2017年8月20日日曜日

染井霊園1・下瀬雅允、濱尾新

千駄木菜園 総目次


染井霊園は家と同じ本郷台地なので、坂がなくて、自転車の時は谷中霊園より楽だ。
ただダンスで日暮里に行くついでに寄る谷中と違って、こちらは用事がない。それでも近くに用事があるときは必ず通り抜けをして年に1~2回は行く。

駒込駅の南、六義園染井門から斜め北西にまっすぐの染井通りをいくと、左手にプラウド駒込、本郷学園、東京スイミングセンターをみて、墓地入口(管理事務所)にぶつかる。

墓地を散策するときは何も目的がない。
ただ歩いて立派な墓だな、と思ったら名前を見て、知っている人だとちょっと喜ぶくらい。

今日はいつも通らない(通り抜けに使わない)東の端に行ってみた。
いきなりあった。
従四位勲二等工学博士下瀬雅允(まさちか) 明治44年9月6日卒と読める。
日本海海戦で威力を発揮した下瀬火薬を発明。
下瀬火薬は、ピクリン酸(trinitrophenol)であるが、当時は金属と接触すると爆発しやすく、砲弾内に詰められなかった。彼は砲弾の内側に漆を塗って、鉄との接触を防いだ。
成分は既知だから、下瀬火薬というより下瀬爆弾というべきだろう。

下瀬の墓のそばから東(北)を望む。

視界が開け、地形が良くわかる。この先は低地になっていて、墓地の北側あたりからの湧水が水源となり、今の霜降り銀座、田端銀座、谷中よみせ通りを通る谷田川となり、藍染川と名を変え不忍池に流れ込んでいた。

写真左の下のほうに海軍下瀬火薬製造所があった。その後、東京外国語大学となり、今は北区西ヶ原みんなの公園になっているが下瀬坂に名が残る。


管理事務所近くの中央通路に戻って北上すると左に大きな墓が目に付いた。
ここは何回も通っているのに今回初めて気が付いた。
まだ石は新しい。前回は違う景色だったのかもしれない。
水原秋桜子。
東大医学部を出た俳人。東大構内にも句碑がある。虚子に師事したがその写生主義に反発、離反した。

たぶん若槻礼次郎。何回も見ている。

大きいなぁ、と思ったら幣原喜重郎。前は何回も通っているけど記憶していない。


 従一位勲一等子爵濱尾新(あらた)
(写真をクリックすれば拡大、読める)
ここを拝見するのは2013年6月以来二度目。
東大安田講堂前広場と三四郎池の間にある巨大な座像の人である。
東大出身(大学南校)で初めて国務大臣(文部)になった。つまり彼以前の大臣は幕末の志士や華族だった。
濱尾は薬学会の会員でもあったので、薬学昔々にエッセイを書いたことがある。

高村光雲
高村光太郎、智恵子
千駄木の家のすぐ近所なので親しみがある。


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