2023年7月10日月曜日

和歌山4 紀ノ川と名手、青洲の里

7月4日、火曜日、高速夜行バスで和歌山にきた。
朝着いて、和歌山城と日前宮を見て、和歌山駅まで戻ってきてもまだ10時半。
十分時間があるので紀ノ川に沿って東にまっすぐ行き、高野山に登ることにした。

紀ノ川流域は平地の少ない和歌山県において唯一の平野である。
大和と海を結ぶ経路の途中であり、古墳時代から開けた。高野山にも近いから平安、戦国時代まで、根来寺など寺院も多かった。

この流域に沿ってJR和歌山線が東に伸びている。
和歌山駅を出て、高野山の入口である橋本まで19駅、62分、42キロメートル、860円である。
駅と通過時刻を列挙すると、

0 10:55 和歌山
1 11:01 田井ノ瀬
2 11:04 千旦
3 11:07 布施屋
4 11:10 紀伊小倉
5 11:13 船戸
6 11:16 岩出
7 11:19 下井阪
8 11:22 打田
9 11:25 紀伊長田
10 11:28 粉河
11 11:31 名手
12 11:34 西笠田
13 11:38 笠田
14 11:40 大谷
15 11:44 妙寺
16 11:47 中飯降
17 11:50 高野口
18 11:54 紀伊山田
19 11:57 橋本

どこかで途中下車して、紀ノ川沿いの、いかにも和歌山という田園を歩いてみたい。
どうせなら何か名所旧跡のある駅がよい。
1時間後に次の電車があるから、1時間見物できる。

2つ目の千旦は、松下幸之助生誕の地というが、和歌山市に近すぎる。
6つ目の岩出は、根来寺がある。ここは見てみたい。真義真言宗の豊山派、智山派の総本山である。
また、この寺は室町・戦国時代、寺領70万石もあり、対明貿易にも精を出した。この富があれば領地を守るための僧兵を多数抱え、戦国大名並みの軍事力を持てる。種子島に渡来した鉄砲2丁のうち、1丁を手に入れ、堺の鍛冶屋に複製品を大量に作らせ、関東の小田原氏など戦国大名に売った。また根来寺自体も、下流域の雑賀衆とともに抜きんでた鉄砲集団として信長、秀吉をてこずらせた。最終的に秀吉に焼き払われ、残ったごく一部の遺構(大塔、大師堂など)が城郭ともいえる広大な敷地に散在しているらしい。
しかし地図を見ると、駅から北の山のほうへ4.6キロ、歩くと片道1時間もかかる。
諦めた。

さらに紀ノ川沿いに思いをはせれば、42年前の1981年4月、田辺製薬に入社したとき、紀北青年の家で研修合宿した。オリエンテーリングなどもあり、地図を手に里山の細道を歩き回った記憶もあるが、調べると16個目の、橋本に近い中飯降(なかいぶり)駅から徒歩30分で、これも無理。

11個目の名手駅から徒歩20分に華岡青洲の旧居跡、墓などがある。私の知識は有吉佐和子「華岡青洲の妻」で得たことくらいだが、往復40分、見物20分。これならちょうど良い。

とにかく和歌山駅10:55発、奈良県の王寺ゆき電車に乗った。
平日のこの時間だから当然ガラガラ、観光客もいない。
2023₋07₋04 11:23
和歌山市、岩出市をすぎ紀の川市にはいり、8つ目の打田駅を過ぎる。
JR和歌山線は国道24号線とともに、紀ノ川の北岸を走る。

北方に和泉山脈の山々がみえる。
この紀州と大阪南部を隔てている山並みは、生駒・金剛山脈が南部で曲がったもので、葛城山脈とも呼ばれる。

この山脈は、信州諏訪湖から伊那谷の東、豊橋、渥美半島、志摩半島を経て阿波吉野川、伊予佐田岬半島から阿蘇、八代に至る大断層、日本列島を縦断する中央構造線の縁であるから、壁のようにまっすぐである。当然、断層でできた谷の紀ノ川平地も細長く、川も道路も鉄道も東西にまっすぐ。
11:24
何の木だろう。
和歌山は果樹王国で、2021年の生産高(収穫重量)は、みかん(全国シェア20%、1位)、梅(65%、1位)、柿(21%、1位)、モモ(7%、5位)である。
11:27 
10個目の駅、粉河到着。
手書きの案内板がよい。
「こかわ」といえば、田辺製薬時代の後輩、岡幸蔵くんの出身地でなかったか。彼は生化学が専門だったから、顔を合わせる機会は少なかったが、根来寺と真義真言宗について話したことがある。好青年だった。こんな田舎から京都大学に入ったのか。

数学者の岡潔(1901- 1978)は、やはり紀ノ川沿いで育ち旧制粉河中学から三高、京大に進んだ。岡君の親戚だったりして。
岡潔の随筆「日本のこころ」を何十年か前に読んだが、嫌なことがあったとき、冬の朝、真っ黒な土に太陽が当たっているのを見たら不思議と元気が出た、という話が記憶にある。(数学的な業績は知らないし、この本でも他は全く覚えていないのだが、この話一つだけ覚えている)
11:34
11個目の名手駅で途中下車。
和歌山線はワンマンカーでほとんどが無人駅。
「なて」といえば、やはり田辺時代の名手博行さんを思い出す。1学年上の、関西弁が優しい方で誰からも愛されていたが、この地との関係は知らない。

歩いて20分ほどの華岡青洲ゆかりの地は、隣の西笠田駅との間にある。紀ノ川沿いの農村地帯を1時間ほど歩き回ってそこから次の電車に乗ればちょうど良い。
11:37
紀州の古びた農村地帯を期待して駅から歩き始めたら新しい道路と家が並んでいた。
こういう広い道は暑くていやだ。
11:39
と思ったら、旧大和街道にぶつかった。
右の蛭子大神宮の隣の、板壁の郵便局などは時代が止まったかのよう。
11:40
旧名手宿本陣・妹背家住宅
紀州藩主の参勤交代は、紀州街道で大阪に出て京都を経るルートと、大和街道で五条に入り、伊勢街道を通るルートがあった。この妹背家は参勤交代のほか藩主の鷹狩りなどでも使われたらしい。そういえば吉宗は鷹狩りが好きだったな。

また妹背家は、華岡青洲の妻、加恵の実家としても知られる。何も知らずにたまたまこの道を通りかかったのは儲けもの。
11:43
大和街道は、東海道本線、国道1号線という列島中央線から外れており、時代から取り残されたが、その分、いい雰囲気が残っている。

ちなみに「大和街道(奈良街道)」というと、京都あるいは大阪、伊勢亀山から奈良へ向かう道についても使われるが、つながっているのではなく、複数の道の総称である。

さて、大和街道から左折し北のほうに向かうと、山は遠いが道は上り坂。
11:46
イチジクがあった。千駄木菜園にも2本植えているが、今年はあまり生っていない。
キウリ、トウモロコシも見える。

11:46
登り坂は延々と続く。
名手駅から春林軒(青洲の住居兼診療所)まで1.7km22分というが、この坂が続いたらほんとに22分で着くのだろうか。というか体力が持つだろうか。
暑い。
疲れた。
たぶんここで倒れたら熱中症とされるだろう。年寄りなのに夜行バスで来て朝から和歌山城はじめ炎天下の各地を歩き回った。メディアは喜んでその関連を報ずるだろう。
11:48
このあたり全体的には南の紀ノ川に向かって緩やかな斜面だが、ところどころに川があり小さな谷を作っている。
11:51
道の脇に野生のイチジク発見。
写真を撮ろうとして足を滑らせ崖下の谷に落ちるところだった。

再び熱中症について。
今の日本でメディアは諸悪の根源だと思っている。
そういっても誰も納得しないだろうが。

しかし、コロナがあれだけ経済、財政をずたずたにしたのは(大多数が無邪気、無意識だが)とにかく大げさ、視聴者の健康に気を遣うふりをするメディアと、それを盲信、思考停止で洗脳され従ってしまう国民のせいだろう。報道番組が多すぎ、大したニュースでなくても時間を埋めるため何でも大げさに言う。専門家は責任を取りたくないから不必要なほど慎重安全なコメントをした。今は国民もメディアもようやくコロナに飽き、(感染者は昔より多いのに)毎日感染者数を発表していたコロナニュースもなくなり、それに続く国民の盲信がなくなったから社会は正常になってきた。最初からあれほど報道しなければ(すくなくとも諸外国のように1,2年で辞めておけば)もっと早く正常な世の中になったのである。

そしてコロナがなくなって今は熱中症である。
テレビを見るたびに(見なければいいのだが、つけるとアフタヌーンバラエティショウの報道番組ばかり)、天気予報とともにその大げさな報道に腹が立つ。
具合の悪くなる人はごく少数なら一年中いるだろう。それが今なら30度くらいの気温でも熱中症とされる。そりゃ暑さのせいで倒れた人もいるだろう。ところがテレビは、すべての国民が倒れるかのように危機をあおる。

環境省気象庁は今年から熱中症警報アラートの運用を始め、畑バイト先のタブレットに転送されるようになった。そのうち、この警報に基づき保育園の休校とかイベント中止とか始まるかもしれない。警報なんて余計なお世話だし、税金の無駄遣いだ。

この南国の炎天下、暑い坂道を登りながら、意地でも倒れないぞ、と思う。

道は北への上り坂から東に曲がると水平となった。
11:52
こちらはビワ。
これも深い断崖の下から生えている。手は届きそうで届かない。
11:53
これはガマかな。関東ではあまり見たことがないがとくに南方の植物というわけでもない。穂の花粉すなわち漢方の蒲黄(ほおう)には血管収斂、止血作用があり、因幡の白兎伝説で知られる。
11:54
この木は何だろうと近づくとミカンのようなものがついていた。柑橘類は温州ミカンからカボス、不知火までいろいろあるから、何だか分からない。人に聞こうにも暑いなか畑に出ている人はいない。
11:55
ずんぐりした、見慣れぬ白い幹があり、近づくと柿がなっていた。
柿は関東でも多くの家にあるが、もっと細くて、たいてい自家用の1本きりである。このように畑で商業用に栽培しているのは初めて見た。ずんぐりしているのは地上で作業しやすいように長年にわたって剪定した結果であろう。

11:57
突然、のどかな畑のまんなかに道の駅「青洲の里」があらわれた。
しかし店は閉まり、駐車場にも車はない。まあ、平日はこうだろう。

この周辺に、華岡青洲(1760 - 1835)の墓のほか、青洲顕彰記念公園、復元された春林軒もあるはずだ。春林軒は建坪220坪、住居をかねた診療所であったが、世界初の全身麻酔による外科手術を学ぶため全国から集まった医師のための塾でもあった。
11:59
道は下り始めた。こちらでいいのだろうか?と思いながら何も案内板がない。
先に行けば何かあるかもしれないと、どんどん進むが、こういうとき動けば傷は深くなる。
間違えたかな?
12:02
豊かな農村という景色。
青洲の家もこんな感じだったのだろうか。
12:02
よく見る蜜柑のかごや箱を運ぶ農業用モノレール

12:04
道はどんどん下り、完全に間違えたことが分かったが、もう坂を上って戻る元気はない。右は谷になっていて、華岡青洲関連史跡はこの谷の向こうのようだ。都会と違って道が少ないから、すぐ近くなのに行けない。
もう諦めて西笠田駅に向かうことにする。

坂を下りきると国道480号線に出た。国道と言ってもセンターラインもなくすれ違いが難しい農道という感じ。やがてJR和歌山線の下をくぐり、大和街道(国道24号の旧道)に出た。

この道を東に歩くと橋があった。
12:09 穴伏川とJR和歌山線
川の真ん中で、高さ2メートルくらいの人工の滝に向かってじっと座っている人がいた。顔にかかる水しぶきが涼しそう。釣り竿などは見えず、避暑を兼ねて瞑想でもしているかのようだった。

12:09
穴伏川はすぐ下流で紀ノ川に合流する。
新しい橋は国道24号線。

小さなガソリンスタンドがあり、駅はこの道でいいか尋ねた。
歯が欠けたおじいさんはにこにこしながら、私にどこから来たのか、どこに行くのか聞いた。高野山に行くというと嬉しそうに今夜はそこに泊まるのかと言われる。もっと話をされたいようだったが、疲れていたので礼を言って先を急いだ。
12:14
道は再び大和街道となる。
この曲がり具合が旧道らしい。
防火用水と書かれたコンクリートの石柱が途中で折れていた。
12:16
西笠田駅(にしかせだ)到着。
人家の数から小さな無人駅なのは予想通り。しかし利用者が道端に自転車バイクを無造作に止めているのが新鮮だった。電車と同時に到着して急いで鍵をかけ飛び乗る景色が目に浮かんだ。
12:16
こんな田舎の小さな駅だが1時間に1本電車があるから信州の飯山線より本数が多い。
12:17
ホームの真ん前が紀ノ川。
写真左の森は船岡山という中洲になっていて厳島神社がある。

ここまで上流に来ても川幅が広く、水も岸もきれいなのは、雨の多い紀州の川だからか。
名前からして紀州そのものという川だ。

紀ノ川と言えば有吉佐和子。
「恍惚の人」、「複合汚染」、「華岡青洲の妻」、「和宮様御留」、「針女」を読んだことがあるが、代表作である「紀ノ川」って読んだことがなかった。帰ったら読んでみるか。

それにしても、わざわざ暑い中1時間近くも歩き回って、華岡青洲の旧跡にほんの目の先、数十メートルまで迫りながら現物を見られなかった。
人生とはこんなもの。
待合室に一人すわり、こんなことを思っていたら12:33発の電車がきた。

(続く)

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