2020年9月18日金曜日

花園神社とゴールデン街、思い出横丁

9月13日歌舞伎町の噴水広場、コマ劇場の跡に行き、ブログを2つ書いた。
その続き。

区役所通りを東に越えると、四季の路という遊歩道がある。
都電の跡。
初めて歩いたのがいつか記憶にないが、1996年ころ清藤さんと歩いている。


1995年頃からしばらく、私の人生では珍しくよく映画を見た。
全部新宿だが、コマ劇場周辺ではなく靖国通り周辺が多かったか。

・たった4日間の思い出を死ぬまで秘めた不倫 The Bridges of Madison County,  
・竜巻で牛が水平に飛び、気象学者がミニロボットを放出する Twister,  
・ジュラシックパークほどの感動はなかった Lost World,  
・殺人犯を護送する飛行機が乱気流に巻き込まれる Turbulence,  
・大統領専用機がハイジャックされ、最後のセリフがいい Air Force One,  
・これをみたあとビデオを買ったら子どもたちもはまった Titanic,  
・Eメールが始まったころの You Got a Mail
これらの時代。

四季の路の東側はゴールデン街。
駅前などにあった戦後の焼け跡闇市がここに代替地をもらって移ってきたらしい。
2020-09-13
作家、映画、芸能関係者など文化人が集まったというが、今の時代はどうなんだろう?

1979年の別冊アングルをみると、店舗名がそのままのものと変わったものとある。
バブルのころの地上げで出て行った店もあったらしい。
(その後、保存運動がおこり、町は維持され空き家には新しい店が入ってきた)
いまは店主老齢化にコロナの追い打ちで閉店もあるだろう。

東南の隅、すなわち一番靖国通り沿いの、いちばん奥にハングリー・ハンフリーがあった。
一度この店に来たことがある。
昭和56年、1981年11月15日、山本芳邦さんがウィスコンシン大学に留学する壮行会だった。
アルバムを見ると合田幸広、平尾哲二、鈴木岳之諸氏などの顔が見える。

ゴールデン街はウナギの寝床のようにカウンターだけ、狭いところに難しそうな店主と常連客、というイメージ。しかしこの店は広くて、他の店とはずいぶん違った。
だから実質、ゴールデン街で飲んだとは言えない。

ゴールデン街の先、東に花園神社が見える。

ゴールデン街まで歌舞伎町1丁目で、道を挟んで東の神社側が新宿五丁目となる。
しかし1978年までの旧住居表示では両方とも新宿区三光町といった。
1975年、東京に住み始めて買った地図。


本殿は1965(昭和40)年に建てられた。

近江屋版 嘉永4年
左下の空白が高遠藩内藤家屋敷、右上に「花園イナリ社 別当三光院」とみえる。

江戸開府のころはもっと南にあって内藤新宿の鎮守であったが、寛政年間に朝倉筑後守の下屋敷になってしまったため、尾張家下屋敷の一部であった現在地に移転。もと花が咲き乱れていた庭の一部であったことから花園稲荷神社とした。

ここには明治に廃寺となった三光院があり、別当もつとめたことから、三光院稲荷とも呼ばれ、ここから旧町名の三光町が生まれた。

2020-09-13
90年代後半に来たとき、やはり境内で骨とう品を売っていた。
日本海海戦で東郷平八郎と幕僚が三笠艦上に立つ有名な絵が出ていた。
新聞の切り抜きだったか、雑誌の付録だったか、誰かが絵の複製を額に入れて飾っていて、片付けで捨てたような汚れた代物だった。値段は覚えていないが、買おうか迷った記憶がある。

22年前と同じ業者が同じ品物を出していたりして。

てっきり花園神社は靖国通りに南面していると思ったら、東の明治通りだった。
この日初めて勘違いに気づいた。


駅まで戻って、いちばん古い新宿の記憶を思い出した。
西口の焼き鳥横丁だった。
ガードをくぐったところ。
このあたり、昔は待ち合わせの人も含め、人々が大勢たむろしていた。

今青梅街道は大ガードのある靖国通りの延長というイメージがあるが、本来は内藤新宿の追分、重宝院子育稲荷、いまの都立新宿高校のあたりから分かれ、新宿通りからこの狭いガードを通る道筋である。

角筈地下道という。
かつてこのガードは臭く汚かった。

ガードを出ると横丁はまだ残っていた。
やきとり横丁は思い出横丁に改名されていた。
昔は正式名称を知らず、西口のしょんべん横丁といった。
焼いた煙が両側から充満、地面も舗装されていたかどうか。
今はそこそこきれいで外国人が喜びそう。

1979年別冊アングル
40年前と同じ店がいくつかある。
2020-09-13
1975年7月10日ころ。上京3か月の大学1年。前期の定期試験は9月なのだが、教員の都合なのか科目によっては7月に試験があった。それが終わってクラスの数人でなぜか渋谷を越えて新宿に出た。
6年上の小宮山達郎さんは学校群制度のころの新宿高校出身、一度就職してから再受験、入学された。たぶん彼の案内で来たのだが、いっぱい店がある新宿でなぜここだったか?
値段もあるだろうが、まだ昼だったから空いているのがここだったということもあろう。

2020-09-13
せまいL字型カウンターに梅沢順氏ら数人。
(竹野直人、加藤欣司、関口洋一、川腰肇、吉野諒三諸氏らがいたかどうか?)
ビールに焼きナスを食べ一人早めに席を立った記憶がある。たぶんそのまま長野に初帰省したのだろう。この夏は、学割のきく高校生のうちに始めてしまった自動車教習所の卒業期限が迫っていた。
昭和50年。まだ18歳だった。

その後、通り抜けたことは2,3度あるが、店に入ったことはない。
45年間一度も寄らなかったのだから、もう死ぬまで機会はもうないだろう。

昭和54年10月発行

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