2024年12月10日火曜日

上野公園13 無料の西洋美術館と松方幸次郎

9月の暑い最中、東京都美術館の院展にきたとき、次は国立西洋美術館に行こうと思った。
しかし、いつの間にか3か月経ち、冬になってしまった。
国立西洋美術館は国立科学博物館同様、65歳以上は無料である。しかし特に見たいということもなく、齢を重ねて3年。

穏やかな初冬の土曜日、散歩がてらに行ってみた。
家から団子坂を下りて谷中の三崎坂を上る。
東京芸大正門まで1.9km、27分。
2024₋12₋07 10:04
学園祭の名残のような、モニュメントがあった。
芸祭で担がれたお神輿か。象ではなく無病息災の神獣・獏らしい。美術部でなく音楽部にあるのは、例年1年生が学部、学科を越えてグループを作り4-6体製作するというからか。
10:08
東京都美術館の裏はイチョウの落ち葉で埋まっている。
左から地下を通る京成電車の音、右からは動物園の獣の声。
10:12
噴水前はフードフェスティバル。
こんな早い時間から人出がある。
かつては個人、カップルがのんびり散歩する場所だったのが、インバウンド客などを集めるため、噴水を小さくする一方、周りの木を伐り、イベント広場にしてしまった。
金儲けを優先する、まことに乱暴な公園整備である。
10:14
西洋美術館到着。
「考える人」、「弓を引くヘラクレス」、「カレーの市民」は、いつもは見向きもしないで足早に通り過ぎるのだが、今日は真っ先に目に入った。その向こうに早くも行列がある。
10:14
この時間、駅のほうから皆一方向に歩いてくる。
10:15
入るのは上京した年、1975年以来。
中野の畑純子さんだったか、甲府の名取千波さんだったか。
二人とも続かなかった。
10:16
ロダンの「考える人」、「カレーの市民」
このような貴重な美術品を屋外の炎熱寒波、風雨霜雪にさらしていいのだろうか? それとも本物は倉庫にあってこれは複製品だろうか。
なんて昔は考えていたが、像は鋳造品で融けた金属を型に流し込めば版画のようにいくつでも作られる。世界で一つというものではないから、戸外でもいいのかもしれない。
もっとも、著作権というものがあるだろうから、限りはある。

考える人はオリジナル版が国内5か所のほか世界で32体、ロダン死後の鋳造は26体あるらしい。カレーの市民はオリジナルの鋳型からが12体、その他にも多数あるという。
西洋美術館のものはもちろんオリジナルで、松方コレクションの一部である。

前庭にいた大勢の人は、特別展「モネ 睡蓮のとき」を見に来た人々で、常設展は違うだろうと並ばずに中へ入った。
10:17
常設展入り口 「19世紀ホール」
ここでチケットが必要と分かり、また外に出る。
10:19
本来のチケット売り場は特別展専用になっていた。
大行列だが、皆お行儀が良く混乱はない。
常設展のチケットは屋外の仮設テント(写真右)で売っていて、そちらに並ぶ人は誰もいない。
特別展は2300円(常設展も見られる)、常設展は500円(65歳以上無料)。

私のように事実上初めて、もしくはたまにしか来ない人は、常設展だけでも十分。
今回のモネはパリからの50点の他に国内にあるものを加えて64点展示されるらしいから見ごたえあるだろうが、例えばモナ・リザ1点のために高くて混雑する特別展に並ぶ元気はない。

さて、仮設テントで運転免許証を見せて無事チケットをもらい、改めて展示室に入る。

最初の展示室は14世紀〜16世紀(後期ゴシック、ルネサンス)の絵画がかけられている。
10:21
フランチェスコ・ボッティチーニ 
見たことがあるような無い様な。

しかしこちらの知っている絵が一つもない。
クラシック音楽のコンサートと同じで、初心者は自分が知っている絵の実物がみたいものである。

素人だから、いっぱい見てもどれが素晴らしいのかよく分からない。

西洋美術館はル・コルビュジエの設計で、世界文化遺産に登録されて注目された。
しかし建築素人には、その良さもよく分からない。
10:26
左の絵はステーン・ヤン (1626 - 1679)「村の結婚式」
(ずいぶん花嫁が老けていた。)

この絵の隣が開いていて、一階入口から二階に上がってくるつづら折りのスロープが見えた。西洋美術館の設計上の特徴、すなわちル・コルビジエの特徴は、なんだろう? このスロープが印象的だが、車いす対応として、日本全国にいくらでも見られる。建物全体の四角の形も、なぜ世界遺産なのか、と思うような意匠である。

さて、外の喧騒と離れた静かさの中を1点、1点見ながら進む。
展示は17世紀(バロック美術など)、18世紀(ロココ美術など)、19,20世紀(印象派など)、20世紀戦後の作家、といった時代順に並んでいるようだ。
10:41
「聖プラクセディス」
あるイタリア人画家の作品を模写したものだが、模写したのはフェルメール(1632- 1675)の可能性が高いという。肉体、衣装、とくに金属壷の質感が素晴らしいと思った。バロック期の絵画は、凝った装飾の多用、強い光の対比が特徴である。

見ていくと日本人を描いた肖像画があった。
ずっと西洋の画題ばかりだったから目立った。
10:45
フランク・ブラングィン(1867-1956年)「松方幸次郎の肖像」

上野の国立西洋美術館は、松方コレクションを収蔵するために建てられた。
モネもマネも知らない長野にいた時から「松方コレクション」、「松方幸次郎」の名前だけは、知っていた。
調べたら、私が高校1年だった1972(昭和47)年10月12日から11月5日まで、長野市の信濃美術館に絵画、彫刻など計78点が出張展示されている。このとき学校(美術の授業?)の勧めで見に行ったのか、行かなかったのか、全く記憶にない。少なくともこのとき松方コレクションを知ったが、自発的に行くような高校生ではなかった。

松方幸次郎(1866 - 1950)は薩摩出身の総理大臣松方正義の三男である。
東大予備門に入学するも学生運動にかかわり中退。渡米してエール大学で法律の博士号を取った。帰国して首相(父)秘書官などをしていて、1896年(株)川崎造船所の初代社長に就任した。これは川崎財閥創設者で、幸次郎のアメリカ留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった同郷の川崎正蔵に要請されたもの。
(川崎家の屋敷は文京区、猫又橋の北にあり、以前ブログに書いた)

これをきっかけに幸次郎は神戸新聞、高野鉄道など多くの会社の社長、役員に就任した。衆議院議員にもなり、関西政財界の巨人となった。

川崎造船は海軍とも関係を深め、日清、日露、第一次大戦の時代に、国家的規模の造船国産化の追い風もあり大発展した。
(ちなみに第二次大戦終了までに榛名、伊勢、瑞鶴、大鳳などを建造したが、戦艦、空母を建造できた民間造船所は神戸の川崎造船と長崎の三菱重工だけである。)

しかし川崎造船は第一大戦後から昭和にかけての船舶供給過多と大不況、軍縮条約の逆風で、経営が破綻、幸次郎は積極経営の責任を取り社長を辞任した。

彼は、川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで絵画、彫刻、浮世絵を買い集めた。(麻布に土地を用意し「共楽美術館」という名前まで決めていた。)

大戦終了後も、パリを中心にロダン、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホらの作品を次々に購入し美術品収集を続けた。肖像画を描いたブラングィンはアドバイザーだった。
すでにこの時期は川崎造船所の経営に陰りが見え始めた時期であるが、クロード・モネを度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。

大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて集められた松方コレクションは、浮世絵が約8000点、西洋美術品が約3000点。浮世絵コレクションは戦前皇室に献上され、現在、東京国立博物館にあり、西洋美術は多くが散逸したが、一部が国立西洋美術館に所蔵されている。

3000点という膨大な西洋美術コレクションは、川崎造船の経営悪化、負債返済のため1000点以上が売却され戦時中に多くが散逸した(ごく一部はサントリー美術館、大原美術館などにある)。
海外にあったものは、10割関税の実施と国粋主義の台頭による西洋排斥の風潮とで、日本移送が遅れた。ロンドンに置いていた900点は1939年に火災で焼失、パリにあった400点以上(428?)のコレクションはナチスによる略奪や戦災は免れたが、第二次大戦後に敵国資産としてフランス政府に没収され、戦後一部が競売にかけられた。

しかし、1950年から交渉が始まり、1951年のサンフランシスコ講和条約で返還が決まった。ただし、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品はフランス側が譲らず、結局、絵画196、素描80、版画26、彫刻63、書籍5の合計370点が日本政府に返還された。

返還には収蔵する美術館を建設、展示するという条件があり、その結果できたのが国立西洋美術館である。
1953年準備委員会が発足するも、当時は財政難で文部省の1億5千万円の要求に、ついた予算は2桁少ない500万円だったとか。1954年には「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され、1億円を目標に寄付金集めが始まった。著名美術家が協力して大口寄付者には見返りとして作品をプレゼントするという試みもあり、また1954年11月には補正予算で5千万円が認められた。

敷地はフランス側が上野を推薦し、寛永寺の凌雲院跡を東京都(公園所有者)に寄贈させ、それを国に無償貸与するとした。
(西洋美術館、東京文化会館があった辺り、凌雲院の跡地は戦後引揚者のバラックが並んでいたらしい)

こうして国立西洋美術館は1959年に開館した。
松方コレクションだけでなく、海外からの作品を中心とする特別展も随時開催された。
1964年の「ミロのビーナス特別公開」は38日間の会期中に83万人以上が来場、入場前の行列は、上野公園を縦断して西郷隆盛像をすぎ階段下の公園入口まで続いたという。
1994年の「バーンズ・コレクション展」は、62日間の会期に107万人以上が来場し、混雑する日の入場待ちは7時間だったらしい。

今回、モネの特別展も想定以上に人気があるようだ。
行列が敷地から出ることはないものの、混雑のため、急遽12月21日以降の土日と2月の全日程は日時指定券が導入され、3回にわたって発売される予約券を買わないと入れなくなった。

それにしても松方幸次郎の美術品買いっぷりは豪快である。この資金は自分が社長を務めた会社の金であろう。少量なら公私混同、横領とか非難されるだろうが、これだけの規模だと作品を私蔵することもできず、結果的に国家財産となったから悪く言う人は誰もいない。

松方幸次郎は公職追放中の1950年、美術館の完成どころか、コレクションの返還を知ることもなく84歳で死去した。

(この日の絵画の鑑賞については、次回)

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