2019年12月11日水曜日

薬師坂、新発田学生寮、石坂、清水橋

今年は有給どころか休日出勤の代休すら、ほとんど取らなかった。
そこで何も用はなかったが、白山、本郷の散歩のために休みを取った。

自転車だと家に戻らなくてはいけないので歩いていく。
家を 9:37に出る。
向丘二丁目、住友銀行の交差点から西へ。
南天堂 2019-12-11 9:49
かつては一階が書店で二階がレバノンという喫茶店だったそうだ。
戦前、近くに住んでいた宮本百合子、林芙実子、平林たい子、大杉栄、伊藤野枝ら、作家、アナーキストのたまり場だったという。
今は4階建て、二階が学習塾になっている。

旧中山道 白山上交差点
この辺りで一番の繁華街。
昔は歩ける近所に職場、友人、みんなが住んだ。しかし歩いていけないところもある。
地下鉄のなかった時代、文京区というのは国鉄の駅が1つもなかったわけだから、都電の停留所が中心となる。
都電の白山線は、水道橋から北上、坂下の指ガ谷町から上がってきてここで中山道に入り巣鴨に向かった。
お茶の水から北上する本郷通りの都電・駒込線とも近い。
南天堂などが流行った時代はさぞかし賑わったことだろう。

薬師坂(浄雲寺坂、白山坂)9:52
薬師というのは坂上の妙清寺の薬師堂のこと。
妙清寺の写真を撮ればよかったが、過ぎてしまった。
写真で見ると大したことがないが、いつも途中で自転車を降りるくらいの坂である。

左手に都営三田線白山駅がある。
東洋大学が近いからマックやCOCOSカレー、カラオケなど若い店が多い。

薬師坂の別名にある浄雲寺というのは坂下にあった。
明治43年となりあう心光寺、浄雲寺が合併して浄雲院心光寺となり、いまは単に心光寺とよばれる。
浄土宗心光寺。
樹木もあり落ち着いている。
ん? この石畳は・・・都電の線路の敷石ではないか?
根津、千駄木でも不忍通り沿いの裏の路地に入るとこの石が敷いてある。

白山通りの裏路地にも例の敷石。9:59
私道を挟む家々が共同で運んだのだろう。
花崗岩だろうか?

白山通りを南下、ホームセンター・オリンピック、紳士服コナカの一葉終焉の地を過ぎて言問通りの終点、西片交差点までくる。
10:08
着々と進む文京区役所北側の巨大複合ビル工事
文京区のイメージではない。
ここを東大側に左折。
興善寺をすぎたあたり、私道のような乱雑な路地が気になり入っていくと正面、崖を背に新発田育英会学生寮。

いまや越後新発田はただの地方都市だが、かつては秀吉の時代から明治まで続いた溝口家新発田藩の城下町だった。戊辰戦争のときは長岡米沢など周辺の佐幕藩に押し切られるも、途中で西軍に味方したため、しこりを残した。
この寮は、明治32年、12代藩主・溝口直正や新発田出身の大倉喜八郎らが中心となり、藩出身の師弟教育のため本郷に「発新館」として、寮生を受け入れたのが始まりという。
(写真を撮りわすれた)

すぐ東に西片のお屋敷町に上がる坂あり。
石坂 10:12
案内板はあまりいい文章ではない。
明治期の新撰東京名所図会しか引用していないが、阿部家の屋敷から本郷菊坂田町へ降りる坂として江戸時代からもあったようである。

坂は大きく曲がり、途中で休憩する建設関連の人々がいた。

再び言問い通りに戻る。
このあたり、石井炒り豆店など古くて個性的な店が多い。
家々の間から西片台地がみえる。

清水橋 10:20
そもそも江戸時代、この言問通りはなく、菊坂のような谷が阿部家中屋敷と本多家下屋敷の境になっていた。
だから道も坂もなかった。
明治になって両側が住宅地となり、谷に道ができたとき、崖を削って谷から坂道を作るより橋を架けるほうが選ばれた。

清水橋は明治13年に初めてかけられた。
当時は空橋(からはし、伽羅橋)といわれた。西片に住んだ武田五一設計、阿部家が資金を出したときく。
一葉が上野の図書館や谷中の田中みのこの家から帰るときなど、新しく開かれた弥生坂をのぼって、この坂を下り空橋の下をくぐって菊坂や丸山福山町の家に帰った。(森まゆみ「一葉の四季」)

昭和12年前後に四代目のコンクリート橋。
そして、つい2019年3月に今の5代目になったという。
2年に一回くらいしか通らないので気が付かなかった。
このくらいだと歩道橋の工事くらいですむ。
清水橋の上はいかにも西片という家々

ちなみに清水橋を反対側の本郷6丁目にすすめば六辻のような広場に出る。
三角広場とか宮前広場というらしい。

ふたたび言問通りに下りて東に登っていく。
坂名はない。
明治にできたし、ゆるやかだし。
強いて付ければ阿部本多坂、いや阿本谷(あほんたに)坂かな。
さらにあがると西片二丁目交差点
ここまで来ると本郷通りとの交差点、農学部の交番のあたりが見える。

阿本谷坂上、西片側から本郷側をみる。
本郷側の坂道にはいるとすぐ右手に木造下宿本郷館があった。
2011年に解体され、今は同名のマンションが建っている。
坂名をつけるなら本郷館坂だな。

阿本谷坂の南側をおりていく。
(やっぱり坂名があった方が便利)
ちょっとのぞけば本郷6丁目の高台と崖が見える。

清水橋の本郷側に慈愛病院がある。
そのわきに階段。10:32
上にリヤカー式ベビーカーで数人の子供を運んでいる女性が難儀していた。
えっ? ここおりるの?と思ったら途中で曲がった。

上がったら保育園があった。
慈愛病院の経営らしい。
慈愛会坂とする。

さらに阿本谷坂を下る。
新坂 10:36
クスノキ坂と名付けようと思ったら地図に名前があった。
ここも江戸期は本多家の屋敷だったから明治になって開削し、安直な名前にした。
いったい新坂という名前はいくつあるのだろう?
文京区だけでも6つあるらしい。
福山坂、S字坂、外記坂、ここ、あとは小石川区?

まっすぐいけば三角広場に行く(なんせ六辻だから)
坂の上のほうに旅館・太栄館があった。

大栄館は石川啄木ゆかりの宿として知られる。
啄木は明治41年に北海道から上京、金田一京助(鐙坂にいた?)の世話で、当時、蓋平館別荘といったこの下宿屋に住み、9か月後に喜之床に移った。
昭和10年頃太栄館と改称。
昭和29年に失火で焼失。建て替える。
2014年6月閉館
いまはマンション。

千駄木に引っ越してからもっと散歩すればよかった。
しかしブログを書き始めた今でこそ、写真を撮るために出かけているが、当時は特に出かけようと思わなかった。
だから変化にも気づかず、いつまでもあると思っていた。

言問通りに戻り、少し上がると木造の建物がみえた。
大栄館の裏あたりになる。

別ブログ
2019年11月17日 曙坂、浄心寺坂など、一葉、円乗寺、大圓寺

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