2021年1月25日月曜日

日銀、三井本店、三越はなぜここか?

 1月24日、朝からの雨が一時的に止んだ。

神田駅から日本橋川を海まで歩く。

それは別ブログに書く予定。

線路に沿って南下、すぐ外堀通り、新常盤橋北詰で日本橋川にでて左を見ると重厚な建物。

2021-01-24 13:17
日銀本館の西側(外堀通りからみる)

日本橋川と日銀の間の外堀通りを少しだけ歩く。

復元中の常盤橋(下流のものと区別するため常磐橋と石の字を使うらしい)
工事中で渡れない。

旧常盤橋の下流にある常盤橋北詰
江戸五口の一つ、常盤橋御門は最も保存状態が良く、見学したかったが次回に回し、日銀のほうへ交差点を渡る。

左、日銀本館、右、日銀分館。

13:20
本館の設計は、東京駅でも有名な辰野金吾。
明治23年着工、29年に完成した。
関東大震災では倒壊しなかったが付近の火災でドームやフロアの一部が燃え、のち復元された。
政府機関なのになぜ大手町でなく、日本橋だったか?
日銀は明治15年(1882年)隅田川永代橋(今の橋より北方にあった)のたもとに開業したが、手狭なうえ、都心から遠かったので早くも翌年には移転が決まった。
いまの場所は、江戸時代に金座のあった場所。さらに常盤橋を渡れば大手町。橋のたもとに大蔵省印刷局、少し行けば大蔵省だった。当時は鉄道線路がなかったから、ここと大手町は今よりずっと一体感があった。

また明治13年の東京市内の銀行は24行で、そのうち日本橋区20行、京橋区 4行、すなわち日本橋は、交通の要所だけでなく金融・商業の中心だった。

東京市の地価(明治35年、区内1坪の最低~最高)をみれば一目瞭然。
山手線(明治18年)の開業していた明治35年ですら、西の赤坂の地価など日本橋の10分の1近い。その西の新宿、渋谷などは江戸、東京のうちに入らなかった。
徒歩の時代は市内でも区の差が激しい。

麹町 0.08~4.32
神田 0.28~13.35
日本橋0.60~29.55
京橋 0.11~6.83
芝  0.11~9.27
麻布 0.09~5.03
赤坂 0.07~3.49
四谷 0.07~5.19
牛込 0.07~3.00
小石川0.07~3.09
本郷 0.07~5.35
下谷 0.09~7.71
浅草 0.05~9.76
本所 0.10~7.26
深川 0.03~0.50
「朝日新聞100年の記事にみるー東京百歳」

本館の向かいは日銀分館
貨幣博物館になっている。月曜定休。

入場無料なので入ってみた。
コロナ体温センサーだけでなく空港なみの手荷物検査がある。
驚くのは係員の多さ。この日は見学者はほとんどいないのに、外の階段上に一人、中でセキュリティーチェックの説明、聞き取りをする人、荷物をトレイに入れる人、金属探知機の脇でX線の画像を見ている人、もう一人くらいいた気がする。入るまでに4~5人はいらした。
池袋にあったころの造幣局博物館はほとんど無人だった気もするし、王子の国立印刷局博物館もあまり係員はいなかったと思う。
展示は2階、撮影禁止。
階段で振り向きパチリ。
上がるといきなりヤップ島の巨大な石の貨幣。
生活には使えないから先祖代々の家宝のようなものか。
この日は海まで行くつもりだったから先を急ぎ、あまり見なかった。


ところで支店は各都道府県にあると思ったが、
1882 明治15年10月に本店、12月に大阪支店、
1893(明治26年)- 全国2番目の支店として函館支店と西部支店(下関、のち北九州に移る)
1894京都出張所(1911支店昇格)
1895名古屋支店
1899福島出張所(1911支店)
1905広島出張所(1911支店)
1909金沢出張所(1911支店昇格)
1914年(大正3年)新潟支店・松本支店
1917年(大正6年)熊本支店・秋田支店
1918年(大正7年)松江支店
以後、松山(1932)、仙台(1941)、札幌(1942)と増えていく。

なにやら旧制高校の設置に似ている。
松本と長野の日銀誘致合戦、松本と新潟の旧制第九高等学校の誘致合戦を思い出した。
戦後も増え、32店である。

この日は寒かった。
貨幣博物館をそこそこで切り上げ東に急ぐ。
13:34
日銀の隣は三井本館(左)。右は三越本店。

明治40年頃
三井本館の場所には三井銀行、三井物産の文字が見える。
石へんに戸は見たことない字だが、三井御三家と呼ばれた三井鉱山だろうか?
日本橋川は曲がるところで道三掘と外堀川が交わり四つ角のよう。
いまはすべて鉄道の駅を中心に考えるが、昔は人も荷物も船を使った。
五街道の起点であり、水運の要所。ビジネスの中心になったのは当然である。

13:35
三井本店の前は三越
この百貨店の名前はもちろん三井高利が開いた呉服屋「越後屋」からきている。

伊勢の商人、三井高利(1622~1694)の祖父高安は、守護大名・六角佐々木氏に仕えていたが、六角氏が信長に敗れ、父高俊は刀を捨て商人となる。越後屋は高安が越後守を名乗り、伊勢の店も「越後殿の酒屋」といわれたことから名づけられた。

高利は江戸に奉公に出て修業したが、伊勢に帰り、その後息子たちを江戸で修業させた。高利52歳の時、修行していた長男を独立させ、今の三井本館の場所、日本橋駿河町にあった店を借り、呉服店を開いた。

三井広報委員会公式サイトから
西を見て左、今の三越、右、今の三井本館の場所


さて2021年、東を見て歩く。
三井本館(1902明治35年)は関東大震災で被災したが、その場所で建て替え、昭和4年(1929)に竣工。名前通り、三井財閥の拠点だった。

今は三井住友銀行日本橋支店である。
本店は大手町(旧住友銀行?)
ほかに三井住友信託銀行日本橋営業部、三井不動産本社が入る。
そうだ、ここは半沢直樹、東京中央銀行のロケ地でもある。
今日は日曜だが、いつもはこの扉は開いているのだろうか?
なかに赤じゅうたんの階段があるのかな?


13:36
三井本館の前は三越本店の裏

中央通りに出る。
かつて日本橋を出た中山道、日光街道、水戸街道がここを北に向かった。
いまは国道4号、6号、14号、17号だが、国道の埃っぽさは全くなく、銀座よりも洗練された街並み。昨年からテレビで三井不動産が盛んに宣伝していたが、日本橋コレド室町や三井タワーなど新しい東京の顔となっている。

13:38
南、日本橋方面

三越本店
銀座三越は1頭でコロナマスクをしていたが(別ブログ)、こちらは2頭。

ブランド物の店が並ぶ
この三越本店は2017年5月に千駄木からママチャリで来たが、気後れして入れなかった。
(別ブログ)
今回も外から眺めただけ。
結局私の人生は、せいぜい駅ビルか大宮のデパートくらい、今でも上野松坂屋どまりで、銀座、日本橋の三越には入れなかった。

13:39
三越の向かいに山本海苔店の本店発見。
13:41
1849年(嘉永2年)現在地で創業。
山本陽子との長年CM契約はギネス世界記録という。

しかし両側の新潟、奈良のアンテナショップは老舗の多い日本橋より銀座、有楽町のほうが似合う。
ちなみに山本山(1690元禄時代、日本橋で創業)は別会社。

13:43
 日本橋交差点でもういちど渡り振り返って三越本店。
大正3年(1914)、三越呉服店時代に鉄筋コンクリート、ルネッサンス建築として竣工。
「スエズ運河以東最大の建築」いわれた。
関東大震災で一部焼失するも改修増築、
昭和10 年(1935)には現在の姿になったという。

13:44 日本橋
日本橋川に戻り、川べり散歩を続ける。


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