2023年6月1日木曜日

中野殺害事件の江部、石垣きれいな赤岩集落

5月25日に発生した長野県中野市の4人殺害事件は私の実家のすぐそばだった。

立てこもり実況放送中に実家へ電話すると、容疑者には妹がいて私の姪と同じ陸上部だったので、よく知っているという。

平野小学校を中心に現場は左、我が家は右
同じ小学校の学区内で、西江部の事件現場と岩船の実家は、西の端と東の端だから距離を測れば1.9キロメートルだが、小学校からは800メートル、我が家の下の田んぼ(今は畑)からも1.0キロメートルである。

全員農家の30人2クラスの小学校時代、とくに仲が良かった丸山たかおちゃんちのすぐそば(数軒先)。たかおちゃんとは、お互いの家を行ったり来たりしていた。あのあたりの川には泥ッ貝がいたから、自転車も乗れない低学年のころから一人で遊びに行っていた。
丸山タカオちゃんと依田トシカズちゃん。たぶん5年生ころ。

あれから5,60年経つ。
江部の部落の世帯数は大して増えていないが、母屋、物置の建て替え、田んぼのほうでは水田から畑への転換があり、エノキダケ栽培小屋やビニールハウス、ブドウの棚などができ、テレビで見る景色はすっかり変わっていた。水田がなくなったことに加え、車社会と機械化に伴う農道拡張により水路が縮小、消滅、今の人は泥っ貝やシジミがいたことなど想像すらできないだろう。
(持ち帰った泥っ貝は、家の池で大事に飼っていた。大人はカラスガイと教えてくれたが、いまネットで画像を見ればドロガイのほうが近い気がする。音も似ているし)

実は事件の5日前の5月20日、中野に日帰りで帰省した。

体が不自由だった母が、2月、2018年以来3回目の脳梗塞の発作を起こし、今度は重くて右半身不随、認知症となった。
4月まで入院、面会もできないというので、見舞は5月まで延期されていた。
誰が誰だかわからなくなってしまった母を見舞っても仕方がないのだが、介護している弟と彼の嫁さんを労うのが一番の目的だった。

妻と息子も一緒。
新幹線は速い。早く着いてしまっても迷惑かと、小諸、上田、須坂あたりのどこかで途中下車でもしようかとも思った。付き合いで来てくれる二人への少しばかりのサービスでもある。
しかし、毎日大変な思いをしている弟夫婦のところへ行く前に観光というのも不謹慎な気がして、結局朝のんびり家を出て11時半ころ中野の実家についた。

ちょうど弟が畑でとった蕨を叔母(母の妹)の家に持っていくという。することもなく、ずっと家でお茶を飲んでいるのも(とくに息子は)気づまりなので、ついていくことにした。

母の妹は中野市赤岩という部落に住む。
母の実家の柳沢とともに、信州百名山の高社山の裾野斜面に広がり、昭和29年の中野市成立前までは下高井郡倭村大字赤岩といった。(江部と岩船は平野村)

道中、すっかり景色が変わっていた。長年大赤字だった長野電鉄木島線が廃止になって、かわりにリンゴ畑の中にバイパスができ、その両側に大型店舗や飲食店が並んでいる。

しかし、長野電鉄の赤岩駅跡をすぎ、赤岩集落に入ると昔ながらの景色が広がっていた。村の下のほうにあった高社神社に車を停めて歩いていく。懐かしさで写真を撮る。
2023₋05‐20 12:02
ずっと坂道が続き、弟と息子に遅れがち。
(ところで、google photoは、このピンクのシャツの後姿を息子と自動認識したのに驚いた。というか、恐れを感じた)
振り返ると夜間瀬川を渡る新幹線の線路がみえた。
トンネル、高架など、これも中野市北部の景色を大きく変えた。
全ての家は、母屋も物置も畑も石垣の上に立つ。

坂道は体力的に大変だが好きだ。
埼玉から千駄木に引っ越した理由の一つでもあった。
12:03
ほとんどの家は藁ぶき屋根にトタンをかぶせた北信濃の懐かしい姿。

あとで調べたら、この写真の横に通る道は谷街道(松代道)だった。
長野市の南、稲荷山から千曲川東岸を通って松代藩、須坂藩、中野陣屋、飯山藩を結ぶ、江戸時代、北信濃では北国街道よりはるかに重要だった道である。
小布施町から中野市に入ると、先に書いた江部集落を過ぎ、岩船集落の南(田んぼ)をへて中野の町に入り、夜間瀬川を渡って、この赤岩、柳沢を過ぎ、再び千曲川を渡って飯山の城下町に至る。むかし中野と飯山を結ぶ幹線道路だったと思うと、この部落の豊かさも分かる。
12:04
母の妹、ゆうこちゃんの家についた。
昼時だったので玄関の土間で立ち話。

12:11
帰るとき燕の話になって、巣を見せてくれた。
昨年、へびに襲われ、雛がすべて食べられてしまったという。
蛇は壁を伝って這い上ったため、今年はビニールを貼って防御している。
12:14
ゆうこちゃんちの石垣も古城のような長さと高さがある。
石垣に加え竹藪など樹木に囲まれているから蛇には絶好の生育環境。
弟は古い家が好きだからしきりにほめている。

12:17
ゆうこちゃんの夫がなくなったとき、老いた母を一人にしておけないと、東京で勤めていた末娘のよしみちゃんが帰って来た。いとこだが私とは年は離れていて祖母(母たちの母)の葬式のとき(1983年)会って以来。
独身で私より若くて東京にいただけあって、写真を送るためにラインをつなげようとしてもたもたしていたら、代わりにやってくれた。
素晴らしい景色の家だが、毎日いたら飽きるだろうし、わずか5.4キロしか離れていない岩船と違い冬は雪が深い。女二人で生活するのも大変だろう。
12:23
来た時と違う景色を見たいと、すぐ上の道を通って帰る。
ゆうこちゃんちの土蔵は、屋根裏がオープンになっていて横の梁の曲がりぐあいが面白かった。すなわち屋根が二重になっている。火事のとき上を取っ払うのだろうか?
12:25
ゆうこちゃんちの裏で水の音がした。村の中を高社山(たかやしろ)から小さな川が流れている。この川に沿って少しのぼれば天長2年(825年)創建の名刹・谷厳寺(こくごんじ)がある。2007年に訪ねたが、写真を撮らなかったから記憶は曖昧。もう一度行きたかったが、実家で女たちが昼食を待っているので今回はやめた。
12:25
谷厳寺からの沢の渡る向こうの家は、個人で石垣の橋を作っている。
12:26
よく見れば、どの家も草の下に古城のような石垣がある。

12:30
何かを建て替えるときに壊した石垣は、もう積む技術も資金もないのか、石が転がったまま。

このあたりは豪雪地帯が始まるところで、南のほうを「上(かみ)」、北の飯山方面を「下(しも)」といった。進学、就職、結婚は上(カミ)のほうに行かなくてはダメだ、と昔、赤岩の叔母さんが言っていたことを思い出す。
その結果、どんどん人が減り、過疎地域となり、しかし、そのおかげで岩船や江部と違ってこの美しく懐かしい景色が保たれているのかもしれない。
12:30
その赤岩から「カミのほう」、すなわち夜間瀬川の向こう、南の中野の町、岩船方面を見る。
西のほうは高岡・長丘の丘陵のトンネルから出てきた新幹線と、新しくできた斜張橋・平成橋が見えた。
手前左はブドウ畑。この辺りは西南斜面で水はけが良く、果物は岩船や江部よりも旨い。
右のナスかトマトの苗は寒さ除けにビニールの行燈をまとっている。
赤岩集落全景。
赤印は上の写真を撮ったところ
北の端に七つ鉢遺跡、東の端に谷厳寺、西に夜間瀬川。
12:30
写真を撮っている間に、弟と息子はどんどん先に行った。

12:31
この石垣などは石が大きいことに加え、ちゃんと「アール」をとっていて、下手なお城より立派。
車社会になって道路を広げる前はもっと風情のある辻だったのだろう。

12:32
桃畑の脇に筆塚という大きな石があった。
そのまわりは小さな石仏と傾いた墓石。墓石には玄行院修法信士、常修院妙・・・と彫ってある。
畑の邪魔ものとして端に寄せられたものなのか、説明文も何もない。

赤岩という集落は、今や過疎地域だが、七ツ鉢遺跡という縄文時代の巨大な共同石臼があったり、平安前期に創建された谷厳寺や、石垣を築いた富があったり、いま栄えている平地の岩船、江部などと違う、重厚な歴史を持っている。この道端の石碑も何かいわれがあるのだろう。
12:32
石垣の町は穴太衆の積んだ近江坂本が有名だが、信州高井郡赤岩の石垣もなかなかのものだ。
12:32 
高社神社(里社)
車を停めた神社に戻ってきた。

赤岩の隣は、もっと懐かしい母の実家がある柳沢の部落である。
しかし行く時間もない。

これから日帰りで実家に来ることは増えるだろうが、子ども時代を過ごした場所をのんびり歩き回る時間はあるだろうか。
事件のあった江部には私の通った平野保育園、平野小学校がある。

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