2019年12月8日日曜日

神田明神・女坂の謎、湯島坂、昌平坂、傘谷坂

12月7日、湯島で朝9時から用がある。
早めに行って散歩した。
神田明神下 2019-12-07 8:19
神田明神境内の東側にある明神会館の裏である。
境内で見れば落ち着いた平屋だが、ここからは見あげるほどの4階建て。
崖斜面を下まで削って建てたようだ。
神田明神というのは近年、境内に観光客相手のエドッコをオープンしたようにヤリ手である。

食品だろうか、朝から何か段ボール箱を運んでいた。
まさか店舗として貸し出したのではないだろう。
明神会館での結婚披露宴の食材かもしれない。

神田明神男坂 8:19
銭形平次がいたころは坂がひとつだったから明神の石坂と呼ばれた。
他の坂のような土ではなく石段でできていた。
復元江戸情報地図(朝日新聞社)

それが男坂になったのは女坂ができたからだ。

8:20 すぐ南に明神女坂
しかし男坂より急峻なのになぜ女坂か?
女坂というのは、女性の柔らかいイメージからも着物での登り易さからも、なだらかでなくてはならない。
2019-12-07
しかも上がったら「坂のホテル・トレティオお茶の水」(写真右)があり、境内ではない。
二重の意味で明神女坂の資格はない。

調べたら、明神女坂というのは、明治になって北の蔵前橋通りに降りる北(裏)参道の石段ができたとき、従来の東に降りる石坂と区別するために男坂、女坂としたのが始まりらしい。このときは長さが男坂12間、女坂17間だから、確かに女坂のほうが緩やかだった。

それがいったん廃止になり、東側の坂一つだけとなったのに坂名は男坂のままだった。その後、南に並ぶように石段坂ができたとき、急峻で境内にも続いていないのに「男坂」の対として女坂となったようだ。
廃止になった旧女坂の場所には再び石段ができた。今の北参道の石段である。
神田明神北参道 2019-05-24

8:22
新女坂から上がると細い道は境内に続く。
大鳥居から出て湯島聖堂との間の道を下る。
旧中山道、国道17号である。
坂は湯島坂。
8:24 湯島坂上から
東大周辺の本郷がかつては湯島本郷と言われたように、湯島郷は駒込に隣接する大きな地名だった。中山道は日本橋から出発してここで初めて本郷台地に上がり、板橋まで尾根道をゆく。湯島坂という大きな坂名こそ、ここにふさわしい。
坂下から。
なお、中山道も国道17号も昌平橋を渡るが、中山道は湯島坂下から神田川に曲がり、17号は少し先の神田明神下交差点で曲がる。

昔は聖橋、万世橋ともなく、そのあいだに昌平橋、筋違橋があった。
ふたつとも江戸城側の火除地(八辻原)に入る。

8:27 神田明神下交差点のすぐ先は秋葉原。
17号、日本橋まで2kmという標識。
すなわち、一里塚のあった東大農学部前の本郷追分(高崎屋前)と日本橋の中間地点ということだ。ということは千駄木の家から3.8km。ご近所の範囲としては一番遠いところ。

8:28 湯島坂を少し上り聖堂の脇を下る。
昌平坂である。
数年前、自転車で中山道を日本橋まで行ったときは湯島坂をまっすぐ降りたので、昌平坂を通るのは初めて。
なにか心惹かれる公衆便所
こういう狭いところはきれいに保つのが大変だ。
そういえば湯島聖堂の反対、西側の道路にも便所があったな。
区立便所だろうか?
なお、この坂から西、湯島聖堂から文京区、東は千代田区の神田になる。

8:30 坂下に昌平坂の石柱

湯島聖堂の昌平坂側は樹木が茂っていたのだが・・・・
どこもかしこも木を切ってしまう。

聖堂の南側は相生坂。
初めて通ったのは高校3年生夏休みの東京見物のとき。

江戸のころはこちらも昌平坂といったようだ。
昌平とは山東省曲阜県の郷の名。孔子の生地。

8:31
湯島聖堂はいつも開いていると思っていたが、開門は9時だった。
そういえば以前夕方来たとき閉まっていた。

聖堂の裏に出て、東京医科歯科大学と東京ガーデンパレスの間、本郷通をいくと新嬬恋坂を上がってくる蔵前橋通りと合流する。
そこを北へ入る道がサッカー通りとなっていた。
多分ここは初めて歩く。
学生時代は、坂がない2本西側の通りを使っていた。
8:41 サッカーミュージアム
いつできたのだろう?
ここは三洋電機のビルだったらしいが日本サッカー協会が2002年日韓ワールドカップの黒字130億円などをもとに2003年に購入、展示施設も作ったらしい。

このサッカー通りは谷底に下っていく。
神田明神と嬬恋神社の間の谷(ヤマトタケルの入り江)は、新嬬恋坂をあがらなければ、ここにつながる。
この谷を傘谷と言い、サッカー通りを上り下りする両坂を傘谷坂というらしい。
(ずっとカサダニと読んでいたのだがカラカサダニというらしい。確かに昔はカラカサと言って、カサはハイカラな呼び方だった)
8:42 
谷底から北へ上がり始めたころ、湯島二丁目の交差点に手術器具の夏目製作所。
なつかしい。こんなところにあったのか。
94年ころから培養した組換え細胞で実験するようになって、すっかり使わなくなったが、生体から微小標本を採るときはここの眼科用マイクロばさみに世話になった。

北側の傘谷坂の上から南を見る。
かつては傘を作る職人が多く住んでいたというが、明治になって東大ができると、竜岡門、鉄門から春日通を挟んですぐ南になるこのあたりは、医学生たちの下宿や(雁の岡田青年ですね)医療機器メーカー、医学書出版社などが多くできた。
いまも見れば夏目製作所の他に、三昌製作所、泉工医科工業、西野医科器械、南江堂、協同医書出版、東京医療秘書福祉専門学校、などが傘谷坂周辺にある。

8:44
このあたり昔は湯島新花町といった。
文京区の銘板を読めば新町屋とお花畑から1字ずつ取ったとか。

明治25年の日本薬学会会員名簿によれば、丹羽藤吉郎が新花町98番地に住んでいた。
彼は東大製薬学科の第1期生、明治11年に卒業後下山順一郎、丹波敬三とともに母校に残り、二人が留学中は一人で薬学科を守った。

そろそろ行かなくては、と道を東にとったら寺にぶつかった。
8:47 霊雲寺 初めて来た。
近くの湯島天神は何十回も行っているのに、通り道でないというだけで来なかった。

綱吉と柳沢吉保の元禄時代、現在地で建立された。
幕府の庇護を受け、本堂の他に、総門・潅頂堂・地蔵堂・大元堂・観音堂・鐘楼・経蔵および学寮を有し、周囲に土塀を巡らした江戸時代の名刹であった。
廃仏毀釈を経た明治末でも敷地内に塔頭が3つあった。
しかし関東大震災、太平洋戦争で二度焼け、本堂、総門その他ごく一部が再建された。

境内には入らず、三組坂をくだって仕事に向かったという30分の散歩であった。

別ブログ 
20190601 神田明神エドッコと新開花
20190526 湯島の坂・実盛、ガイ坂の謎、日本武尊の嘆き



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