2019年12月14日土曜日

壱岐坂、東洋女子短大、こんぴら坂、かつ吉

12月11日、散歩だけのために休暇をとった。
千駄木から白山下、西片丸山の下、菊坂、弓町をすぎ、東富坂をおりて外記坂の写真を撮った。
ふたたび白山通りに下りて新壱岐坂下を過ぎる。
新壱岐坂 11:23
なお、昭和30年代までの旧住所では、この壱岐坂が南北に本郷弓町と本郷元町を分けていた。
しかし新住居表示では(後で書く)建部坂からクスノキ・瀬川邸のラインで東西に本郷2丁目、1丁目と分けている。
町内会などもあるだろうに、なぜこのように分けたか不思議である。

壱岐坂(切絵図ではイキトノサカ)は東富坂と同じようにかつてはまっすぐだったが、大正12年の震災後の復興計画で昭和に新壱岐坂が作られた。北の東富坂と並行に、斜めで広く傾斜も緩やかになったが、市電は通らなかった。
新壱岐坂を登らず白山通りを水道橋方面に歩くと、ゴーカートのような車に乗る集団。
暴走族の卒業生かと思ったら、全員外国人で、英語でない言葉をしゃべっていた。

もとの壱岐坂のあたりには何本か細い道があるが、どれもあまり傾斜がない。
歩いてもつまらない。
11:29 
壱岐坂を新壱岐坂との交差点まで上がると東洋学園大学の壁画。

11:31
東富坂と違い、壱岐坂は旧道でも急な部分が少しもない。
大震災のあと、斜度がなくなるように区画整理してしまったのだろうか。

案内板には小笠原壱岐守とある。
確かに幕末の小笠原長行は壱岐守であるが、養父の長国は佐渡守。
嘉永年間の小笠原家下屋敷は春日通りの方にあり、この坂からは離れている。
坂名は切絵図よりずっと前のようである。

東洋学園大学は新旧壱岐坂の間にあったが、壱岐坂の北にも新キャンパスができていた。

1926(大正15)年、東洋思想学者・実業家の宇田尚によって現在地に東洋女子歯科医学専門学校が設立された。
しかし戦後の学制改革により女子の旧制歯科医専は歯科大学への改組を認められず、1950年に閉鎖される。
同年、歯科医学から英語・英文学(英語科教員養成)へと転換、東洋女子短大が設立された。

1979年、女子の友達が欲しかった私は昼休みに学園祭にきてみた。
あとからフジキヨ藤井清孝が来るはずだったが、なかなか来ず、構内も狭くて正面玄関をはいってロビーみたいなところで一人きまり悪そうに待っていた。
結局、女子学生に声をかける勇気はなかった。

東洋女子短大は2005年から生徒募集をやめ、共学の東洋学園大学に改組された。
校舎もすっかり新しくなり、昔の面影はない。

壱岐坂上の東洋学園大学を横目で見ながら、すなわち三角形キャンパスの二辺をまわって再び新壱岐坂をこえ、本郷元町に入る。

文京区は春日通りの南は湯島も本郷もオフィスビルばかりで一般住宅がないから歩いてもつまらない。
11:34 
桜蔭学園の北側に白山通りへ降りる坂アリ。
江戸時代、この辺り青山家上屋敷で道はなかった。
仮称・こんぴら坂
南側(写真右)に元町二丁目の町内会館、元二親和会館、
さらに水道橋こんぴら会館。
坂下に金刀比羅宮東京分社があった。

なお、神仏習合時代は金毘羅大権現、
明治以降神仏分離後は金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社となった。
その総本宮が讃岐の金刀比羅宮で、その分社という意味である。
11:37
この金毘羅さんは昔からあったわけではない。
ここは高松藩松平家下屋敷があった。

深川古石場のこんぴらさんが戦災で焼失、金毘羅の本場・讃岐の高松藩の邸内社であった水道橋金刀比羅神社と深川のこんぴらさんを合わせ、昭和39年、現在地に建てられた。

讃岐高松藩といえば、駒込の本郷学園をつくった松平家である。
最初ここに旧制中学を作ろうとしたから「本郷」学園となったのである。
(別ブログでかいた)

最初、降りてきた坂を高松坂にしようと思った。
しかし帰宅後調べると、どうも坂は北隣の美濃郡上八幡、青山家の上屋敷の敷地のようでもあり、こんぴら会館からこんぴら坂とした。

白山通りにちょっと顔を出したら「かつ吉」があった。
11:39
川端康成も来たという名店。
ここは1978年、後楽園スケートの帰り、薬剤部の山田裕子(やすこ)さんに教わった。
2016年1月に何十年ぶりかで入ったら美味しかった。

家を出てから2時間も歩いている。
直線距離は大したことないが、あちこち寄っているから疲れて来た。
目的地がないというのは、いつやめるか難しい。


別ブログ
20191211 石坂、新発田学生寮、新坂、阿本谷坂
20191212 梨木坂、本妙寺坂、菊坂と女子美
20191214 本郷弓町、啄木、クスノキ、切絵図の外記坂
20190715 本郷学園はなぜ豊島区か?

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