梅雨の中休み、土日に真夏日が2日続いたあと、
月曜は曇り、少し過ごしやすい。
午前中、家を10:15に出た。
六義園正門前、大和郷をへて巣鴨駅まで歩くと2.3キロメートル、29分。
その先の、おあばちゃんの原宿・とげぬき地蔵までは2.8キロメートル、36分。
しかし巣鴨駅周辺の飲食店のメニュー看板など見ながら歩いたから高岩寺まで43分かかった。
2023₋06₋19 10:58
「歓迎 池袋本町小学校のみなさま とげぬき地蔵尊高岩寺」
という看板をお坊さんが持っていた。
2.3キロの遠足か。子どもたちはちょうど帰るところだった。
お坊さんはどんな講話をされたのかな。
何も分からず連れてこられた子供たちは、ちゃんと話を聞いたかな。
とげぬき地蔵に初めて来たのはいつだろう?
30年近く前の1995年6月10日、駒込駅東口の英会話サロンMINICOに来た。
このころはダンスも野菜つくりもせず、古本屋めぐりが趣味だった。まだ埼玉の大宮プラザに引っ越す前、上尾の奥、伊奈町に住んでいた頃。東京の知らない街で珍しい古書を探そうと、駒込から巣鴨駅まで初めての道を歩き、さらに古書店を探しながら旧中山道を埼京線の板橋駅までぶらぶらした。
そのとき高岩寺とげぬき地蔵の前を通っているはずだが、記憶にない。
2012年には埼玉から巣鴨駅北口のダンス教室に数か月通っていたが、やはり記憶はない。
はっきりしているのは、千駄木に引っ越して同時に大学に転職した2013年。
大学では毎年在校生の成績や動向を卒業高校の先生にフィードバックすることになっていた。私は豊島区の高校が担当だった。2013年6月、巣鴨駅の東にある本郷学園から西の十文字学園に行く途中、広い国道17号を渡り、この寺の裏から境内を突っ切って商店街に出た。
以後、定年退職するまで9年間、高岩寺の北の脇の細い道か、前の商店街(旧中山道)か、どちらかを年に1,2回、通った。
おそらく10回以上この前を通っているはずだが、とげぬき地蔵を見たことがなかった。ちょうど来るときにトゲが刺さっていることもないから、高岩寺は、道路からちらりと見るだけで、中まで入ろうと思わなかった。
今回、初めて有名な「とげぬき地蔵」を見てみようと思った。
私の中のお地蔵さんといえば路傍あるいは屋外に立っている石像のイメージ。しかし境内には水洗い観音があるが、お地蔵さんはない。
本堂に行ってみた。
私は神社仏閣に行ってもお参りしない。
何かこだわりがあるわけではなく、立地と境内をみれば満足して、中まで見ようと思わないのである。今回初めて本堂に入ってみた。
11:02
お地蔵さんどころか仏像が何もない。
若いお坊さんがいらしたので聞いてみると、正面中央にかかっている白い紙のうしろに厨子があり、そのなかに小さなご本尊があるという。
「秘仏だから誰も見れないのですが、このお札に写したものがあります。これが実寸大です」って、親指より小さい。
本尊を写した御影
これがお札にもなるらしい。
それによれば、正徳三年(1713)高岩寺が上野屏風坂にあったころ、田付又四郎という武士が小石川に住んでいた。彼の妻は地蔵菩薩を信仰していたが、重い病になった。
彼が毎日祈願を続けていると、ある夜、夢に一人の僧が現れ、「私の姿を一寸三分(3.9センチメートル)に彫刻して川に浮かべなさい」という。彼がすぐにはできないというと、「では印像を与えよう」と言われ、夢から覚めた。
ふと枕もとを見ると地蔵菩薩が描かれた小さな印があった。そこでこの印に朱肉をつけ、紙片に1万体の「御影」(おみかげ)をつくり、両国橋から隅田川に浮かべた。すると妻の病が癒えたという。
その2年後、毛利家の屋敷で女中が誤って針を飲み込んでしまった。又四郎から地蔵菩薩の「御影」をもらっていた西順という僧が、たまたま居合わせ、その紙を飲ませると針が尊影を貫いて出てきたという。
そうか、針が「とげ」になったのか!
又四郎は1728年、この話を書いた霊験記とともにこの印を高岩寺に奉納した。
いま高岩寺ではこの印を本尊として祀っている。地蔵菩薩という仏像ではなく、印である。
そして、和紙に印じた「御影」を広く参拝者に配布している。
(ちなみに印ははんこ、印鑑は印を押して得られる図のこと)
昔はこの奉納されたハンコに朱肉をつけて紙に像を写し配布したのだろう。毎日のように何枚もペタンコペタンコ、何千何万枚もお札を作っていたら、秘仏とは言えない。ひょっとしたらハンコは何度も作り変えているかもしれない。
いまは、かつて和紙に押したお札をコピー機で複製するのであろう。元の木片は使わないから奥にしまって「秘仏」にすることも可能だ。
そのお札は、包みの中に4センチX1.5センチの御影が5枚入っていて100円。針もとげも関係ない人は、痛みがある場所にこれを1枚ずつ貼るようだ。
本尊はハンコ、とげの起源は飲み込んだ針。
10年経って初めて知った。
さて、私にとって新発見のあと、高岩寺を出て、旧中山道すなわち地蔵通り商店街を板橋方面に歩いていく。
11:05
昭和8年創業、もんぺ・はんてんの越後屋。
月曜の午前11時のせいか、人はあまりいない。
飲食店のほか、もんぺなど部屋着に楽な洋服などの店が多い。
11:09
ワンカップ大関、佐久間のドロップ、ペコちゃんのミルキー、懐かしい箱は、訪れる高齢者のための復刻版か? と思ったら、箱の中身は線香だった。見れば数珠などもあり、やはり老人相手の店である。(伊藤仏具店)
11:12
巣鴨と言えば赤パンツ。
マルジ商店は両側に4店舗あり、衣料品を売っているが、ここ4号店は「赤パンツ館」という。日の丸とよく似あう。
11:20 庚申塚駅
高校訪問のときは巣鴨駅からこの商店街を歩いてきたり、あるいは王子または雑司が谷から都電に乗ってきたこともあった。
11:22
駅のホームにある茶店のような「いっぷく亭」
和菓子がおいしそう。
唯一残った都電に実に似合う。
鉄道沿線の風景で頭に浮かぶイメージというものがある。例えば私にとって八高線は秋の柿の木である。都電荒川線(王子―大塚間)は、アジサイである。ちょうどその季節。
しかし、ここらは専用軌道のため、アジサイを探して線路を歩いていくわけにいかない。
11:23
いっぷく堂の前からアジサイが二輪見えた。
コロナ前とくらべ外国人が増えたようだ。
商店街の南の端、すなわち旧中山道が巣鴨駅のそばで17号から分かれるところまで来ると、歩いてきた商店街の地図があった。
11:38
巣鴨地蔵通り商店街
すっかりさびれてしまった霜降り銀座や田端銀座と比べ、この商店街は店も多く、元気だ。谷中銀座は観光客は多いが、商店に魅力がない。ここはとげぬき地蔵を中心に来訪者も多いから、店もやっていけるのだろう。
とげぬき地蔵と比べ、参拝者はほとんどいない。
真性寺の創建年代は不明だが、江戸時代、元和年間(1615年~1624年)に中興されている。ここには大きな傘をかぶり、杖を持つ地蔵があり、こちらは秘仏ではなく本堂前の屋外に堂々と座っている。江戸六地蔵として有名である。
江戸六地蔵は、江戸の六街道の出入口に置かれ旅の安全を見守ったという。品川寺(東海道、第一番)、東禅寺(第二番、奥州街道)、太宗寺(第三番、甲州街道、江戸三大閻魔もある)、真性寺(第四番、中山道)、霊巌寺(第五番、水戸街道)、永代寺(第六寺、千葉街道、廃寺)である。
地蔵菩薩というのは本来、釈迦が死んだ後、弥勒菩薩が現れる56億7千万年後までのあいだ、無仏時代の民衆を救済することを釈迦から委ねられたとされる。
しかし我々のイメージは、仏教というより生活に密着して、お墓の入口にある六地蔵や(実家・岩船の墓地にもある)、道祖神のように村はずれに立っている石仏である。決してとげぬき地蔵のように厨子に入った秘仏ではない。まだこちらの江戸六地蔵のほうが、イメージに合う。
真性寺に地蔵が建立されたのは正徳4年(1714)、すなわち将来とげぬき地蔵となる物体が田付又四郎の枕元に現れた翌年であり、お札の紙を飲んだ女中から針が無事出てきた年の前年である。そして高岩寺に霊印が奉納され、一般に知られるようになるのは10年以上あとである。しかも、このころ高岩寺は下谷屏風坂にあった。高岩寺が上野の区画整理のため巣鴨に来たのはずっと新しく、明治24年(1891)である。
だから巣鴨のお地蔵さんというのは間違いなく、真性寺であった。
・・・・
1時間半も歩き続け、さすがに疲れた。
無事帰れるだろうか?
ランチを巣鴨で食べると、歩いて帰宅する元気はなくなる。電車に乗っても降りてから坂道がきつい。そこで、来るとき駅でみた美味しそうな木村屋のサンドイッチを買って帰ることにした。帰るまで食べられないとすれば、疲れても頑張って歩くだろう。
11:47
巣鴨駅構内のキムラスタンド
木村屋総本店の直営である。
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