2020年4月18日土曜日

水窪川の地形と戦前地図

先日オードリー春日がテレビ番組で水窪川暗渠を歩いていた。
地形好きの私としてはおよその川筋は知っていたが歩いたことはなかった。
2020-04-16 10:13
出発は池袋東口。しかしここに川の跡はない。

国土地理院公式サイトから
何となく東口で低いところがかげのよう分からぬでもない。

10:21
駅からまっすぐ東に延びるグリーン大通りとサンシャインに行く通りの間に少し低いところがある。雨が降ればここに集まるだろう。ちょうど写真真ん中の美久仁小路のあたりが東に向かう川になりそう。

10:22
そのすぐ南東、ちょっと高いところに明治天皇御野立所跡という石柱。
明治8年、赤坂仮御所から歩いてきたようだ。明治天皇はよく出かけた。

ちなみに「のだて」といれて変換される野点は屋外でのお茶会。野立は天皇など貴人が野外で休憩することをいう。
茶会でなくても茶を飲んだだろう。目の前のセリなど繁る小川から水を汲んできたかもしれない。座って「あれは何という花じゃ」とか聞いていたかも。

10:25
写真左に美久仁小路の東の出口があるが、通りにでるとビルにぶつかり川の跡は早くもたどれない。豊島岡女子学院の北の通りを抜けて首都高をくぐる。

10:26

ところでいつ暗渠になったのだろう?
昭和32年の地図では暗渠になっていた。
明治42年はしっかりあった。

昭和7年 
このころは根津山と巣鴨刑務所の間などは、川と街の境界線が重なっているので分かりにくいが文京区に入るところからははっきり川が見える。

10:29 日出町公園
首都高の東側はあまりこないのだが、再開発され、豊島区中央図書館ができた。
広い道が斜めに交差しているから違うほうから来るとかえって分かりにくい。

サンシャインと造幣局の間の道が新しく南に延びていて、そこから東は区画整理されていない。
10:30
串カツ田中の横に狭く、曲がった道。

いまは便利だね~ 
いまこれを書くにあたり、グーグルフォトを見て時間を確認していたのだが、地図上での撮影地点も同時に示されている。
機内モードにしていたはずだけど・・・

10:33
間違いなく暗渠の跡。

10:34
これはなんだ? 川の蛇行の跡?
日光広場とある。むしろ日陰になっているし。
フクロウのマークがあるから豊島区の管理?
しかし公務員はこういうものを作らない。

水がたまるようになっている。足湯のようにベンチに座って冷やすのかな?
しかし誰もおらずベンチが先に足湯をしている。不気味。
ジャングルジムのような籠のような家のモニュメントはなんだ?
はっ、日光広場って、これは日光? 陽明門? 
その気になってみれば後ろのフェンスは山のよう。


先を急ぐ。すぐに都電荒川線。
10:35
川は踏切を渡らず北に向かう。

10:36 松風荘
すごいアパート。私が若かったころ40年前はどうだっただろう?
左は二階の部屋に上がる入口

10:38
ここ知ってる。数年前上から下をのぞいたことがある。

10:39
かつてここに造幣局があった。
2015年10月、貨幣博物館に来たことがある。古い工場の中にあり、入場無料だが誰もいなかった。どこに移転したのだろう?

大学と防災広場になるらしい。
中野のように大学は広場をキャンパスの一部のように使えるだろう。
23区内への定員増加は抑制するのではなかったか?
いっそ全部、森にしちゃえばよかったのに。

10:40
先を急ぐ。
10:41

でもやっぱり上の造幣局あとをみたくて戻るように坂を上がってみた。
10:43 
2015年、造幣局博物館より記憶に残ったのは向かいの崖側にあった梅原商店。
ゴミ屋敷のように骨とう品、がらくたが山積みされ、リサイクルショップということだった。池袋の東にはこういう店が多い。仕入原価は安いだろうがなかなか売れないだろう。
この日、品物を運んで動かしていらした。

2015-10-29 12:38
ガードレールをまきこんだプラタナス。
2015年に造幣局を訪ねたとき撮った写真を探したが、こんなものしかなかった。
造幣局、梅原商店から少し北に歩いた広い通りである。

ふたたび水窪川暗渠に戻るが、川の跡がわからない。
10:45
どうもあのマンションの下を通っている感じ。

10:45
踏切を渡ると暗渠跡らしい道が二本ある。
若者が二人地面に座っている右端の道を行く。
10:46
間違いない。

10:47
またしても謎の広場。
窓のある壁に消火器が架けてある。
背後のフェンスは日光広場と同じように山。じゃあ、ここは富士広場?
右奥にひっそりと碑があった。

10:47
水窪川の碑
昔ここに小さな川が流れていた 後世にこれを伝える 
1986年

文章が年寄りっぽい。これを書いた人が広場を作ったのだろうか。
10:48
鳥居だと思ったら家の玄関の枠? ドア横の郵便受けの跡が残っている。
この家の持ち主が裏の壁とこれだけ残して広場にしたのだろうか? 
ドアは浅間神社の鳥居を表していたりして。でも稲荷と違うから鳥居は赤に塗らないぞ。
日光広場と同じ人物にも思えるが、ちょっとユーモアのセンスが違う気もする。
友人同士?

仮称・富士広場の横に味のある建物。

2020-04-16 10:49
都民生活相談所 的場茂
この人が富士、日光広場を作っていたらいいな。


10:50
この春の緑が水窪川の流れていたころを思い出させてくれる。

10:51
すぐまっすぐな道にぶつかり、その先も続いている。

10:51
ちょっと気が引けるが民家の間を通らせてもらうと

10:51
井戸があった。豊島区、文京区というのは突然こういうものがある。
川が流れていたころからあったのだろう。
子供がいれば魚を飼っただろう。

10:51
この辺りから文京区に入る。
同時に右側が山になっていく。

10:53
文京区大塚6丁目18
右の石垣など昔のままではないか。
10:53


10:55
川の洗い場に下りるような石段

10:55
低い石垣。川が流れていたころはユキノシタがにあう。

10:56
南へ上がる石段がつづく。

10:56
こちらの石段は長い。

10:57 
老人がぼんやり座る踊り場まできて見上げる

さらに上がって振り返る。
文京区大塚6丁目10
あのビルの向こうは春日通り。

10:58
さらに頂上から振り返る。
大きな家はないけれど、すてきな環境。左はコーポオリエント。
オリエント坂と名付ける。

11:00
老人が帰ったので、代わりに座ってパチリ。

11:03 降りると健生病院大塚診療所。
左が歩いてきた暗渠。

東京健生病院とは東京保健生活協同組合病院で、私が二回ほど胃のレントゲン(文京区の無料健診)を受けたところで近くの千川通にある。
11:03
文京区立大塚坂下町公園
大塚というのは本来文京区の地名だったが、北に隣接する北豊島郡巣鴨に山手線の駅ができてから豊島区の名前と思われている。これは本駒込と駒込の関係に似ている。

結構大きい。誰かの屋敷跡だろうか。
再び降りて暗渠を歩く
11:06
蔦の絡まる古い家の隣が・・・

5軒が仲良く頭を寄せている。
裏は坂下町公園
11:08
川跡はサンシャインと朋友小学校の間から延びる道路、坂下通りを越える。
昔の地図をみれば、畑の中を不忍通りから巣鴨監獄正門に至るまで開いた道路のようである。

11:10
今度は北側が高い。

11:11 
開運坂下交差点の通りに出そうな手前で左に入る。
道路の向こう、開運坂の左に生長の家が見えた。


11:13 不思議な形のカメが3匹
寛延二年というと1749年。当時は田んぼか畑であったであろうから、
最初からここにあったとも思えないが。
護国寺が1681年である。

11:14

11:16 珍しく車道が横切っている。
この坂は昭和7年の地図にもある。

11:18 いい家が2軒
このあたり道路が広い。昭和7年の地図を見れば川の両側に道がある。
谷田川のながれた谷中千駄木よみせ通りと同じ。

11:19
裏に高層マンションが並ぶのから春日通りが近い。

11:20
また井戸あり。

11:22
春日通りの方に上がる石段。右の石組は古そう。

11:24
ふたたび例の通りに出た。
坂下通りは大塚坂下町からきているようだが、その坂は護国寺不忍通りの冨士見坂らしい。
11:26
川は坂下通りを渡りまだ続く。
右に稲荷があるので寄り道。

11:26
吹上稲荷神社という。


11:29
再び暗渠に戻る
塀の向こうは豊島岡皇族墓地。

11:29
また井戸発見。

11:31 不忍通りに出る。
ここまで1時間10分。普通に歩けば半分くらい?

11:31
豊島岡墓地。陵が作られる天皇皇后以外の皇族がここに葬られる。

11:32
富士見坂の案内板。
私が文京区の職員なら富士が見えたという坂の上のほうに建てるけど。
大通りの坂はつまらない。

11:34
不忍通りを渡ると大きな屋敷があり、川筋は見えない。

11:35
門柱表札の名前をメモしたけどなくしてしまった。

11:36
屋敷の南のアパートから庭が見えた。昭和7年の地図を見れば、この一帯は東青柳町といい、今の道路がなく大邸宅があったのかもしれない。水窪川は大名屋敷のように庭を流れていたのだろう。

今写真を見て気が付いたが、このアパート、全戸のインターホンがここに並んでいる。同時に二人訪問者が来たら困るな。

11:36
山の上は豪邸、下は小さい家という原則はここでは当てはまらない。

11:37
音羽と大塚の境

11:37
区画整理されて暗渠の跡は分からない。

11:38 お茶の水女子大西門
このあたりから暗渠の跡が復活する。

つづきは、別ブログ。

4月19日 追記
調べたら明治天皇行幸は明治8年12月27日(板橋での演習視察)
冬でも枯草の間に芹くらいあっただろうか。
大人数だろうから皆湧き水を飲んだことだろう。


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