2019年12月17日火曜日

忘れられない人5・油坂と大地陸男先生、中村健氏

12月11日、休暇を取って家から本郷台地の西側の斜面を歩いてきた。
目的は坂道の写真を撮ること。
はるばる文京区の南端まで来て、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ南端の喜望峰を回ったように、東に曲がる。

神田川の掘削により、本郷台地が駿河台と分離され、神田川に沿う外堀通りに下る坂ができた。それら石丸坂、建部坂、富士見坂とみてきた。
2019-12-11 12:31
富士見坂の東は順天堂大学センチュリータワー(11号館)

順天堂は郊外キャンパスもあるが、本郷地区をすごい勢いで拡大している。
センチュリータワーの前をすぎ、外堀通りを進むと9号館の東に、北へ入る道がある。
順天堂大学公式サイトから
油坂である。
坂名の由来は不明。
神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをしたので、揚場坂(あげば坂)ともいわれた。
まさか、揚げる、油揚げ、油坂ではないだろう。荷物の油がこぼれたとか。

本郷台地の南端は、油坂の次が湯島聖堂前を下る相生坂。
そちらは本郷台地の東斜面になるから、西側を歩いてきた今回の散歩ではこの坂が最後になる。アフリカならポートエリザベス、紀伊半島なら串本か。

 2019-12-11 油坂 建物は順天堂B棟

この油坂、実は一時期よく横断していた。

1990年8月からしばらく毎週土曜日、長崎さんと順天堂大学生理学教室に来ていた。
大地陸男教授にパッチクランプを習うためである。
それまで田辺製薬・生物研究所はCaチャネル阻害薬を研究開発、上市していながら、活動電位の測定はできてもチャネルを通る電流が測れなかった。

私は1987年に遠藤實、飯野正光先生のもとでHodgkin-Huxleyの輪読会を通して、徹底的にパッチクランプの原理を含めイオンチャネルの生理学を学んだ。
しかしパッチクランプは生産性が悪い。遠藤研でも田辺でも、fura-2などの蛍光法によりCaチャネルの動きを間接的に見る方向に進んでいた。

当時、順天堂大学の基礎医学の研究室は、油坂の東、いまのB棟(当時5号館)にあった。朝、モルモットの心臓にランゲンドルフでコラゲネースを還流し、心筋細胞をばらしてから昼食となる。

大地先生は我々をつれて油坂を渡り、すぐ西隣の有山記念館などある一角の、校舎の間から地下に下りられた。
暗い通路の左側は少し高そうな(といっても普通の)レストラン、右側は古くて汚いがいつもがらんと空いている食堂だった。
我々は右側に入り、先生は当然のようにカレーを注文、我々も従った。
カレーというのはどんなにしてもうまいと思うのだが、なぜか美味しくなかった。ただし150円か200円くらい。当時でも破格の安さ。50円の紙パックの牛乳や生卵をつけたかもしれないが、とにかく毎回、見た目も味も地味なカレーを黙々と食べ、油坂を渡って戻ってきた。
国土地理院、航空写真1992-10-10
当時は油坂の両側に大学の建物が3棟ずつあることが分かる。

大地先生は1963年東大医学部を卒業され、73年自治医大助教授、78年順天堂大助教授、85年生理学教室教授となられた。
政治的なことはもちろん、研究以外のことにはほとんど興味を示されず、実験、研究のことだけを考えていらっしゃるような方だった。

学会でもあまり親しく話をされる方はおらず、先生の発表が「面白かったです」と私が水を向けると、喜ばれてこちらの理解度を考えずにドドドっと返ってきてタジタジとなることがあった。

パッチクランプというのは、細胞膜の膜電位をミリセカンドで正確にコントロールし、そのとき流れる微小電流を正確に測る。すなわち刺激装置、電流増幅器、記録装置(オシロスコープ、ペンレコーダーだけでなく保存のためのテープレコーダーも必要)を時間正確に同期させて動かさねばならない。

あとあとパソコンが普及してパッチクランプは簡単になったが、パソコンの実験室での利用は1980年代終りからで、機器のコントロールはまだ少なく、1993年にシンシナチでアンプとパソコンをつなげて使う専用の測定・解析システム、p-clampを初めて知った。

1990年の大地研の装置というのは、アンプの信号をオシロスコープでみながら、後々の解析のためにテープレコーダーに電圧変化として記録する。1秒以内で終わってしまう信号(電流波形)をオシロスコープの画面を暗闇の中、開放しっぱなしのカメラで撮るのである。

チャネルの開閉はタンパク質であるチャネル分子の揺らぎである。
1ミリセカンドのオーダーで穴の周辺が揺らぐことで電流が流れたり止まったりする。単一チャネルの測定なら、たった一つのタンパク分子の揺らぎがリアルタイムで見られる。

大地先生はこの単一チャネルの測定を1秒ずつ、何百回も測定するうち、頻繁に開く回(available状態)と全く開かない回(unavailable)が、固まって起こり、ある時間パターンで繰り返すことを発見された。つまり穴の部分の揺らぎではなく、もう少し広いチャネル環境が揺らいでいるのである。だから時定数も長い。

こうした実験では数秒、数十秒単位で手動操作が入るから、ストップウォッチが必要なのだが、先生はテープレコーダーに1,2,3,4、、、、60、、、、120と吹き込んで、お経のような声を聴きながら実験されていた。この肉声ウォッチは5分バージョン、10分バージョンもあったような気がする。
そしてアンプからの電圧データをテープに記録するときは、カラオケと同じマイクを持ってコメントを一緒に吹き込んだ。

9月になると、たった一人だった大地先生の下に、三菱生命研・工藤佳久先生のところから中村健くんが助手として着任した。
彼には半年前の生理学会(宮崎)で初めて会ったばかりだった。同じ福田英臣研究室出身の関野祐子さんに紹介され、居酒屋で飲んだ。他に三菱生命研・小倉明彦氏などもいた。
中村氏は福田研の最後の学生だった私の従弟・小林恒文を知っていて、毒性薬理研究室が中枢から長尾先生の循環に変わって苦労していると同情していた。

中村氏はカレーには付き合わず、また我々が大先生として崇め奉っていた大地先生にも何も遠慮なく、普通に(対等に)口をきいていた。
ちょうど筒井康隆の「文学部只野教授」を読んでいて「俗っぽくて、くだらないんですけど、意外と面白いです」と勧めてくれたことを思い出す。学会の口演では新聞に挟まっている広告紙の裏に原稿・メモを書いて来て読んでいた。

その後、師匠・工藤先生の移籍先、東京薬科大学に行かれた気がする?が、惜しくも若くして亡くなられた。
大地先生の下でのパッチクランプの業績は知らないが、工藤先生のもとでの培養細胞や海馬スライスのCa画像、そして光ファイバーによる深部脳細胞Ca計測はよく知られている。
年下であったが、太っ腹な人間で、声や表情は今でもよく覚えている。

大地先生はずっと一人で実験されていたが、2002年定年後、2004年東邦大に移り、2008年渡米、UC SanDiegoで再びパッチクランプの実験を始められた。さらに2年後New York Medical College 、そして南アラバマ大学でも相変わらず顕微鏡をのぞいて心筋細胞にガラス電極を刺していらした。

渡米されてから二回ほどアメリカ生物物理学会の会場でお会いした。
既に世間は、新規遺伝子を導入した組換え細胞を、電気生理も分からない素人研究者が自動パッチクランプ装置で簡単に電流を測る時代になっていた。
しかし先生は、40年前と同じ心筋細胞を材料に「まだまだ、面白いことが残っています」と嬉しそうに話されたことを思い出す。
どんな研究者でも気にする地位名誉に関心がなく、ひたすら研究だけが好きという方だった。
坂上から。12:35 建物はA棟(新研究棟)

この日、何十年ぶりかで油坂を訪れた。
当時はこれが名のある坂とは知らなかった。
両側がともに大きなビルとなり、油坂の東、5号館にあった生理学などの研究室は、坂の西、地下食堂の建物などをつぶしてできた新研究棟(A棟)に移っていた。
新研究棟は2019年に完成したばかり。

油坂を歩いた当時、私は34歳。
先生とは研究以外の話題、家庭のことや世間話など、なれなれしく話せなかった。
63歳になった今、先生に色んなことを聞いてみたいがお元気だろうか。
と思って検索したら、facebookのアカウントがあった。
最終更新日は2015年だった。


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