2023年7月8日土曜日

和歌山2 伏虎城の楠と野面積み

7月4日(火曜)、夜行バスで和歌山に来た。

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朝8時過ぎに和歌山市につき、真っ先にお城に向かった。
南海電鉄の和歌山市駅から南東に広い道を歩くと国道26号に合流、西汀町の交差点でお城の北西の角に出た。
8:29
歩道橋から和歌山城の天守をみる。
紀ノ川の河口の左岸、丘の上にある。
8:30
和歌山城吹上口(吹上門址)。護国神社の入口でもある。
ここから先は本丸、二の丸、南の丸、西の丸、砂の丸などの内城で、紀ノ川を最外郭に、市堀川、西外濠と何重にも囲まれている。
8:32
西の丸の野面積みの石垣が美しい。
8:33
わかやま歴史館は入場料100円と安いが、9時から。
意外に思われるが、実は資料館などはあまり興味がない。
雄大な石垣を前にすれば、9時まで待っている時間はない。
8:34
砂の丸から西の丸(左)と本丸(右)の間の谷に降りる。
鶴の渓(たに)という。
8:35 鶴の渓
左は本丸の石垣。古地図をみればアジサイの向こうは池であったようで城主の浅野長晟が鶴を放し飼いにしていたという。西濠がここまで入ってくるところを、池だけ残して空堀にしたのは、彼の時代の鶴のためだったりして。

和歌山城と言えば御三家の紀州徳川家であるが、それ以前は何代か変わった。

秀吉が紀ノ川中流域の根来寺、下流の雑賀(今の和歌山市域)の地侍連合をつぶし、紀州を平定したとき、ここに居城を築き、その山を若山(和歌山)と呼んだ。
最初の城主は彼の異父弟、豊臣秀長だった。(もっとも彼は大和郡山城を本拠にしたが)。普請奉行は秀長の家老だった藤堂高虎。土木家として優れ、黒田孝高(官兵衛、隠居して如水)、加藤清正と並び、築城三名人の一人と称される。

関ヶ原の後は、浅野幸長が38万石の城主となった。彼は秀吉政権の五奉行だった浅野長政の子であったが、石田三成と対立し東軍に与した。彼には子がなかったため、次弟の長晟が家督を継ぎ、ここで鶴を飼った。
そして元和5年(1619年)、福島正則が改易されると、浅野家はその後を受けて安芸広島42万石に加増移封され、代わって家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、大阪の後ろで西南の雄藩に備える紀州徳川家が成立した。
8:35
鶴の渓を二の丸のほうに歩いていく。
8:36 山吹の渓
石垣はゆるやかな野面積み。この古さが良い。
8:37
御橋廊下は二の丸(手前)と西の丸(向こう)を結ぶ。
江戸時代は藩主とお付きの人しか通れなかったが、今では誰でも無料で渡れるらしい。
外から姿が見えない造りだが、これでは歩きながら濠をみることもできない。
ここも9時からなので先を急ぐ。
8:39 二の丸跡
二の丸御殿は藩主の居住空間で、政治を行う表と、私生活の奥があった。
江戸城本丸が表、中奥、大奥と三分されると、和歌山も三分され大奥ができた。

ちなみに紀州徳川家から吉宗が8代将軍となったあと、吉宗の系統は13代家定で絶えてしまうが、紀州藩を継いだ(と言っても江戸にいて一度も和歌山に行かなかった)徳川慶福(よしとみ)が14代の家茂となった。

8:41
二の丸前の裏坂登り口(台所門)から本丸に上がっていく。
ここらの石垣は野面積みではない。
8:41
8:42 銀明水
8:43
この山は結構高い。
その姿から虎伏山(とらふすやま)と言い、標高標高48.9m。濠の水面がほぼ海抜ゼロメートルだから、15階建てくらいの高さか。

坂を上りきり、本丸御殿跡の矢印に沿って石段を上がったが何もない。
振り返ると天守閣が見えた。
本丸は、トラの背中のように二峰性になっていて、それぞれ天守閣と御殿があった。
8:44
本丸御殿から天守閣を臨む。
8:46
いったん虎の背に降りて天守台に登る途中、この山の地盤が見えた。
盛岡城の城山そのものが花崗岩の塊で、それを切り出して石垣としたように、和歌山城もこの石を使ったようである。層になっている石は泥質片岩のようだ。同じく多層で緑の結晶性の高く美しい緑泥片岩もどこかに使われていた気がする。

8:48
天守閣は昭和33年に市民の浄財で復元再建された。
入場料400円、9時からだが、特に入りたくもないので先を急ぐ。

8:51
てんてんてんまり、てんてまり、の「まりと殿様」の歌碑があった。
作曲は故郷信州中野の誇り中山晋平だが、作詞者の西条八十のほうが大きく出ている。
あれ?肥後が出てくるてまり歌って何だっけ? (答え:あんたがたどこさ)

ここからは市内がよく見える。

天守台からは登ってきた裏坂ではなく、大手門に向かって表坂を下りた。
8:53
途中、下(南の丸跡)に池があり、網がかかっている。鯉でも飼っていてカラスなどから守るためかと思ったら、和歌山城動物園(無料)の水禽園の鳥かごだった。400年前は鶴を放し飼いにしていたことを思い出す。

表坂の途中に大きなクスノキがあった。
8:54
大きさ比較のためにリックを根元に置いた。
こんな巨木なのに保護樹木でもなんでもなく、自由に登ることもできる(登らないけど)。
見上げながら今日は朝から何本のクスノキを見ただろう?紀州には楠がよく似合うと思った。

ふと和歌山市出身の博物学者、南方熊楠(1867- 1941)を思い出す。
Natureへの単著の掲載論文は51本、歴代最高記録保持者として知られる。彼は本名であるが、紀伊の位置を表す「南方」。熊野の「熊」、クスノキの「楠」と、これほど紀州を表す名前はあるだろうか?

8:55
二の丸などの平地に向かって降りる。
8:56
降りてきた本丸を見上げる。
8:57
岡口門(旧大手門)に向かう道の石垣は花崗岩だろうか。
きれいに表面がカットされた巨石を刃物が入らぬほど密着させて積んでいる。
9:00
伏虎像
この城山は海から見ると虎が伏せたような形という。
和歌山城の別名は伏虎城でも虎伏城でもどちらでもいいらしい。
どちらかに決められても市民は半々で間違えるだろうが。
初代の像は戦前に作られたが銅像であったため、金属供出された。
これは昭和34年に建てられた二代目。

伏虎像の前を西に歩けば、朝歩いた山吹の渓、鶴の渓に入る。

9:00
大手門から二の丸などに入る中門跡
表玄関らしく石垣は野面積みでなく、最高に化粧している。
大手門が見えた。
地図にはこのあたりに県の天然記念物の大楠があるはず。
しかしいくら探してもない。
掃除の人に聞くと笑って上を指さされた。
9:03
見上げれば確かに大きなクスノキ。
この上は二の丸。その端の石垣の際にあるようだ。
よく見ると石垣の下に看板だけ立っていた。
幹の周囲7メートル、樹齢450年、空襲の火災にも耐えたという。

近くで見られますか?と聞くと、伏虎像の前に藤棚がある。そこから入ると神社があるから、と彼もまた親切に教えてくださった。
9:05
言われた通り行くと、確かにあった。
9:06
しかし近づけず、さっきのリックを置いた名もないクスノキのほうが大きく見えた。

大手門から出て一の橋を渡り、ケヤキ大通りに出た。
9:11
大手門の外にあった昔の地図
内城部分だけを示している。
この絵図の外に三の丸があり、現在公園として残った内城部分は全体の4分の1しかない。
三の丸には県庁、市役所、裁判所から一般オフィスまでいろんなものが建っており、往時の広大さが分かる。
三の丸の範囲
図にある安藤、水野は紀州徳川家の付き家老であり、大名格であったから明治になって華族に列せられた。安藤は文京区伝通院前の安藤坂に名を残す。
9:15
大手門から和歌山駅に向かう途中、いかにも御三家の城らしい広大な東堀をみた。
向こうに重要文化財の(ということは空襲で焼け残った?)岡口門が小さく見えた。

今までいろんな城を見てきたが、国宝の犬山、松本、彦根より大きいし、名城と言われる熊本、仙台、姫路より濠が美しい。巨大な名古屋や大阪より古寂びて風情がある。見に来てよかった、と思いながら既に太陽が高く暑い中、来たほうとは反対の和歌山駅まで歩いた。

(続く)

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