2020年6月7日日曜日

井上哲次郎旧宅、無量院、処静院など

小石川台地の東側を歩く。
前回は慈照院の南の坂(大久保坂)を下りたので、千川通りから西に入り、大久保坂の南の坂を上がる。

別ブログ
20200526 湯立坂、銅御殿、団平坂、
20200524 智香寺の引っ越し、東京教育大と文理大
20200523 養育院、大塚公園、白鷺坂と地形

無量院坂
戦前までこの坂下に無量院という寺があった。

明治42年 伝通院裏に無量院とある。
白い空白は別の地図を見れば墓地のようだ。

浄土宗大辞典によれば、薬王山能覚寺。開山は勝願寺円誉不残の弟子光誉宗吞。慶長一九年(一六一四)宗吞が江戸神田猿楽町に庵室を結び、隠棲中、徳川家康が鷹狩の際に来訪し、宗吞が家康の郷里三河の内藤右京の孫であることを聞き、神田の土地を寺地として寄進し、そこに無量院を建立した。明暦三年(一六五七)の大火により堂宇焼失し現在の地に移る。中興開基松平信綱、中興開山恢誉などの努力により寺運隆昌となったが明治維新により一時衰退、昭和三四年(一九五九)四月、功徳林寺(東京教区№一八八)に合併して無量院は廃寺となる。

幕末まで境内5500坪の大寺だった。

斜面は伝通院の裏山であったが、明治になって宅地となり、一本道が開かれた。そして下に並行する無量院墓地の境道から上の道を結ぶ坂道ができた。
ゆえに無量院坂とする。

昭和7年 無量院はだいぶ小さくなった。
さらに昭和20年の空襲で焼け、今は何の変哲もない住宅地になっている。

坂上は静かな住宅地。
文京区らしい、こういう家も少なくなった。

東の崖側に公園がある。
区立井上公園
井上哲次郎(1856 - 1944)旧宅である。
1875東京開成学校、1877東京大学に入学、1880卒業(生徒総代として答辞)という世代である。欧米哲学を日本に紹介、帝大で日本人で初めて哲学の教授となった。
文学者の蔵は書籍が詰まっていたのだろうか。
今文京区は何を入れているのだろう?

国家主義者で、宗教に対する国家の優越性を主張し、内村鑑三が教育勅語で最敬礼しなかった事件ではキリスト教を非難した。しかし1927年著書で「三種の神器のうち剣と鏡は失われており、残っているのは模造である」とした部分が、頭山満ら国家主義者からも不敬だと批判され、公職を辞職。
土蔵二棟を含む南半分が公園となった。
北半分は普通の宅地になっている。
朝日を拝むことのできる崖の上だ。

井上公園の道を北に行くと五叉路にでる。
左から大久保坂が登ってくる。
11時はいま井上公園から来た道。
12時は真珠院、宝蔵院など塔頭をへて伝通院の西に上がる道。江戸絵図には伝通院の裏門が書いてある。
右の3時をいけば三百坂下に出る。
そして背中6時は、5月17日に歩いた光円寺明照幼稚園からくる道である。

この日は右の三百坂にいく。
無人のようだが惹かれる家

学芸大附属竹早小・中学にぶつかる。
5月17日、この通りの向こう、鷹匠坂を下りて光円寺にいった。
まっすぐな道は明治以降に開かれたように見えるが、江戸時代からあった。

尾張屋版切絵図に「三百サカ下トヲリ」とある。

鷹匠坂のほうにはいかず、三百坂を上がる。
この坂と手塚治虫「陽だまりの樹」については別ブログに書いた。




三百坂上
ここも工事中。どうやったら景観は保たれるだろう?

元あった家を基準にして、敷地を細分化しない、建蔽率容積率を変えない、という開発なら環境は破壊されない。文京区もそういう条例を作らないだろうか?
広いところは高くて売れないから自然と値段も下がり、取引も成立するのではないか?
広い土地家屋を持っている人がより高額な現金を手にする必要はない。
土地投機はなくなり、地価抑制にもなるだろう。

三百坂上のクランク(曲がり角)は、今も江戸のまま残る。
豪邸ではないが手入れされた品のある家々。


法蔵院
このあたり、伝通院の塔頭、寮が並んでいた。だからこの坂は寺内の道で、北に下ったところに裏門があった。江戸切絵図だとここに法蔵院はなく、宝蔵院が道の東側にある。
坂を下ると左に真珠院。これは絵図にもある。
そこで真珠院坂とする。
東都小石川絵図 東京都立図書館

伝通院は塔頭ともども明治になって荒れ、空襲にもあった。
このあたりは清河八郎らが浪士組を結成した処静院のあったところ。
清河、山岡鉄舟らが取締役、7番隊まで234名のなかに近藤、土方、沖田らもいた。伝通院から京都に出発、のちに近藤らは清河らと離れ壬生浪士組、のち新選組を作った。

伝通院山門前の手前に広場があった。
昔は処静院の場所だが、今は文京区が管理しているようだ。ここは何だったのだろう? 
明治42年、昭和7年の地図には学校のしるしがある。
つい最近まで関東財務局小石川住宅があったらしい。

伝通院山門近くの門柱は処静院のもの。

2012年3月に再建された山門
江戸時代は中門であった。

伝通院に初めて来たのは埼玉から2005年11月27日。
後楽園ホールでのダンス大会のあと、東京都戦没者記念館から慶喜旧宅まで歩いた。
その時この門はなかったわけだ。
次に来たのは千駄木から自転車で2015年9月21日。
善光寺坂の幸田邸を見てこの門前に来た。

この表参道の延長は半蔵門の西辺りだが、昔は左前方にお城が見えたことだろう。

山門前の参道脇に浪越指圧治療センター
浪越徳治郎(1905 - 2000)の銅像は分かるが、右手親指の像が目立つ。
彼の生前に作ったものだろうか。
かつて学寮が軒を並べた場所である。

別ブログ
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20200318 善光寺坂とムクノキ、幸田露伴から四代
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