短い通りにあの人出。
肉の鈴木の西となりがトルコモザイクランプ「ザクロ」になった。
だんだん地元の普通の店がなくなり、外の人が経営する観光土産物店になっていく。
・・・・
本行寺を出て夕焼け段々にはいかず、すぐ蕎麦屋川村と甘味あづま家のあいだ、昭和のままの狭い路地を二人に教えてあげた。
板壁の古い家を眺めながら諏訪台通りに出て、
富士見坂。ここも二人は初めてだという。
20181118 太平洋美術会と富士見坂
かつてわずかに見えた富士の写真パネルを1つ1つ見ながら、
坂を下りて右折。
六阿弥陀道をぶらぶら進み、修性院の前を通ると、2014年1月千駄木での初めての正月、七福神巡りで立ち寄ったことを妻は覚えていた。
女たちは寺社にまったく興味がなく先を行く。
それでも笑いながら歩く二人の後姿をみて、
ここに引っ越してよかったと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿