2019年12月23日月曜日

医科歯科大と昌平黌、お茶大の校名

12月11日、休暇を取って散歩。
目的は坂道の写真を撮るため。
家から歩いて白山上から西片、菊坂と本郷台地の西縁を南下、坂道を上り下りしてきた。
台地も終盤、順天堂大学から東京医科歯科大に至る。

2019-12-11
ここも盛んに工事中。
いま学校というのは公立、私立、中高、大学問わず、私企業、官庁と比べて特に拡張工事が多い気がする。医科大は病院も合わせてさらに顕著ではないか?

すっかり変わってしまったが、2001年12月、佐々木成先生を地下の古い研究室に訪ねた。先生は腎臓内科が専門であるが、水チャネル aquaporin-2をクローニングされ、当時は助教授だった。
そのころ私は、脳浮腫の抑制あるいは便秘、下痢などの薬を目指して世界初の水チャネル阻害物質を探そうとしていた。細胞は浸透圧を変えると膜の水チャネルを通して水が出入りする。この現象を塩素イオン指示薬MQAEによって、96-384穴のマイクロプレートで分光学的にモニターする、すなわちランダムスクリーニングが可能なアッセイ系を構築したところだった。
水を入れると数秒のうちに蛍光が増え、ショ糖で高張にすれば下がっていく生のトレースを見せると褒めてくださった。

翌月、2002年1月にはここでアクアポリンのシンポジウムだったか講演会があり、Peter Agre が来た。まさか彼が翌2003年にノーベル化学賞をもらうとは思わなかった。

・・・
御茶ノ水駅にはいかず、外堀通りを東へ進む。
ゆるやかに相生坂を下っていく。
聖橋の手前、左の階段を上がると橋の上、本郷通りに出る。
近代教育発祥の地という案内板がある。
1690年以来、幕府の昌平坂学問所があった。

幕末、ここ昌平黌では国学、儒学を、一ツ橋門外「護持院原」(現在の神田錦町)の開成所(蕃書調所)は洋学を、下谷和泉橋の医学所では医学を調査、教育していた。
明治維新後、これら幕府直轄3機関のうち、昌平黌の場所には、学校行政を担当する「大学校」(のち「大学」)が置かれ文部省のような機関となった。後ろ2者は、それぞれ「大学」からみて南、東にあるので大学南校、東校となり、東京大学の前身となる。

明治5年(1872)さらに師範学校がここに設立された(翌年、各地に師範学校ができたため東京師範学校に改称)。明治7年にはその西、お茶の水橋のたもとに東京女子師範学校ができる。それぞれ明治19年には高等師範学校令により高等師範学校となった。

二つとも大塚に移転、その代わりに今ここにある東京医科歯科大学は、
1928年 一ツ橋の旧東京商科大学校舎を借りて設置された東京高等歯科医学校を始まりとする。校長・島峰徹は明治の医学界に多い長岡出身。
1930年、 お茶ノ水の東京女子高等師範学校跡地に移転。
1944年、医学科を設置、東京医学歯学専門学校となった。

明治11年 実測東京全図(文部省地理局)

女子師範学校のほかに書籍館(しょじゃくかん)がみえる。
明治5年開館。
「東西10間(約18メートル)、南北8間(約14.4メートル)の建物の2階に閲覧所が設けられていた。蔵書は、約1万3千部、約13万冊を超えていたと伝えられている。開館日の8月1日の記事には「コノ日ヨリ借覧人来ル」とあって一般の関心も高かったようだ」(東京国立博物館公式サイト)
国会図書館の前身である。

なお、大塚にあるお茶の水女子大は、戦後1949年新制大学になったとき校名を変えた。ここにあった東京女子高等師範が地名から校名をとり、そのあと移転したと思われているが、違う。

東京女子高等師範は、1923年の関東大震災で校舎を焼失した後、この名前のまま大塚に移転した。戦後、名前を変えるとき、奈良女子大があるから東京女子大あたりが無難だったであろう。しかし東京女子大は一足先(1948?)に杉並善福寺の南にできていた。大塚女子大は塚の字が縁起悪いとされたらしい。東京女子教育大、小石川女子大、文京女子大(文京区は1947)も候補に出ただろう。しかし20年前に去った、発祥の地、お茶の水を大学名とした。

ちなみに一橋大学も震災で1927年東京商科大学の名前で国立に移転、1949年に新制大学となったとき20年以上前の所在地、一橋を校名とした。もっとも国立(くにたち)大学では紛らわしい。

両者とも今思えば校名選択に違和感あるが、お茶の水とか一橋は、OBだけでなく世間にとっても長い間これら学校の代名詞だったのであろう。
東京医科歯科大の東の縁、この石垣はいつのものか。
向かい(左)の湯島聖堂と同じだから、この道(本郷通り)を作ったときだろう。
聖橋が関東大震災後の震災復興橋の1つで、1927(昭和2)年に完成したから、そのあとか。
goo地図(明治40年)
駅は御茶ノ水橋の西にある。
教育博物館は上野の帝室博物館と関係あるがよく分からない。震災ですべて焼失。
復元江戸情報地図(朝日新聞社)
学問所、馬場、遠的稽古場が今の東京医科歯科大学。
聖橋、本郷通りは、すべて震災焼失した師範学校と聖堂大成殿の間を通したようだ。

これをみれば本郷順天堂発祥の地、今の一号館は旗本、内藤外記の屋敷である。
この日の散歩で1時間前に立ち寄った外記坂の上は、内藤家の別邸だろうか。
知行地、埼玉菖蒲町に陣屋があった。


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