2017年9月16日土曜日

第42 東沙諸島(西沢島)のリン鉱石

薬学雑誌1909年度731頁、969頁(明治42年)

日本が戦後放棄した海外領土に、南シナ海の諸群島がある。
そのうちベトナム沖の西沙、中沙、南沙諸島は、2007年中国が人口260人の「三沙市」をつくり、大陸の2割にもなる広い海域の領有を主張、ASEAN諸国ともめていた。その後、埋め立て、港湾、滑走路を作り、軍事基地化して、もはや周辺諸国が手を出せなくなったことは、周知のことである。

この話は、そこではなくて、その東、香港とフィリピンの間にある東沙諸島のことである。島は東沙島(プラタス島)だけで、あとは環礁である。
ここは、日本の敗戦とともに中国領となり、国民党が台湾に移ってから、台湾が実効支配しているが、もちろんここにも中国が食指を伸ばしている。

明治時代の薬学雑誌を読んでいたら、なんと東沙諸島が「地区通信」欄に2回出てきた。

ひとつは薬剤師・村瀬次郎の報告である。
当時、東沙島は西沢島と呼ばれていた。
西沢吉治が島に渡り1907年に事業を開始したからである。この島は、炭酸石灰からなる小さな砂州で、鳥の糞が積もって一部がリン酸石灰になっていた。
物産は燐鉱のほか、鼈甲亀と海草のみ。
炎熱と害虫のため作物はあまりとれず、水は亜硝酸、燐酸、石灰を含む。

当時の薬剤師は偉かった。
リン鉱石分析と衛生指導のために渡航した村瀬氏は、義憤を持って島の状況を薬学雑誌で告発した。

島には淡水があるといえど、硝酸を含む高濃度の無機イオンを含み、
「斯かる毒水を飲料に使用する島治者の暴、極まれりと言ふべし」。

島治法は西沢の私法専制的で、監獄以上の酷政をもって取り締る。
命令の確実遵守を保するがため、ことごとく罰金刑を付す。月給10円(男子壮年)のところ、賭博5円、喧嘩1円50銭、粗末な宿舎で明かりがないため壁板の節穴を大きくしたという咎で5円、軽便レールの車両を破損したと1円50銭。
これら罰金は貯めて、病人を帰郷さすとき、死亡者の遺族に弔慰金とするときに使うと言うが、使ったためしなし。

大人は全員働く義務を負わせ、病気、天候で休業したら月給から差し引き、家族で病気等働けぬものがいたら女子4円、子供1円50銭の食費を徴収。
その食事も、耐えられない臭いの亀肉すらないときは副食物が一家4人で沢庵6切れという粗末さ。
帰郷せん(逃げよう)とするものには制肘を加え、容易に帰郷せしめず、と描写は7頁にわたっている。
同時代の詳細な記録として、薬学に関係なく貴重なものではなかろうか。

西沢が事業を開始して2年後、清国は勝手に日本人が入植し、漁民が駆逐されたことに抗議し、西沢島事件として外交問題に発展した。
1909年と言えば、日露戦争に勝った日本はアジアに敵なし、北京の清国は滅亡寸前のころであるが、アメリカ、ロシアが日本を批判、また前年(1908)中国南部を中心に吹き荒れた日本商品ボイコット運動の再燃を恐れ、日本政府は、清国帰属を認めた。
清国は西沢が投資した島内設備を13万元で買い取るが、税金を3万元徴収することで落着した。(平岡昭利、地理空間、2011)

もうひとつの薬学雑誌の記事は、清国帰属が確認されたあと、気候、水質などの調査のため、広東の軍医学校薬学科卒業の清国人二人が東沙島に渡ったというものである。

2009年に薬学雑誌の記事としてファルマシア誌に書いたとき、西沢島事件として外交問題になったことを知らなかった。同じ号に二つの記事が同時に出ていたため、てっきり清への帰属が決まった後も西沢が操業していたと錯覚した。
今回ブログのおかげで書き直せて良かった。

なお、西沢の次男が詩人の西沢隆二(ぬやまひろし)。
司馬遼太郎が正岡子規の家族とその友人を描いた『ひとびとの跫音』に正岡忠三郎と一緒に出てくる。

お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで
千駄木菜園 目次へ (庭と野菜つくり)
今日の気持ち 目次へ (エッセイなど)
薬学昔々 目次へ (明治の薬学雑誌)
医薬史エッセイ 目次へ 
翻訳本あとがき 目次へ 
競技ダンス 目次へ

0 件のコメント:

コメントを投稿