2020年7月15日水曜日

切支丹坂と蛙坂、パークハウス小日向の遺骨

7月12日、第六天町の徳川邸跡、松平邸跡を見に来た。

20200714 第六天町の谷を挟んだ徳川慶喜邸と会津松平邸
20200713 巻石通り、金剛寺の場所、れんげ山霊園の不思議

そのあと茗荷谷の谷と坂を歩くことにした。
この谷は新坂(国際仏教学大学院)と荒木坂の間で神田川に口を開いている。
巻石通りの交番の角から谷底を入っていけるが、西の荒木坂、すなわち谷の西側を上がっていく。
2020-07-12 14:52
荒木坂から東(谷方向)をみる。
このあたりに会津松平家の屋敷があった。

14:53
坂上は豪邸が並ぶ。

14:54
この道の右(東)側は丸ノ内線の車両基地、修理工場。

昭和7年の地図を見れば、丸ノ内線の車両基地は松平邸の東の方に作ったようだ。
線路は茗荷谷の底より高く、西側の斜面を削り、盛り土(二階建て、三階建て)して造成したようである。

2020-07-12 14:56
荒木坂からまっすぐ歩いてくると切支丹坂下に出た。
右のガードをくぐると庚申坂をあがって春日通に出る。
その道は4月に歩いた。

2020-04-16 庚申坂上から

2020-07-12 14:56
切支丹坂を上がる
3か月前に下った時は何も知らなかったのだが、江戸時代から知られる切支丹坂はここではないとされる。
文京区教育委員会はじめ多くが『新撰東京名所図会』に従ってこの坂とするが、この坂は明治20年代に開かれ、江戸時代にはなかった。

明治の初めは春日通から降りてくる今の庚申坂が切支丹坂とされ、漱石「琴のそら音」、荷風「日和下駄」にもここが出てくる。慶喜旧宅の新坂(今井坂)こそ切支丹坂とする説もあるらしい。
江戸切絵図
幕末は今の庚申坂がキリシタンサカとなっている。

しかしとにかく、今の切支丹坂を上がった一帯に切支丹屋敷があった。
14:58
切支丹屋敷跡
記念碑は映像新聞社という民有地の中に立っていた。

一帯は、大目付兼宗門改役、井上政重(下総国高岡藩、1万3000石、現成田市)の下屋敷があった。
寛永20年(1643)筑前に漂着し、江戸に送られたイタリアの宣教師ジュゼッペ・キアラがここで取り調べを受けた。その後、正保3年(1646)に、屋敷内に牢や番所を建て、伝馬町の牢にいた切支丹10人をうつし、以後、彼らの幽閉施設(といっても比較的自由に暮らせたらしい)となった。

1708年、イタリアの宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが屋久島に上陸、長崎を経て江戸に送られた際にもこの屋敷に収容され、新井白石の尋問を受けた。

シドッティが1714年に没した後は収容される者もいなくなり、切支丹屋敷は1724年に火災で焼失、後は再建されることもなく、1792年に宗門改役の廃止と同時に正式に廃止された。
それ以前から敷地も順次縮小され、旗本御家人の屋敷になっていった。

15:00
写真右、すなわち切支丹屋敷跡の標識の向かいは、三菱地所の3階建て「ザ・パークハウス小日向」という大型低層マンション。2014年7月、マンション建設に伴い調査が行われ、3体の遺骨が出てきた。DNA解析で1体はイタリア人の男性とされ、シドッティの遺骨と考えられた。

現在マンションの前には、建設時に発見された縄文時代以降の埋蔵品の説明パネルがある。

・・・・
15:03
小石川区、小日向は閑静な住宅街である。
豪邸でなくても品がある。
往来の人が少ない。

15:04
同じ文京区であるが、白山通りの東、旧本郷区と比べ、この差は何だろう?
まず考えられるのは、本郷区は東大が近く下宿屋が多かったこと。下谷、神田、根津など繁華街も近かったから住宅需要も高く人口密度も高かったであろう。それが小さな家が増えた理由ではあるまいか。

震災、戦災のあと杉並、目黒、世田谷などに閑静な住宅地ができたように、明治時代にも、駿河台、本郷が飽和したとき、西の小石川、小日向、目白台に屋敷を求める人が多かったのかもしれない。

小日向を歩くと、同じ文京区の高級住宅街とされる西片、大和郷、曙町などより空気が閑静である。変化に富んだ緩やかな斜面に町が乗っていて、樹木も多い。あちらは平坦で白山通り、本郷通り、不忍通りに近く、なんとなくうるさい。
15:04 新蛙坂とする。
この坂は戦前なかった。丸ノ内線と同じころだろうか。
下ると蛙坂の中腹にぶつかる。

15:04
坂の途中で丸ノ内線の線路が見えた。
坂にちなんでヒキガエルでも繁殖していればいいな。

15:05
蛙坂
上がっていくと切支丹屋敷跡の前にでる。
蛙坂は復(かえる)坂とも書かれる。
切支丹屋敷から改宗して裏門から出て下りたからではないかという話もあるが、刑務所ではあるまいし、そんなに出所、復帰できた切支丹がいたとも思えない。

15:06
蛙坂途中から丸ノ内線をみる。ここでは地下鉄が高架をとおる。
左は貞静学園短大 1987年にこの地に校舎落成(学園は1930年創立)

地下鉄は土地が低いところに来ると地上に出るのは普通だが、地面より高いところにあるのは珍しい。まあ、渋谷の銀座線もそうだが、初期の地下鉄は浅かったから、東京の谷が深いところは谷の中腹に顔を出す。




0 件のコメント:

コメントを投稿