2020年6月14日日曜日

頼朝ゆかり牛天神境内の春日タウンホーム

6月4日、伝通院から安藤坂を下り、牛天神に寄る。
別ブログ

安藤坂から東に入ると金沢のような雰囲気。
2020-06-04 11:59
道の北側は特別養護老人ホーム(もと小石川区役所跡)

北野神社に突き当たる。別名牛天神。

神社の西
水道通りから神社の西をぐるっと回る上り坂は牛坂という。
普通なら牛天神坂あるいは天神坂だろう。
牛がつながれていたか、牛の像があったのではないかと思わせるような変な名前。

神社の北
交通量も少なく雰囲気ある坂道
12:01
狛犬の間を通り本殿前にでると牛が二匹いた。

神社公式サイトによれば、源頼朝が奥州藤原征伐の途中、この地に休んだとき、夢の中に牛に乗った菅原道真公が現れ、願いが叶うことを告げたという。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とし、大宰府天満宮より魂を勧請した。
変な伝説だが、地形的に見て、ここは小石川台地の南端。見晴らしが良いから砦に最適で、泊まったという可能性はある。昔は海が入り込んでいたのなら船でここまで来れる。

二匹の牛

その牛に似た自然石、頼朝のねがい石は今もあるらしいが、見損ねた。
ガーゼを境内の水で濡らし、石牛の口元に触って気を入れ、ビニール袋などに入れて持ち帰り、枕の下に入れて寝ると、願いが叶うという。

そもそも、天神様は牛と関係があり、菅原道真が死ぬとき「自分の遺骸を牛にのせて人にひかせずに、その牛の行くところにとどめよ」と遺言した。それゆえ、湯島天神、北野天満宮は牛の像があるのだが、ここは道真以前に牛がいたということか。
境内を圧するようなビルあり。
見れば天神様の梅のマーク

牛天神会館とある。社務所?
しかしマンションみたいだ。

裏に回るとマンション入り口。
春日タウンホームという。
1971年3月(築50年)、地上11階。
64.08m² 2LDKで3,083万円~3,826万円
賃貸しだと54m^2で13万円程度
牛天神との関係はよくわからない。

萩の舎の師匠、中島歌子の歌碑があった。
歌碑よりも崖から南の景色が見たかった。

北斎富嶽三十六景「礫川の旦」はここからの眺めを描いたという。
http://www.ushitenjin.jp/keidai/fugaku36kei.pdf

goo地図 明治40年
昔は西参道の石段、北からの入り口のほか、南に下りる石段があったようである。
富士山が美しかったであろう。

牛天神の裏口というか、牛坂上の北口

初めてここに来たのは、伝通院のところでも書いたが、埼玉に住んでいた2005年11月27日。
後楽園ホールでのダンス競技会のあと、徳川慶喜旧宅まで歩こうと、礫川公園から富坂を上がった。中央大学をこえて何の気なしに細道に入ったら牛天神があった。そのあと安藤坂を上がって傳通院に向かった。

牛坂上からその道を逆に行ってみる。
筑波大学付属大塚特別支援学校
名前からして大塚にあったのだろうが、最初は東京高等師範学校附属小学校第三部補助学級といった。
1964年に大塚からここに移転したのだが、名前は東京教育大学附属養護学校だった。
1978年に筑波大学附属大塚養護学校となったらしいが、このとき大塚は関係ない。
移転して大分たってから故地の名前を付けるのは、お茶の水女子大、一橋大と似ているが、こちらは大塚を名乗る必然性が小さい。

なおも歩くと古いレンガ塀。三井邸の跡だろうか?

と思って回り込んだら常泉院という寺だった。
これは三井邸以前からこの地にある。

立体的な寺である。

常泉院むかいの中央大学は樹木の剪定をしていた。

引き返して牛坂を下り、水道通りに出る。
12:13
一瞬外堀通りかと間違えるほど広い都道牛込小石川線
右は通ってきた水道通り。

小石川税務署の西側が空き地になっていて、崖の上に牛天神と境内のマンションが見えた。
空き地はジャパンビバレッジ中央営業所があったようだ。
江戸時代はここまで牛天神の敷地だった。

12:17
左は丸ノ内線が地下を走る高台。右は名勝後楽園。
水戸家上屋敷のち陸軍砲兵工廠を分断するように戦後できた道路だが、敷地の北から4分の1くらいのところを通っている。屋敷が高台にあったとしても、高台部分は十分広く、改めて水戸屋敷の広さを思わせる。本郷加賀屋敷と同じくらい、10万坪あった。

ラクーア、後楽園遊園地、東京ドーム

講堂館前を通ったら嘉納治五郎像があった。
12:20
5月17日、東京高等師範跡、占春園で見た銅像と似ているかどうか不明。

ここから家まで2.7㎞だが、本来の目的、東大で調べものをしようと富坂をあがった。
しかしコロナで図書館は閉館。
昼飯は家で食べた。


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