2017年6月3日土曜日

駒場2 農学校と旧前田利為邸



6月3日の続き。
東大西門をでると瀟洒な住宅街。本駒込や西片よりきれい。
駒場公園南口を過ぎて少し歩いた右角に日本民芸館がある。
1936年柳宗悦が自邸隣に開設した。
日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工などがあるらしいが、あまり興味がないのと入場料が高かったので入らず。
向かいの西館はのちに栃木から移築したものらしい。
民芸館西館を過ぎると東大駒場第二キャンパス。
昔はここに宇宙航空研究所があった。
当時寮の各部屋では看板を出すのが流行っていて、交通標識や有名飲食店の看板などとともに宇宙航空研の立派な木製標札を出している部屋があった。盗んできたのか不要になったのをもらったのかは知らない。この場所について私が知っていることはそれだけである。

ここで、昔の駒場の範囲を出しておく。
駒場農学校、のちの帝国大学農科大学は18万坪。
当時の正門は北の上原のほうにあった。
(のち、渋谷に近い東はし、渋目陸橋のほうに移動)



東大農学部の歴史http://www.a.u-tokyo.ac.jp/history/history1.htmlより。
(明治30年、このときは16万坪)

沢が三本あり、一番東は養魚池として使われた。今の東大東端の一二郎池である。
中央の沢は今、東大西端のテニスコート。
これと西からくる沢との合流点が、満留賀(そばや)、東大駒場前駅西口などの低地である。
つまり井の頭線の南、駒場野公園から第二キャンパスまで広がっていた。
昭和50年、私が住んでいた頃は西からくる沢には教育大の水田(ケルネル田圃)が残り、一方の東も山の手通りの渋目陸橋までは民間住宅と東大の敷地がモザイクのようになっていた。

さて、1924(T13)、駒場の東大農学部と本郷弥生の一高の敷地交換が決まる。
1926(T15)には、赤門入って右側の前田邸敷地10,606坪と東大側5万坪(駒場の4万坪と代々木演習林1万坪)を交換した。本郷の地価が5倍だったということか。それとも前田家が本郷を離れたくなくて、東大側が相場以上のものを提供したのか。
同時に深川越中島で震災の被害を受けていた東大付属航空研(のち宇宙航空研)も駒場へ移転が決まった。

農学部の移転は1935年ころまでかかったが、帝国大学農科大学付属の農業教員養成所は、この地に残り1937年東京農業教育専門学校として独立した。のちの東京教育大農学部である。

その前田邸と航空研の間の道を北に、高級そうな住宅を見ながらあるき、ぐるっと回って北側から目黒区立駒場公園に入る。
正門西隣に公開されていない一角があり、前田育徳会というところが管理しているらしい。
公園正門はもちろん前田邸の正門だが、工事中で覆われていた。
ここは少なくとも過去に二回来ている。
しかし最後に来たのは35年以上前。
昭和4年(1929)に完成した洋館も工事中。
近代文学館は、入ったことあるかどうか記憶にない。

前田邸和館。初めて見た。
あるいは見たけれども、当時は興味がなくてまったく記憶に残っていないのだろうか。

畳がしっかりしていて気持ちがいい。
明治の殿様が住むにふさわしい。
もっとも前田家は洋館にすみ、ここは外人客接待用だったそうだが。
当主の前田利為侯爵(1885- 1942)は陸軍中将、ボルネオ守備司令官のとき搭乗機が墜落、死亡した。戦後は米軍に接収され、昭和32年に返還された。


前田邸洋館の南は広場になっていて、近所の子供たちだけでなく、奥様方もレジャーシートの上でおしゃべりしていた。
その周辺はジャングルである。
思ったこと。
1.目黒区はこれを維持できるほど豊かな区だ。
2.前田家はなぜ南半分を貸地にして土地経営をしなかったのだろうか。向が岡弥生町の浅野侯爵のように。


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渋谷から東大駒場まで

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6月3日、渋谷駅に降りた。
何年振りだろう。
池袋はよくいくが、ここは比較にならないほど人が多い。
出来たばかりのヒカリエはめまいがしそうで行く気がしない。
ハチ公前も人だらけ。
三千里薬局はまだあった。
外国人がみなスクランブル交差点で写真を撮っている。おそらく人の多さに感動したのだろう。
そして非常にうるさい。
私が年を取ったからそう感じるのではなく、昔なかった音があるのだ。
街灯につけられたスピーカーから音楽が常に流れているだけでなく、カラオケからドラッグストア、電気店まで、いろいろな店が声を張り上げ呼び込みをしている。
 センター街を歩いたが、40年前にあった店はない。

東急本店を過ぎ、駒場に向かって歩く。
ピーコックはない。
大学構内にあった寮は東の端だったから、渋谷まではこの道をいつも歩いた。

東急本店を過ぎて山の手通りまでの道がずいぶん広くなっている。
上の写真、鍋島松濤公園からの道が右側からきて交差点になっているところの八百宗青果は昔からあった。もちろん隣のコンビニはなかった。
 上り坂になって南側、かつてはコンクリートの擁壁のうえに団地があったが、擁壁が植込みの斜面になり道路も広がった。かつてはこのあたり、よく外国人の子供が自転車に乗っていた。
環状6号、山の手通り。
渋谷区と目黒区の境。渋目陸橋。
ここを越えれば駒場。
左の角がセントラル病院。当時からあるが、あまり病人を見たことがなかった。
渡辺淳一の「無影灯」はこの病院をモデルにしている。

ここから駒場。昭和50年代、ここは舗装されていなかった。
ところどころに大学の敷地が飛び地のようにあったのだが、今は払い下げたのか、ほとんど宅地になっている。
叔父から車を借りてきたとき、ここに駐車した。

かつてはこの道の突き当り、構内の林の中からアカマツの高木が数本頭を出していた。
今は建物しか見えない。
大学の東の端、今の炊事門。

かつての炊事門
(文芸春秋デラックス1977年9月から)

炊事門を入って、この突き当り正面に寮食堂があった。
写真の右に行くと保健センター。風邪をひいたとき解熱剤をもらったら10円で、その金は国庫に入るらしく、たいそう立派な領収書をくれた。

保健センターの裏は藪になっていて、立ち入ることはできなかった。
(禁止されていたわけではなく、けもの道すらなかった)。
あるとき一人で探検しに藪をかき分け入っていくと池があった。落ち葉に埋まり水も汚かった。ほとんどの学生は2年間いてもその存在を知らなかった。私がたまたま知ったのは、寮で暇を持て余していたからである。
棕櫚の苗を見つけ、鉢に植え、3年生になって本駒込のアパートまで持って行った。
当時誰も知らなかった池は、今や一二郎池と名付けられている。
立入困難な遊休地(やぶ)がきれいに整備されて遊歩道までできている。

大学のほうに行く。
自動車部は昔からこの場所。
いつも廃車のようなガラクタがおいてあった。

正面の白い建物は新しい図書館らしい。
以前は一高時代の南寮があり、私のころは教員の研究室になっていた。

矢内原門に向かう道。ここを通って踏切を越え駒場下の商店街に降りた。
上の写真、左の林の中に便所があったな。

駒場寮に関しては、ネットに切ないくらい懐かしい写真がいっぱいある。
寮のあった場所に来ると記憶の景色とのギャップが激しい。
芝生の広場に寮のモニュメントが建っていた。
どうも中寮と北寮のあいだ、イチョウ並木側の通りに面してあった東屋の一部のようである。しかし当時は活動学生の立て看板などガラクタが置かれて、座って談笑などできなかった気がする。

南寮跡地の新図書館
こんな大きな木、あったかなぁ?
向うの図書館の前では学生がガラスに映る姿を見ながらダンスの練習をしている。
食堂の前はテラス席になって一人で、グループで、食べたり勉強したりしている
女子学生が目立つ。
北寮の場所に生協が移転してきて、そのまえでもダンスの練習。
我々にとっては懐かしいものが消えて残念だが、明るく楽しそうな学生をみると、汚い寮がなくなって、その代わりに広い図書館ときれいなレストラン(食堂)ができたことを、みんな喜んでいるのだなと思った。
裏門に向かって歩くと、体育館は残っていた。

下はトレーニング専門の体育館。
これも昔のまま。
各学期の終わり、体力測定はここでやった。
反復横跳び、平均台上り下り。登攀縄は足を使わずに天井まで上がれた。
覗くとウェイトトレーニング機器が所狭しと並んでいた。
当時は真ん中がまだ空いていた。

体育館の裏に回る。上の写真右にも木造体育館があった。
駒場時代の4つの学期のうち一つは卓球をとり、ここで毎週ピンポンをやっていた。
指導は何もなく、教員は出席をとるだけでいなくなった。
私はもっぱら心理学科に行った吉野諒三という男と遊んでいた。ラリーが続かないので、テーブルをオーバーして床に直接落ちた球でも打っていいことにしたら、羽子板のようなピンポンになった。彼はこのルールのない原始的なピンポンを「原始」と呼び、自分の打った(打ち上げた)球が失敗してオーバーすると「原始、原始!」と叫び、私が続けるのを促した。彼の後ろから西日が差していた。

上の写真は寮の裏手になり、左には寮の風呂があった。ここから寮まで雨に濡れないように渡り廊下があった。いま風呂の跡は保育園になっている。

中心部に戻ってきて、イチョウ並木の東端。
かつてこの角には生協があり、一階は一般商品、二階が書籍部だった。西側に別の階段があり、二階に上がるとアルバイト、アパートなどあっせんする学生課だった。
今はきれいに建て替えられている。

駒場博物館
かつて教務課が入っていた。入学のときの記念写真はこの石段だった。二年生の秋に本郷への進学先が決まるが、それが張り出されるのもここだった。
教務課は旧図書館の跡にたてられたアドミニストレーション棟(写真右手)に移り、その建物は博物館になっている。

前回駒場に来たのは2008年。数十年ぶりだった。
この博物館の平賀譲展を見に来たのだった。
もはや駒場寮はなく、ほぼ今の形になっていた。

 時計のある一号館。
語学は4~50人のクラスごとにここで受けた。

 7号館。
自然科学の授業は2クラス合同で、奥の5号館と共にここで受けた。今も同じようだ。
上の写真の左に6号館があり、そこは学生実習の棟だった。
 7号館入り口。

7号館裏、イチョウ並木の裏通りにあたる。
講義が終わって生協食堂や寮に行くときは、むしろこちらの道の方をよくとおった。



テニスコート。向うの建物は駒場小学校。
体育でテニスをとった学期もあった。やはり教員による指導はほとんどなく、ただ友達と遊んでいた。先生のアドバイスで唯一覚えているのは、「上手い人とやらないと上手くなりません」というものだった。
人手がないならテニス部の学生をアルバイトで雇うとか、もう少し技術指導してほしかった。

ここは昔の沢のあとの低地にあり、西門に行く道は盛り土して堤のようになっていた。
土手は高く、東と北は壁のようになっていたから空振りしても球を取りに行くとき便利だった。
15号館?
当時は堤(中央通り)の北側も野球場まで続く低地でテニスコートになっていた。しかし今は埋められ建物が建っている。

それにしても建物が増えた。
95年の地図を見ると、こんなものである。
1995年

(文芸春秋デラックス1977年9月)

航空写真だと緑と土の多さが分かる。
堤(銀杏並木の続き)の北側のテニスコートも写っている。
こうしてみると77年から地図の95年までほとんど変わっていない。
近年一気に変えてしまったということだ。
大学はお金があると森をつぶして建物をたてたがる。
これでは寄付などしたくなくなる。


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第23 岸田吟香と薬学会選挙

明治35年(1902)p256など
薬学雑誌 明治30年(1897)2月号付録など

第21話、「人頭黒焼き売買事件」は飛行機研究家の二宮忠八が薬学会の地区通信員として書いたものだが、その記事を引き継いで本草綱目の人体由来医薬品を解説した人物も注目に値する。

天霊蓋(人頭黒焼き)はじめ多くの「妙薬」について書いてくれたのは明治初期のジャーナリストとして有名な岸田吟香である。

彼は文久3年(1863年)4月、眼病を患い、箕作秋坪の紹介で横浜のヘボンを訪ねる。それが縁でヘボンの「和英語林集成」編纂を助けた。明治6年、40歳で東京日日新聞(今の毎日)に迎えられ主筆として活躍、台湾出兵に従軍した。最初の従軍記者とも言われる。

44歳で新聞社を退社、東京銀座に楽善堂をひらき、ヘボンより処方を教授された目薬「精錡水」の製造販売に専念する。それまでの目薬は塗り薬であったから液体目薬は画期的だった。
福祉活動にも積極的で、前島密らと明治13年に楽善会訓盲院(現筑波大附属盲学校)を創設している。
麗子像の洋画家岸田劉生は息子。

明治30年64歳で日本薬学会常議員。
この年の薬学会第17回総会における役員選挙結果が薬誌1897年2月号付録にある。
当日出席者全員による投票は総数59で長井会頭、下山副会頭、幹事の丹波,山田まではほぼ満票に近く選挙前から決まっていたようであるが定員10の常議員選挙は平山増之助(52票),丹羽藤吉郎(51)、高橋秀松(50)、田原良純(45)と続き、岸田(22)は10位で初当選、曲淵景章(19) は11位で落選,以下1票の人まで37人に票は分散、打ち合わせ無しの人気投票だったようだ。

翌明治31年は108票中56票をとり資生堂の福原有信を抜いて9位当選、32年は8位当選(61票/113)だったが33年14位(62 /215),34年15位(27/125)と以後は後進に席を譲る。しかし学会重鎮であったことに変わりはなく、薬学雑誌の編集委員としてしばらく活躍した。

昔、二宮,岸田、こういう傑人が薬学会に多くいた理由はなんだろう?
有能な人はいくつもの分野で活躍するのが普通だったのか、あるいは薬には名士が集まりやすかったのか。
6年制と新設校の乱立、薬剤師は増えるが地位の低下を心配する。

2017-5-27撮影
従六位勲六等岸田吟香
夫  人  勝 子
    
谷中墓地、御隠殿坂を上って左側の木立の中、数年前散歩中に偶然見つけた。
左面の明治三十八年十二月九日死 享年五十一、は勝子である。彼のは反対面に刻まれている。同年6月、72歳で亡くなった。


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2017年6月2日金曜日

谷中墓地3 寛永寺の新規分譲霊園



5月31日、都内の用事が終わって山手線に乗ったら17時。
まだ明るかったので、また谷中墓地に行った。

前回書いたように、20代のころ迷って出くわした石塔群が気になり、同じ夕方なら出会える気がしたのである。

芋坂上から崖際を南に歩き、中に入ったら整地されていてびっくり。
このあたりは寛永寺墓地である。
谷中墓地は都立谷中霊園、寛永寺墓地、天王寺墓地からなる。

以前来たときは背の高い白い鉄板のフェンスで囲まれ、中が見えなかったが、それが取っ払われたら更地ができていた。
かなり広い。
新規墓地分譲中の案内が出ていた。
帰って調べたら、昨年から寛永寺は谷中墓地内に谷中霊園と徳川浄苑という二つの新規墓地を作り、募集を始めたようだ。
http://kaneijireien.jp/news.html

価格は1.3m^2~6.6m^2 で480万~2020万円 
いいなあ。
そろそろお墓の心配をしなくちゃいけない。
谷中にお墓があればいいな。
でもこんなお金はない。
0.6平米なら270万らしい。しかし75㎝四方とは、コタツくらいだろうか。

それにしても、こんな広大な墓域に以前は何があったのだろう?
空き地であったわけがない。
長い間、白いフェンスに囲まれているあいだに、貴重なものが破壊されたのではなかろうか?

一般個人の墓であったとは考えにくいから、徳川家一門、寛永寺関係者の墓所だったのではないか?
それが、びっしり小さな墓石が並ぶ場所に変わる。
いくら寛永寺所有とはいえ、江戸時代からの文化財を、勝手に処分していいのだろうか。
所有していたのは寛永寺ではなく徳川家だろうか? 徳川の資産は明治政府が没収した後、墓地は戻しても、それは墓地だから戻したのであって分譲することは想定していなかっただろう。

帰り際、石塀に囲まれた墓所に出会った。
中に入れないが徳川関係のものだろう。

20代のころ墓地で迷い、夕闇迫る中で見た石塔群はこれだったのだろうか?
もっと草がぼうぼうだった気がする。倒れている塔があり、桐の木があったのは他の記憶と混じっているのだろうか?

しかし、広大な更地を見るにつけ、私の記憶にある鮮烈な光景の場所は、もう失われたのではないか、と思えてきた。


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