2023年7月12日水曜日

和歌山5 高野口から九度山まで

高速夜行バスで和歌山にきた。
朝着いて、和歌山城と日前宮を見て、JR和歌山駅から紀ノ川沿いに走る和歌山線に乗って、途中の名手駅で降り、華岡青洲の里を歩いて、1時間後に再び電車に乗った。

つぎに目指すは高野山。
予定では、橋本駅で南海電鉄高野線に乗り換え、高野山のふもとの極楽橋駅まで行くつもりだった。

しかし地図を見たら紀ノ川の北岸をJR和歌山線で橋本まで東へ行った後、南海電車は橋本からヘアピンのように戻って川の南岸を西に戻ってくる。
これなら和歌山線の高野口駅で降りて、紀ノ川を渡り、南海電車の九度山駅まで歩けないことはない。
歩けば何かを発見できる。
九度山は時間があれば寄りたい場所だったし。
と、電車を降りた。
12:52
高野口の駅舎はそこそこ広い。2022年4月に無人化されたようだ。
普通は改札の場所にICカードのタッチ盤があるのだが、ここは何もない。
12:52
駅から出ると突然豪華な木造建築がありびっくり。
葛城館という。

乗ってきたJR和歌山線の紀ノ川沿い、すなわち和歌山―橋本間は、紀和鉄道として1900年に開通。ここには名倉駅が1901年開業した。高野山への玄関口として旅館が十数件建ち、駅前の2軒のうち一つが葛城館だった。正確な時期は不明ながら駅開業当時の建築とされる。

名倉駅は1903年に高野口駅と名を変え、明治後期から大正にかけては駅前に人力車が200台以上待機していたとされる。
しかし、1925年(大正14)、南海鉄道が南下していまの高野下駅まで開通させると、ここ高野口駅からの登山客はだんだん減少していった。

葛城館は旅館をやめた後1994年ころまでは宴会場として使われていたが、この年に営業を休止した。2001年に国登録文化財、2012年に保存修理が行われ、今は地元の橋本市が管理しているようだ。
13:04
高野口から炎天下を歩き始める。
登山道としての役割を終えて長年たち、賑わいはない。

13:11 紀ノ川に到達。
駅から1.4キロメートル、18分とあるところを19分で歩いたからまあまあか。

ところで標識を見て驚いた。
九度山橋はクドヤマバシだった。信号機を見てもクドヤマバシ。
小学生のころから老人の今まで、ずっと九度山をクドサンと読んでいた。
(確かにクドサンと入力しても変換されないがクドヤマなら一発)
13:11
13:14
対岸は九度山の集落。
九度山は山ではない。おそらく川から見た時に丘のように見えたのだろう。

歴史的には、高野山が不便な山奥の修行の場であるのに対し、そのふもとに位置し、中世以来、高野山領の行政や年貢の集積などは、ここ九度山の慈尊院に置かれた政所(まんどころ)が司った。このため九度山町は小さな城下町のようであったが、明治以降はその機能を失い、集落は古いまま残った。

もちろん私を含め大多数の人にとって九度山とは真田昌幸、幸村親子の蟄居地として知られる。
13:14
岩かと思ったら古い橋脚の残骸のようだ。
こういう写真を撮るときはいつもスマホが手から滑り落ちる気がする。
13:16
渡りきると左から来る丹生川との合流点が見えた。
標識がある。
「左丹生川、右紀ノ川」だと思ったら、和歌山県と国土交通省の河川管理の境界を示す板だった。こういう標識って必要だろうか?
13:18
橋を渡りきると右、慈尊院という案内板が見える。

慈尊院は、816年、空海が、高野山をひらいた時、高野山参詣のふもと、要所に当たる九度山に、表玄関として伽藍を建てたことに始まる。以後、高野山一山の庶務を司る政所、また、宿所、冬期避寒修行の場とされた。
834年、空海の母が訪ねてきた。彼は母をここに住まわせ、月に九度見舞ったことから九度山になったとか。彼女はその年に亡くなり、以降、慈尊院と呼ばれるようになった。
また、高野山は女人禁制であったから、女性はここまで来てお参りした。

慈尊院には行かず、南海電鉄九度山駅に向かう。
13:19
九度山の集落は、江戸時代と変わらないのではないかと思うほど道が狭い。
13:21
観光案内板はわざわざ「立て」なくともこのように道の脇に「置く」のがよい。
私も千駄木に来たとき、しばらく小さな板を表札代わりに下に置いていた。
13:22
真田ミュージアムは、もともと入るつもりもないが、定休日(火曜)で工事をしていた。
13:22
壁にあった地図で、来た道と、慈尊院の場所を確認する。
13:24
善名称院(真田庵)裏口。

1600年の関ヶ原の戦のあと、西軍に属した信州上田の真田昌幸、幸村親子は死罪とされたが、真田信之とその舅の本多忠勝の助命嘆願で、高野山への蟄居となった。
その後まもなく麓の九度山におり、この場所で過ごした。親子と家族、16人の従者の生活費は国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主浅野幸長からの援助があった。

昌幸は11年後にここで病死、幸村(近年は信繁が正しいとされる。通称は左衛門佐は1614年にここを脱出、大阪城に入り、大坂冬の陣、夏の陣で驚異的な活躍を見せ討ち死にした。
その後この屋敷(真田庵)あとに高野山真言宗の善名称院が建った。
13:25
中は寺院というより普通の屋敷のよう。
13:27
庭の真ん中に昌幸の墓があった。
真田昌幸は、7歳の時に人質として甲斐の武田に送られ、信玄の奥近習衆の一人となった。その知性知略は若いうちからすぐれ、曽根昌世とともに「信玄の両目のごとき者」と言われた。父の真田幸隆、兄の信綱、昌輝は武田二十四将に数えられ、家系的(遺伝的)に優れた知将であった。

兄二人が長篠で戦死した後、真田の家督を継いだ。武田家滅亡の後は信州で独立したが織田政権に組み込まれ、本能寺の後は、徳川、上杉、北条の間で生き残りをかけ画策した。1585年、2000の兵力で7000の徳川軍を迎え撃ち1300人を戦死させ大勝(第一次上田合戦)、以後、豊臣系大名の間で信州の独立勢力と認知される。

圧巻は、1600年の関ヶ原前夜、中山道を進んだ東軍別動隊、徳川秀忠率いる3万8千の大軍をわずか2000の兵で翻弄したことである。降伏すると見せかけながら挑発、抗戦し、結果的に秀忠軍は関ヶ原に間に合わなかった。

合戦というのは戦力の差が二乗で効いてくるだろう。
例えば、籠城攻めなど動かない標的を攻めるなら、単純に戦力に比例する。2倍の兵力で濠を埋めれば2倍の速さで進む。しかし、攻めてくるものが相手では防御に戦力を割かねばならず、攻められれば、こちらの攻撃力が減少する。だから2倍兵力あれば4倍の威力がある。
つまり合戦に至るまでの調略でいかに戦力差をこちらに有利にできるかが重要で、戦場での勇猛果敢さは意味がない。

その意味で、関ヶ原に布陣するはずだった3万8千もの軍勢を「ないもの」にしたというのは、かの地での宇喜田、小西、大谷、石田らの奮戦とは比べ物にならないくらいの功績(?)であった。勝っていたら真田は信濃、甲斐、上野、下野くらいもらえたかもしれない。
13:28
表門から出る。
私が真田を知ったのは小学生のころ、テレビである。記憶にあるのは屋敷を囲む生垣ごしに幸村が立っていたシーンであるが、いまは中が見えない土塀になっている。

13:33
再び丹生川を渡る。
丹とは「あおによし」の「に」で、赤い辰砂(硫化水銀HgS)のこと。
この名の川は全国にある。

未だ昼食を食べていなかった。
歩いてきた途中、飲食店はなく(ほとんど人もいなかった)、そのうち南海電鉄九度山駅に着いてしまった。
13:35
駅前にも何もなく、探しても良かったが、ちょうど電車が来るので先を急いだ。
10里を行くものは9里を半ばとす。
食べたら高野山に行くのが面倒になるかもしれないし。
13:36
ホームも真田の赤と六文銭だらけ。
信州の上田や松代より派手だ。
大河ドラマ「真田丸」以前はもう少し落ち着いた駅だったかもしれない。

真田昌幸ほどの知性があれば、豊臣恩顧の加藤、福島までついた徳川が勝つと見ていただろう。しかし西軍についた。長男の信之を東軍に行かせ、次男幸村を連れて三成の誘いに乗ったのは、大きな野心があったのではないか。

いったんは東軍についた黒田如水が天下の大乱は一回では終わらず、自分にもチャンスがあると九州で暴れていたように、昌幸も、二回戦は家康より人望も実力もない石田三成のほうが与しやすしと、いったんは西軍に勝たせ、不安定さを増して二回戦以降で天下をとろうとしたのではなかろうか。

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