2020年5月2日土曜日

神田川、妙正寺川、分流工事の航空写真

高田馬場の西のほう、新宿区の落合という地名は、神田川と妙正寺川の二つが落ち合うところからきた。

国土地理院
地形図を見れば当然合流すべきだが、いまは合流していない。
というか妙正寺川は暗渠化して途中で切れている。

しかし自然地形として、谷で川が分かれて存在することはあり得ない。
本棚にある昔の地図を見てみる。
45年前、東京に出てきて初めて買った地図(1975)
西武線下落合駅のすぐ東で二つの川が落ち合っている。

1995 埼玉で買った地図
このときは妙正寺川が川筋をかえられ、合流していた部分が点線になっている。

ネットで航空写真を見てみる。
1963-06-26撮影 国土地理院
昭和38年、妙正寺川は西武線をくぐり神田川に合流。
まだ新目白通りはない。
1979-11-16撮影 国土地理院
二つの川はまだ合流しているが、妙正寺川には新しい川道がつくられてた。写真では西武線の北側、新しくできた新目白通りの南側に、今の川が掘られている。

つまり、70年代から80年代に、洪水対策であろう、大工事が行われたのである。

現地に行ってみる。
高田馬場駅早稲田口から早稲田通りを渡ってさかえ通り商店街に入る。
入り口のアーケードに東京富士大学とある。
商店街の看板のようでもあり、ベタな大学名といい、いい味出している。
商店街が終わり田島橋までくるとすぐ大学があった。

2020-04-30 
なんと神田川をまたがっている。
左は高田馬場三丁目、右は下落合一丁目となる。
振り向けば山手線が走っていた。
左にエステー、すこし下流には三宝製薬、科研製薬、大正製薬もある。化学会社が多い。

田島橋から神田川の北を歩くと左にも校舎。
高田記念館というが、川の北は高田ではなく落合だろう、と思ったら創立者の名前だった。
1943年、各種学校として東亜学院設立、
1951年、富士短期大学設立。初代理事長は高田勇道
2002年、東京富士大学設立。
なお、西武の山川、外崎などを輩出、野球で名をあげた岩手花巻の富士大学とは関係ないらしい。(富士短期大学の第2代理事長だった二上仁三郎は、富士大学の理事長を務めたことがある)

95年の地図を見れば、短大時代からほぼ同じ敷地を持っている。

そのまま歩くと妙正寺川に出た。
新しく掘られた部分である。
妙正寺川の辰巳橋から下落合駅をみる。


辰巳橋から下流を見る。
2流に分かれるのか、たんに中隔なのか。

この右手前、橋の下あたりに神田川のほうから放水路の出口がある。

落合橋北詰めから妙正寺川
上流の橋は氷川橋。

落合橋を渡り上落中通りで踏切を越える。
西武線下落合駅のホームが見える。

下水道局、落合水再生センターの隣にできたせせらぎ公園

せせらぎ橋から水再生センターを見る。
昔も今も妙正寺川と合流する前の神田川。
上流はここで大きく左(南)にカーブしている。

この橋は2014年12月28日、中井の向こうから高田馬場まで歩いたとき渡ったことがある。新宿区落合第二地域センターでの競技ダンス練習会の帰りだった。

せせらぎ橋から下流を見ると岸壁に穴が開いている。
普段は流れていないが大水のときの放水路のようだ。
妙正寺川にあいていた穴が出口だろうか。
ふたたび確認に行く。ちょうど橋が架かっている。

新堀橋
しんぼりと読む。日暮里にはにいほりと読む人がいる。

放水路は高田馬場分水路というらしい。

新堀橋北詰
放水路の上は道路になっている。
あまりいっぱい書いてあり読む気がしない。

辰巳橋北詰めから。
高田馬場分水路の出口は先に通った辰巳橋の南詰め。
ぐるっと回ったことになる。

しかしこの妙正寺川は地下に潜ってどこへ行くのだろう?
いずれにせよ、辿れないので神田川に戻る。

こちらは神田川の落合橋。下流を見る。

このあたり川に沿って歩けず狭い路地を進む。

東京富士大学の田島橋のところにもどる。
さかえ商店街の途中で神田川を渡る。
清水川橋
山手線が見えた。

新目白通りに出て東へ歩く。
線路をくぐり、山手線の内側に出る。
交差点をすぐ南に折れる。
神高橋 かみたかばし
手前が西武線、向うがJR
神田川は蛇行し渓谷のようである。

あれ!?
高田馬場駅の近くの橋で神田川と妙正寺川暗渠が合流していた記憶がある。
勘違いか。
ここじゃないとすると下流の明治通りの高戸橋だったか。

すぐ近くにダンス教習所、二葉会のあったことを思い出した。
神高橋からすぐ、西に入り線路の土手(右)際のビル。
外に看板はなかった。
つぶれたのかな。

ビルに入る。そうそう、柳屋ビル。
案内板に双葉会はまだ書いてある。
3階に上がってみる。

営業自粛しているのか誰もいなかったが、開いていて声が聞こえた。

2002年9月入会、2005年1月に競技パートナーを見つけて練習場にいくまで週2,3回通った。
18時半頃退社、19時半からフロアに立ち、顔見知りになった人に踊ってもらい練習した。
22時に終わり急いで着替え、山手線、埼京線、川越線で帰宅。23時半。

狭い路地の坂を上がり駅前に出る。
このあたり変わっていない。
組もうとした人とダンスの帰り、右の角のマックでお茶を飲んだこともあった。

2020-04-30
若者と外国人の多い町である。

高田馬場駅前 18:20

双葉会に立ち寄ったら、明治通り、高戸橋の妙正寺川の合流点を見に行くのを忘れた。

帰宅後、川の「落ち合い」、すなわち下落合駅、辰巳橋付近の鳥観図をみる。
妙正寺川の新しい川筋を作り(下の写真、右)、そこへ上中央の神田川から、地下を通って高田馬場分水路が右下で合流している。かつての妙正寺川のあとも、右上から左下にかけて何となく斜めの線が残っている。
2019 google 東から見る

昭和30,40年代、合流地点は両方の川の流れがぶつかって滞り、よくあふれたらしい。
泉麻人の実家はすぐ近く、下落合の高台である。子供のころ大雨になると大人たちが「~ちゃんちは大変ね~」と優越感でのんびり話していた、とエッセイに書いている。

神田川・善福寺川、妙正寺川・江古田川。
神田川水系の戦後の治水は4本分の水が集中するここの大工事から始まった。
すべてを集めた神田川の水量を減らすため、建設中だった新目白通りの下にバイパスをつくり、高戸橋まで2本にし、妙正寺川の部分はそちらに流した。

田畑が市街地に変わるにつれ、現在の治水工事はさらに西へ、上流へ進んでいる。


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