2018年8月15日水曜日

王子扇屋での会食とパンフレット

王子の北とぴあに来たついでに駅の裏に出た。
ここは東京か? 
川があって、どこかの温泉地のような景色。
2018-08-11

ここに扇屋という料亭があった。
創業は将軍家光の時代、慶安元年(1648)というので370年も前である。
海老屋と共に、尾張屋版江戸切絵図にもしっかり載っている。(中央)

1993年7月22日、シンシナチ大学シュワルツ研究室に留学する10日前、ここでシュワルツ研の先輩方が壮行会を開いて下さった。
主催者は、もと研究所長のH氏。
H氏が留学先を探すとき、ご友人だった江橋先生に尋ねると「まだ若いが、面白い男がいる」と言われ、決めたそうだ。Harigaya, Schwartzの、心筋細胞内Caと病態の関連を述べた論文は、1980年代、Current Contents(ネットのない時代、ほとんどの研究者が毎週読んでいた)によってCitation Classic (世界で最も引用され続けている論文)に選ばれたほど、彼は優れた業績を上げられた。
私が入社した時の代謝部門の部長であり、代謝から薬理に転向させてくれた時の薬理研究所の所長であられた。
彼は田辺を辞められたあと、栄研化学の王子研究所の顧問になられた。その関係で扇屋になったのだろう。私の周りで扇屋を知っている人は居なかった。

次に留学されたのはH氏の後輩で、この4年ほど前、1989年に東大教授になって転出されたNT氏。
彼は世界初のCa拮抗薬diltiazem (verapamil, nifedipineのCa拮抗作用はこれより少し前に知られていたが、まだCa拮抗薬という名前は使わなかった)に関する研究で有名になった(しかし教授選のときは、その前のadrenergic receptorのβ1・β2を薬理学的に分けた業績を評価されたときく)
この二人のあと、しばらく会社からシュワルツ研に行く人は居なかったのだが、近年になってNK氏がいかれ、Caチャネルのdiltiazem結合サイトを同定し、そのあとYH氏が継いだ。

つまりこの日の扇屋は、留学された4人と私、それから歴代所長の秘書で全員に愛されていたOE嬢の6人。高級そうな料理が出され、私はOEさんと1つ1つ「これなんだろうね」と言いながら味わった。

「ここは卵焼きが有名なんだよ」とH氏が仰った。

その後1995年、留学した時の仕事で博士号をとると、妻の父がお祝いにスーツを作ってくれた。すると長野の父も何かしてやろう、という。そこで久しぶりに両方の親を交えてお祝い食事会をすることになった。電車の便利な上野公園の韻松亭を考えていたのだが、どうしたものか、また扇屋に行きたくなった。

新緑のころ二回目の扇屋は、舟形の先端部分の部屋だった。
義父は「今後はもっとしっかり研究するように」と挨拶してくださったが、その約束は果たさなかった。
あの日は食事が終わると散歩した。

2018
その後扇家は閉店、ビルはそのまま1階に一休、2階に魚民が入っている。


 石段を上がると王子権現。もちろん切絵図にもある。


当時もらった扇家のパンフレット。
別冊歴史読本『江戸・切絵図』(新人物往来社1994)の染井王子巣鴨辺絵図のページにずっと挟んであった。

これによれば、寛政のころは八百善、平清、酔月楼と並ぶ名店となっていた。
明治7年に岩淵の大演習、翌八年に印刷局王子工場に明治天皇が行幸した時、休憩所とされた。350年以上も続き、大帝が二度も訪れた店が他にあるか? こんな名店が普通につぶれて良いものだろうか。

家族の食事会の数年後、王子北とぴあのダンスパーティに通い始めたころ、近くの線路下の連絡トンネルで玉子焼きが販売されているのをしばしば拝見した。
このころ(2005年)閉店したらしい。


千駄木菜園 総目次

0 件のコメント:

コメントを投稿