2019年5月26日日曜日

湯島の坂・実盛、ガイ坂の謎、日本武尊の嘆き

5月24日、湯島で仕事があった。
ここは湯島天神、神田明神、湯島聖堂があるが、普通の住宅がない。
オフィスビルの間を散歩してもつまらないけれど、坂道だけ写真に撮っておく。
古い建物が壊され景色が変わっても、坂だけは残るものだから。

湯島天神男坂の下の道を南に歩く。
中坂
中というのは妻恋坂と天神石坂(男坂)の間という意味だそうだ。

湯島の坂は、本郷台地の東縁、すなわち本駒込、千駄木、弥生から続く斜面についたものだが、都心に近くて古来、住宅が密集していたから、坂に名がある。

駒込など畑地は坂があっても農民しか通らなかったから「裏の坂」「権兵衛さの坂」とか近所の者しか使わなかったから名前がつかなかった。

すなわち、案内板のように湯島の中坂の次は妻恋坂のはずだが、そこへ行く前にも、やたらと名前付きの坂がある。
まず実盛坂。階段上に案内板がある。
ネットをみると
「・・・湯島より池の端の辺りをすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり・・・」(江戸誌)
といった文章をみんなコピペしている。

しかし、~庄なんて平安鎌倉のころの呼び名ではないか。
そのころの坂名が残っているはずがない。
その前に湯島が長井と呼ばれたなんて聞いたことがない。
コピペする人は疑わないのだろうか。
そもそも斎藤実盛は平安時代末期、いまの熊谷あたり、武蔵国幡羅郡長井庄を本拠とし、長井別当と呼ばれたという。
この坂の下に実盛塚があったからともいわれるが、彼は加賀で木曽義仲に敗れ死んでいる。

よく分からないので坂下道を南へ進む。
この上り坂をガイ坂というらしい。
左は日本薬科大学1号館。

この日は文京区発行のこの地図で歩いた。
ガイサカの道の曲がり具合は、古くからあることを思わせる。

ガイサカを上ると坂の途中に交差する。
三組(みくみ)坂
元和2年(1616)徳川家康が駿河でなくなり、家康お付きの中間(ちゅうげん)、小人(こびと)・駕籠方(かごかた)の「三組」の者が江戸へ召し返され、当地に屋敷を賜ったという。
今はホテルが目立つ。
三組坂の南側からガイサカを振りかえる。
右が日本薬科大学2号館

しかし「ガイ坂」という名前はおかしくないか?
調べれば、『江戸切絵図』(嘉永六年・尾張屋清七板)にガイサカとあるらしい。芥坂とも書き、ここからごみ坂の別名・・・・
と、多くの坂道、散策愛好家のブログは書いている。みんな同じ文章。コピペで事実となっていく。

しかし、その嘉永六年尾張屋版をみれば、
ガイサカは崖の上、立爪坂より西にある南北の坂である。
周りは御小人、御駕篭者、御中間の「三組」である。
大正時代の地図を見れば、いったん道は無くなってしまったようだ。

なぜ、こういう間違いが広まってしまったのだろう?
確認しないまま誰かのブログを皆が気軽にコピペ、増殖する現代の恐ろしさである。
この様子だと三組坂の「三組」も絵図でどこにあったか確認した人はいないだろう。
ネットは便利だけれども、新たな定説を作る危険なものでもある。

さて、その「新」ガイ坂の道をさらに南下する。

崖上は東都文京病院
以前ここは小平記念東京日立病院といった。
日立製作所が創立50周年を記念して1960年に開設したが、2014年4月手放し、医療法人大坪会が継承、名前も変わった。
小平記念とは、小平浪平(おだいらなみへい、1874- 1951)だろうか。
日立の初代社長である。東大工学部電気を卒業、久原鉱業所日立鉱山時代の1910年に国産初の5馬力モーターを製作、1911年日立製作所を設立、1920年久原から独立した。

なお、左の白い建物は日本薬科大2号館であったが、三組坂に移転した。
2013年6月、田坂さんと一緒にきたとき彼はこの駐車場に車を止められた。

なおも南下するとようやく妻恋坂の中腹にぶつかる。
なお群馬県の村は「嬬恋」である。
坂を上ると途中すぐ右に石段。
立爪坂。
文字が大げさな気もするが。
突き当りは東都文京病院
ここは確かに江戸切絵図にある。
妻恋坂に戻る。
妻恋坂上から下(東)をみる。

家の切れ目に古そうな石段。
蔵前橋通りの向こうに神田明神の石段(裏参道)が見えた。

坂上の右に妻恋神社。
日本武尊が三浦半島から上総に渡るとき、暴風雨を鎮めるため弟橘媛命が身を投じた。
碓氷峠で関東平野を振り返り「あずまはやとし・・・」と嘆いた話は「信濃の国」の6番にあるので長野県人はみな知っているが、ヤマトタケルはこの地でも東京湾を眺めて嘆いたのであろうか。
当時、不忍池まで海とつながっていただろうから、彼がここに上陸、野営した後が神社にでもなったのだろうか。そのときはさしずめ、先ほどの老婦人の石段あたりから上ったのかもしれない。
湯島天神と比べて人もおらずひっそりしている。

妻恋坂の上は清水坂(しみずざか)の中腹にぶつかる。
湯島は弥生千駄木と違い地形が複雑だから坂が東西だけでなく南北にもある。

清水坂とは東京だけでもあちこちにあるが、ここは例えば上野池之端のように清水が湧いたからではない。

妻恋神社の南、神田明神の西北、斜面地に旗本島田弾正の屋敷があり(先ほどの江戸切絵図)、明治に清水精機株式会社の所有となった。大正に入って御茶ノ水方面に行く道がなく不便なことから、清水精機が土地を町に提供し、そして坂道を整備したことから、この名前になったという。
清水坂下を見る。
はるか向こうの、かすかに見える緑色は、なんと聖橋である。

江戸のころはビルがないからここから駿河台まで見えたかというと、前述のように道がなかったのだから、なんともいえない。

清水坂を横断して西に行くと南に下る坂がある。
横見坂
と上には書いてあるけれども、
大正元年の東京市及接続部地籍地図(国会図書館)には、はっきり横ネ坂と書いてある。
樹木の根が横に走り、それを階段のように利用して上り下りしたのではなかろうか。

なお、この地図では大正時代まで三組坂がなく、中坂の南は妻恋坂、立爪坂までなかったことが分かる。三組坂は、御三組の人がいなくなっても残った町名からつけられた。

また、なるほど清水坂もなく、天神さまから南下する道は妻恋神社のところで止まっている。

このころは散歩しても景色が良かっただろう。

・・・・・

さて2019年のこの日、ここで東に引き返し、台地を完全に下りた。
新蔵前通りから北へ少し入ったところ。少し民家がある。
住所は文京区湯島だが、すぐ南は千代田区外神田。
秋葉原、お茶の水、御徒町、湯島、末広町が最寄り駅である。
都心に最も近い一般住宅の一つではなかろうか。

2011年4月23日、中古住宅の売り物件を見にここへきた。
三階建て、屋上にお稲荷さんが祀ってあった。
駅は近く、部屋数は十分だったが、窓を開けると隣家の壁が密着するように迫っていた。ビジネスホテル以外このような家では寝たことがない。この家に死ぬまで住むだけでなく、連れてくる家族の生活も変えてしまうということに躊躇した。
神田明神の氏子、江戸っ子としてこの地で生まれ、ここを離れたくないという人以外は難しい。
あれから、もう8年経ったのか。

大通りに出た。
蔵前橋通りは緩やかに西に上っていて新妻恋坂という。
緩やかなのは車道ということもあるが、南北の坂がここに集まる谷の底というせいでもある。先ほど書いた日本武尊の空想話は、船がこの谷にはいって、右に上陸したという意味である。
その、日本武尊?の妻恋坂にあがった話の階段。

さて、蔵前橋通りの清水坂下をすぎると横見坂下。
折り紙会館の手前を左(南)に上がる。

樹木谷坂を上がり、右の角が湯島ガーデンパレス。
初めて来たのは1987年5月。
東大薬理に内地留学して2か月目、世界はエクオリン、fura-2などで細胞内Caが測定できるようになり、次々と新知見が得られたころで、国際シンポジウムがここであった。

ほとんど宣伝しない小規模な会であったが、有名研究者が多く来日し、たまたま長尾さんに教えてあげたら喜んでこられた。企業関係者は彼だけだったが、ジルチアゼム発見者として海外研究者と交流されていた。
2日とも我々は飯野先生はじめ研究室から皆で歩いてきて、終わるとまた歩いて帰って実験した。私は30歳だった。

2003年、Molecular Devices社のユーザーズミーティングで井本先生やロシュの嶋田さんに再会したのもここである。

さて、ここで信号待ちをして17号(本郷通)を渡った人々の多くが、向かいの東京医科歯科大学に吸い込まれていく。
御茶ノ水駅への近道なのであろう。
関係者以外立ち入り禁止とか通り抜け禁止とかの立て札はなかった。

最後に湯島の地形(日本武尊の入り江!)を示しておく。
国土地理院、地形図
これをみると湯島天神、神田明神、妻恋神社などは、物見の砦を作るのにふさわしい。

なおこのブログを分類するに、ご近所に含めた。
東大から南は普段来ることがないし、生活圏もまったくつながっていないが、まあ根津弥生池之端のすぐ南ということで。


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