2019年1月9日水曜日

上野公園2 昭和38年の西郷像と広小路

上野といえば西郷さん。

2019-01-06
この日は外国人と七福神めぐりの団体年配者が多かった。

私が信州から始めて上京したときの写真がある。
1963(昭和38)
恒さんの結婚式で祖父母が上京した時、妹とついてきた。
小学校に上がる直前、3月のこと。
川口の安雄叔父が上野動物園に連れてきてくれた。

このとき叔父は西郷さんの前の崖上の塀に我々を腰掛けさせた。
すぐ下は屋根だか土だか少しあったと思う。それでも怖かった記憶がある。
叔父は、あえて後姿を撮るような芸術趣味はなかったが。
(ひょっとすると安雄叔父でなく真叔父だったか)

下にはできたばかりの聚楽台(1959ー2008)があったはずである( → )。

2019年、塀のかわりにフェンスと3153の屋根。
近づくこともできず、下も見えない。

1963
真ん中に都電停留所
都電利用者は、横断歩道でもないところを車をよけながら渡っている。
協和銀行の向こうのビルに「お買物は赤札堂」と書いてある。
いまのABABである。甘味「みはし」などもあったはずだが、わからない。

写真手前の看板は「仕事のことならまよわず上野公共・・・」
小さい文字の一つは上野警察署のように見える。自殺防止?

同じ場所の2019年
3153の設計者は自分の建物のことだけ考えて、眺望を楽しみに公園に来た人にまで頭が回っていない。
床面積を確保し、美しいデザインにしたとしても、眺めを保てたはずである。

昭和38年の航空写真がある(goo地図)
西郷さんの前は聚楽台の屋根になっているが、腰かけた塀のすぐ下は植え込みのようなものが見える。こちらの設計者の方が優れている。

さて、2019年、3153への入口が西郷さんの前にあり、
降りる途中、通りが見えた。
ABABビルが見える。

店舗からなら見えるかもしれないと、昼時でもあり「薩摩魚鮮」に入ってみる。
ランチは990~1490円
2019-01-06

まあまあ1963年に近い写真が撮れた。

さて昭和38年に戻る。
車は精養軒に止めたようだ。
3月はまだ寒く、楽しみにしていたライオンなどは外に居なかった気がする。
室内にいた象などの記憶がある。

昭和38年、小諸あたりの国道18号線沿い。
祖父母、叔父、妹。
叔父は長い一人暮らしのあと、2018年6月28日、86歳で亡くなった。
喪主は私。 ほんとうは今年、喪中。


2019年1月8日火曜日

上野公園1 聚楽台と映画館あと

上野駅不忍口を出れば、上野公園の山下。
すっかりおしゃれになった。

UENO3153   2018-12-23

3153は西郷さんというらしいが、暴走族の落書き「4649」みたい。
高輪ゲートウェイを思わせる。わざと田舎っぽさを出したとも考えられるが、単にバカな中学生みたい。

ウィキペディアから写真を借りる。
2007年4月
かつては一階に小さな土産物店が雑居し、二階が聚楽だった。
一階の迷路のようなアジア的アメ横的雑多な感じは、今外国人が見たら喜んだであろう。

二階のレストランは、谷中にいたころ、妹と母と3人で入った。
一人ビールを飲んでいる男性と相席にさせられた記憶がある。

母が一人で上京したとも思えないが、父はいなかった。
母は寿司だったが、箸の使い方が気になった。
滝を模した水流もあったというが、見たような見なかったような。

ホテルチェーンのテレビCM「じゅらくよ~ん」からてっきり聚楽だと思っていたが、「聚楽台」であった(秀吉のは聚楽第)。1959年から2008年まで株式会社聚楽が経営。
なお建物全体は上野百貨店あるいは西郷会館といったようだ。

そのときはまだ崖の中に入っているという感じだったが、今や上野の山をそっくり隠すビルである。

一階はロッテリアなどが入るフードコートになっている。
聚楽がなくなって初めて入ったのは、2014年1月。今中氏とピザかなんかを食べた。
2014年3月には出張で上京した岩田氏に会った。
夜は練習があったので、朝、ここのベーカリーでパンを選び、日当たりのよいテーブルでガラス越しに歩く人を眺めながら食べた。そのあと公園を散歩。私が突然転職、転居して1年、いろんなことを聞かれた。

いま聚楽台はガード下にある。
「じゅらく」と改名。
台をとったのは、下に降りたから? 
ひらがなになったのは読めない人が増えたから?
じゅらくも、こうなってしまっては入る気がしない。

なお、アメ横入り口、Tax freeのヨドバシカメラの場所はカバン屋だった。
山のように商品をぶら下げていた。
一つくらい買ったかもしれない。

2018-12-23
聚楽台のならび、公園口改札側には映画館が並んでいた。

1981年ころ、池田さんが新聞屋さんからもらったチケットをもってきたが、ヤクザ物や時代劇ばかりで見る気がせず、ボートに乗りに行った記憶がある。


今やこうなった。(Google view)

整理すると
北から

1 上野パーキング(上野の森美術館の下)
30分250円
家のそば(千駄木小前)でも30分300円だから、場所を考えるとそんなに高くない。

2 上野東宝ビル 
1954年 上野東宝(一階)・上野宝塚(地下一階)開業。
2003年8月閉館
2005年4月 上野バンブーガーデン
焼肉土古里のランチはお得

3 上野の森さくらテラス
1953年 上野大東ビル 上野松竹デパート、2階に「上野松竹映画劇場」「上野セントラル」地下1階に「上野映画劇場」と「上野名画座」
2006年映画館は閉館 
2012年解体 
2014年オープン

4 UENO3153 
1959年聚楽台(西郷会館)
2008年閉店 
2010年解体、2012年営業開始

バンブーガーデンだけ早い。
こうしてみると2003年までは3つともあり、2010年でも懐かしい景色が見えたのだ。
写真を撮っておくべきだった。残念。

ビルの名前をもう一度考えれば、
さくらテラスは、花見の名所上野を表すものとして分かりやすい。
バンブーガーデンは、パンダの竹ではなく、かつて上野の山が竹の台と呼ばれたことから来ているかもしれない。東日暮里の都立竹台高校は、1935年寛永寺の塔頭、西洋美術館辺りにあった凌雲院内で創立した(市立第四高女)。
こうしてみると、3153も上野に関係した名前がよく、旧名西郷会館であったこともあり、無理やり作ったのだろう。


2019年1月6日日曜日

長野高校4 金鵄祭と駅伝

数年前(十年以上前?)どなたかのブログで1970年金鵄祭の写真があった。
今回見ようとすると、そのサイトはなくなっていたが、昔それを教えてくれた高倉仁史氏がダウンロードしていてくれて、送ってくれた。
画像検索などもしてみたが、どうしても現在のネットには見つからない。

見るうちにどうしてもここに示したくなった。
そこで貴重な写真15枚のうち、無断で数枚をここに載せる。
もし心当たりのある方がいらっしゃれば、ぜひ連絡いただきたい。
もちろん、ご連絡いただければお詫びして削除いたします。

・・・・・

金鵄祭は9月、敬老の日と直近の日曜日を含む連続4日間で行われた。
普通の高校の学園祭は土日2日間だが、当時の長野高校は運動会、駅伝、講演会なども併せた。
中庭で準備中?
1年の時弁当を食べていた階段は写真右の奥
日新鐘は左側にあった。
今写っている南側校舎だけ保存されている。

当日。
長野西高や清泉の女子も大勢来た。

外部の先生を呼んで座談会などもあったようだ。

剣道班での招待試合
この他に、模範演技などをやった。
日本刀(真剣)で演武(日本剣道形)もやる。
こういうものは防具をつけない。

私は小太刀の形をやった。
長い木刀で襲って来る高倉仁史を小刀(木刀)で受けた。練習はうまくいったのだが、本番で木刀がぴたり止まらず、高倉の額をパカーンと打ってしまった。相当痛かったはずだが、もともと無表情の彼はピクリとも動じなかった。

隣の空手班と合同でお化け屋敷もやった。
空手道場は木造平屋のお化け屋敷みたいな建物。天井がなくて梁がむき出しになっており上からの仕掛けもできたから、本格的なものを作った。

夜になると講堂でステージをやった。
覚えているのは、上半身裸になって竹刀を振りながら「立てや~いざ~我らが剣士~」と班歌を怒鳴るように歌い、踊るのだが、防具の面をつけていたので恥ずかしさは大してない。練習もなく、ぶっつけ本番。芸術性も何もなく、酒井博先輩がリーダーで、井浦秀夫先輩も一緒にいたはずである。

金鵄祭中は帰宅しないものも多く、ステージは時間もゆるくて延々と深夜までやっていた。部室で夜中まで酒を飲んでいた者も居ただろう。

キャンプファイアーとフォークダンスもあった。

記憶では先生の存在がない。
そのくらい生徒が自主的にやっていた。
教員の休養期間だったとも思えないが、生徒が羽目を外し自由にやっても大目に見られた。

金鵄祭には駅伝もあった。
クラス対抗で3学年合わせ25-27チームが競う。
10区間、1クラス45人のうち10人が代表になる。

中学では体育が苦手だったが、長野高校では運動音痴な人が多かったせいか、むしろ得意なほうになってしまった。体育の1500メートル走でも、二組に分け、一方が走って他方がタイムを計ってやるという方式だったが、そのクラスの半分ではトップだった。
(わが8組は肺を病んでいる人が多いという冗談もあったが。)

1,2年生のときは二区を走った。浅川の田んぼのほうだが、ここが一番面白い。序盤でそれほど差がついていないから、数えながらごぼう抜きができる。1年時、2年時とも十数人追い抜いた。


剣道班、竹内清孝先輩は、終盤の山道の区間を走っておられた。
「なんか走っていたら、前のやつが先に行っちゃってさ、
見えなくなって、後ろを見たらだれもいないし、
一人で真面目にやるのも馬鹿らしくなってしばらく歩いていたら、
後ろから来たから慌てて走り始めたよ」
まあ、分からなくもない。
彼は剣道班の1年上の5人のうち最も成績が良く尊敬されていたが、エロ本が大好きだった。(グラビアより官能小説)
彼の走った区間は山から下りると女子校の長野西高があった。

3年生のときは、二区ではなく景色のいい山道の区間にエントリーした。竹内先輩の好きだった区間である。
雲上殿の西のほう、東屋もある展望台の中継所で待っていたが、3年8組はいつまでたっても来ない。たしか走者は体操班の平出和夫のはず。
そのうち先生の車が来た。
(ということは先生も一応、面倒見てくれていたということか)
中になぜか木藤博が乗っていた。
部落解放運動に熱心だった彼はだいぶ前の区間だが・・・

どうしたんだと聞いたら、必死に走って中継場所に行ったら、8組がいなかったという。
仕方がないから、とにかくタスキを渡すべく力を振り絞って次の区間も走った。ところが次の中継所にも受け手がいない。ここで心が折れ力尽きたらしい。

天気のいい秋の日だった。
そのまま車に乗ったのか、山から市内を一望しながらのんびり歩いて帰ったのか記憶にない。
平出らは前夜から学校で徹マンをやっていて寝坊したらしい。
私は特に怒らなかったのだが、関係なかった上野豊、佐藤和弘らがクラスの途中棄権を知ると「つるし上げろ」と怒った。
彼らはどちらかというと(ちょい悪の)不良グループで、「あんな駅伝なんて、かったるくてやってられるか」という風な人々であったから少し嬉しかった。

3年8組は、グループで授業をさぼって雲上殿(善光寺納骨堂)の花見にでかけ酒を飲んで問題になったり、塩野谷など目立たない人でも(髪型は鳥の巣のようで目立ったが)電車でタバコを吸っていたり、いろいろ有名人がいたが、担任は一番おとなしそうな瀬川律敦先生であった。

このころ長野高校は、「校長裁量」による入学者増加が3年続き、教室が足りなくなった。
3年生が授業のたびにジプシーのように教室を動くことが多くなっても、わが8組は問題児が多いという評判のおかげで、優先的にホームルームを与えられた。

左上が唯一の非木造建築、できたばかりの金鵄会館

それから金鵄祭期間中の運動会。
旧制中学の流れをくむ男子校らしく、騎馬戦も棒倒しもあった。

いまも開成では騎馬戦、棒倒しはある。しかしケガ人が出るたびに安全策を徹底し、優秀な生徒自身によるルール改正が行われてきた。大勢の学生審判団が競技を監視し、少しでも危険があると中断させる。頻繁に中断するから見ているほうは興味がそがれる。

当時の長野高校では昔ながらの荒っぽい競技が行われた。多分けが人は出ていただろうが、いい悪いは別として、審判もいないように見えたし問題にもならなかった。

ところでこの運動会は、ちゃんとしたプログラムがあったのだろうか?
と思うほど、いい加減なところがあった。
運動会なのになぜか大河ドラマ「国盗り物語」の音楽が流れる中、張りぼての戦車も出てきたが、あれは何だったのだろう? 皆が作ったわけではないから誰かが勝手に作って勝手に出てきたのだろうか。

ルールも適当だった。
パン食い競争は、競技者が殺到すると、パンのひもを掲げている係の二人が意地悪して逃げた。地面まで落としたりする。選手は手を使ってはいけないから(この辺りはルール厳守)、四つん這いになって顔を泥だらけにしてパンに食らいつく。土埃がもうもうと立つ中、見物人は殺到する犬のような級友に大笑い。
由井克之が走った組は、「我先に食いつくような、みっともないことはやめようぜ」と誰かが行ったか、腕を組んで堂々と行進していったが、パンが近づいて誰かが抜け駆けすると、一度に殺到し、やはり獰猛な犬たちになった。

クラス対抗だったが、みんな勝負より「うけ」を狙った。
障害物競走だったか徒競走だったか、先頭を走っていた我が8組の園田正剛が、突然ふりむいて後ろ向きになって走り始め、後ろのランナーにも逆向きになるよう指示した。我々も驚いたが、後続も慌てただろう。しかし彼らは笑いながら同じように後ろ向きに走った。

次の組は、それを見たせいだろう、先頭が途中から四つん這いになり、後続も犬のように走った。そんなルールはないし誰も聞いていないのだが、真面目に走って追い越すような無粋なものはいなかった。打ち合わせなし、何が起こるか分からないから観客は面白い。

(園田はちょい悪グループのリーダー格でほとんど勉強している風はなかったが、現役で上智に受かり皆を驚かせた。大学時代、野沢温泉の路上でスキー部の主将として来た彼にばったり会った。)

クラス対抗の綱引きでは場所交代の時、誰だったか、旗振りの誰かが「おい、俺が合図したら一斉に手を放せ」と走りながら小さな声で皆に素早くささやいた。始まって相手が必死になったころ、皆で一気に手を放すと、相手は文字通り「吹っ飛ぶように」後ろに折り重なってひっくり返った。
今なら間違いなく危険行為として批判されるだろうが、我々は優勝した時より(もちろん優勝はなかったが)全員飛び上がって万歳、万歳と叫んだ。

今思うと、センスのあるやつがいっぱいいた。
金鵄際のポスターやパンフレットを作った堤さんの作品は素晴らしかったし、1年の時仲良かった岡村重信は高1で長野の大きな会場でピアノリサイタルを開いた。

長野県の盆地で一番大きな善光寺平と、群馬草津や新潟妙高のほうも含めた広い地域から、中学の時はクラスで1,2番の学力がある者が集まり、皆一癖も二癖もあった。
しかし、これ以上学力でふるい分けてしまうと、彼らは入ってこないだろう。たとえば東大などには、こういう人間はいない。

何かノーベル賞などを取らせるには、このくらいの偏差値の集団に予算をあげれば良い気がする。


千駄木菜園 総目次

2019年1月3日木曜日

長野高校3 剣道班とグラウンド

12/30、昔の中庭の場所に立って北を見る。
今グラウンドになってしまったところには
・中庭を囲む北校舎(普通教室の他に、化学実験室や物理を受ける階段教室があった)
・薄暗い講堂(卓球やバドミントンの時も使った)
・天井にバレーボールが引っ掛かりそうな木造の体育館。細長い1棟が2つに分かれていた。
・1割しかいなかった女子のための更衣室、兼休憩室(男子禁制、お局と呼ばれた木造平屋)
・長野高校唯一の非木造建築、金鵄会館(1969年だから私が入る3年前の新築)
・空手道場(木造平屋)、プール、弓道場などがあった。

 
1965年ころ

みごとに何も残っていない。ふつう大規模新築工事でも、敷地の端の小さな小屋などは放っておいたり倉庫にしたりするものだが。
金鵄会館など十分使えたはずである。
このあたり金鵄会館のあったところ。
ごみの中に昔のものがないか見たが、あるわけない。

金鵄会館1階は食堂の他に、売店、体育の教員室があった。
売店の窓には映画のポスターが貼ってあった。
ベン・ハー(リバイバル?)とか、ゴッドファーザーやロミオとジュリエットとか思い浮かぶが、調べると年代が合わないものもあり記憶違いかも。

グラウンドの端にあった用具小屋脇のロッカー。
昔のものかもしれないと、
手掛かりとなる落書き探すも見つからず。

昔のグランドから北門を出てSBC通りに出るところ。
右側に野球班の雨天練習小屋があった。

野球班の監督は近所の老齢の開業医、広岡先生。
名物監督として内外に知られた。
当時すでに医業は引退されたのだろうか、毎日グラウンドにじっと座って見ていらした。はたから見るとその不動のお姿は神秘的ですらあった。

あるとき隣の柔道班で投げられたものが失神して、友人が広岡御大のところに走った。伝説の先生を近くで見たのは初めてだったが、普通の方だった。
北村弁護士も1年上だったからグラウンドにいたはずである。

高校に入った1972年は長野高校が珍しく強くて甲子園も期待されていた。その時のエース、有賀さんは、中野平中学の2年先輩。田舎の小さな中学から入ったばかりの私は後輩として誇りに思っていた。
彼は中学時代、野球部のエース、生徒会長、合唱コンクールの指揮者、長身で、しかも成績優秀という、まさにスーパーマンだった。話したことは一度もない。
1年生の海浜訓練で新潟の能生にいたとき、夕方宿に戻ると野球班が県予選で負けた知らせがはるばる長野から届き、皆がっくりした記憶がある。

さて、2018年暮れの現実に戻る。新しい建物には全く興味がないので、帰ろうとしたが、体育館のそばを通ると「剣道部」という看板があった。
あれ?
班ではなく部になったのかな?
長野高校は、新聞部と放送部だけが部で、あとは班だった。長野県は班を使う高校が多い。組織の統合整理が盛んだった戦前戦中に課外活動を統合し、運動部と文化部の二つにし、その下に各部活動のグループを配したかららしい。
裏に回ったら足元の掃き出し窓が開いていた。

私は入学してもすぐ入部しなかった。
3年生が北信(長野市?)予選で負けて引退した後、6月頃入ったから、先輩は2年生5人だけ。そのうち一人が漫画家の井浦秀夫さんである。
我々1年生は当初10人いたが最も強かった上原と神津がやめ8人になった。
私は中学の時からやっていたので、初めはAチーム5人に入っていた。ところが高校から始めた北原和夫や吉平敏行(東大ボート部主将から牧師になった)らが力をつけ、1年後にはBチームに降格。
Bチームは城下町松代の中学時代にやはり経験者だった関屋と、数学の天才、なぜ剣道に来たか分からない、ひ弱な高倉の3人に加え、1年生4人のうち、小池や松沢らを入れて5人そろえた。

顧問は老齢の土屋先生(数学)だったが、道場に来たのを見たことがない。
酒井博先輩が自分で探してこられたのだろうか、県警の小林さんという方が週1回ボランチアで指導に来てくださった。小林師範は、県警でも高い地位にいらしたのではなかろうか。技術だけでなく風貌、人格ともに優れ、ふだん道場で手ぬぐいボールを作り野球をしていたような、だらけた我々も、威厳があって穏やかで優しい彼の前では、神妙に行儀を正した。

夏の合宿も楽しかった。
いつもどおり学校の道場で練習し、となりの柔道場の畳でごろ寝するだけだから、旅行気分はないが、何も準備はいらないしお金もかからない。

いま長崎大医学部教授の由井克之は南佐久の川上村からきて下宿していたが、穏やかで非常にまじめな性格を買われて主将になった。ところが、腕立て伏せ、素振りなど基礎から実戦形式まで、分単位の緻密な計画を作り、我々は音を上げた。朝など筋肉痛で便所に行っても座れず、階段も上がれないほどだった。

食事は自炊。
裏の田んぼのあぜ道を通って買い物に行き、隣の空手班の道場にあった竈と流しを借りて飯をたき、炒め物や汁物も作った。先輩からの差し入れのスイカも切った。12人のうち3人ずつ調理当番になり、当番になれば厳しい練習を半日そっくり堂々と休める。
そしていっぱい作った。
一人暮らしの由井はもったいないと言っていつも無理して食べた。その結果、動けなくなり、午後が軽目の練習、あるいは自主練になって、彼以外みな喜ぶという漫画のようなこともあった。

練習の休み時間になると、することもない高倉や関屋は一階の自動販売機のあたりをうろうろして、取り忘れられたお釣りがないかと、指を入れていた。ビンの取り出し口にも手を入れると冷たくて気持ちよかった。

そこでひらめいた。
合宿は厳しく、暑くて汗をかき喉が渇くが冷蔵庫はない。自動販売機でジュースを買うお金ももったいない。
そこで空き瓶に水をいれ、機械の下から差し入れて冷やして飲んだ。
あるとき誰かがお金を入れてボタンを押した。すると上からジュースのビンが下りてきて、すべての重さが途中の水のビンにかかり止まってしまった。
業者に怒られると思って、必死に水のビンを抜こうとするが、全く取れない。ついに水の空き瓶を割って取り出そうとしたのだが、口の部分だけ引っ掛かったまま、残ってしまった。

業者に正直に言って怒られたか、知らんぷりして逃げたか、記憶にない。たぶん後者だろう。

こんなゆるゆるの剣道班は、昇段試験にも関心がなく、増田と由井以外は受けなかった。それでも初段、二段ばかりの他校のチームと戦って勝ったりした。
だから最終学年、3年生の5月か6月、県大会出場をかけた予選で負けたときも(少なくとも私は)悔しくなく、もう練習しなくていいという開放感のほうがまさったのではないか? その日、みんなで防具を担いで入った町の食堂で食べた昼飯はうまかった。

そんなことを思いながら周囲を回ると
やはり剣道「班」だった。

かつてのグラウンドには近代的な校舎が建つ。
体育も面白かった。
一クラス4人ほどいた女子も着替え時以外全く差別せず男と一緒にプレーする。サッカー、バスケットでは竹村さんなどが果敢に突っ込み、男の集団の中でもみくちゃになっていた。
先生が怒らなかったから(というか、同じ空間にいらした記憶がない)、自分の番でないときは皆あちこちでふざけていた。
1年のとき、国語が非常にできた松沢くんは、とても太っていた。相撲みたいにじゃれているうちに上下赤いジャージの腹の部分が目いっぱいめくりあがり、下着がきれいに出たまま、仰向けにひっくり返った。肩と手足だけ赤、胴体が真っ白、パンダそっくりだった。ちょうど上野にパンダが初めて来たとき(1972)である。

走り高跳びなども、みんないろんな飛び方をした。
中野の青木屋呉服店、上田は背が小さいのに「忍者飛び」で誰よりも高く飛び喝さいを浴びた。
グラウンドが残っていればもっと思い出したかもしれないのだが。


生徒玄関をのぞくと、
校歌「山また山」の額の向こうに、佐久間象山の肖像画があった。
大正8年(1919)卒業生一同が、やはり卒業生の河野通勢(1895- 1950)に描いてもらい寄贈したもの。図書館に飾られたというのだが私は記憶にない。修復完了が1974年とあるので、ちょうど外してあった時期なのかもしれない。

校舎の中はとてもきれいだった。
私のころは、土足のままだったような気もするほど、木造の床は砂ですれて真っ白だった。
今の生徒は、校舎同様、我々のころとは大きく違うのだろう。


千駄木菜園 総目次

2019年1月2日水曜日

長野高校2 日新鐘と神聖なるピアノ

12/30、日帰りで長野に帰省。
長野駅8:40着。
早く中野に行っても、コタツでテレビを見ているだけだから、高校に行ってみることにした。
卒業後行ったのは、
1977年 剣道班夏合宿 (→1977年の長雨)
と、
2007年8月15日 娘の宿題で信濃美術館に行った帰り。
30年ぶりに高校に寄ったら、古い校舎がすっかりなくなっていてショックを受けた。隣に新築校舎(1994)が建っていた。
ついで
2010年9月23日、亡き父の初彼岸のとき。
このときは「懐かしいもの」の大切さに気付いた頃で、カメラを持って行った。
しかし保存しないまま次々とシャッターを押したため写真が残らなかった。

それで今回2018年の暮れ、今度はしっかり写真を撮るつもり。

本郷駅 9:03出発、変わってしまった道を歩きながら(→通学路)
高校到着。
1972年4月から75年1月まで通ったところ。(2月は自宅学習だったからね)

上の写真の左、正門の前は一面田んぼだった。(下の写真)

私が通った頃の校舎
金鵄が台と呼ばれた。左端に図書館、右端に生徒ロッカー棟が見える

1991年10月 校舎改築のためのグランド埋蔵文化財調査始まる
1992年8月 校舎全面改築工事起工
1994年2月 新校舎完成


毎年桜のころ、この土手に並んでクラス写真を撮った。
松代の上野豊と中野の上田裕康がなぜか手をつないで写っていた。

かつての正門と南校舎の一部。

1994年にグラウンドに作られた新校舎で授業が開始され、その後、教室棟などすべて壊されたようだ。
教室棟は戦前、1940年築。
東側が生徒玄関と渡り廊下で開いていたが、ほぼ四辺あるロの字型。
そのうち正面玄関を含む南側部分のみを保存した。

保存後は金鵄会館と称し、同窓会本部などが置かれ、
2003年、国登録有形文化財に指定された。
(なお、我々の時代、金鵄会館といえば校舎の北にあった、かまぼこ型の新しい建物をさした。一階が食堂、売店、二階が柔道、剣道場だった。)

正面玄関の一番上が25番教室で生徒会専用室。
25番といえば執行部の代名詞だった。

このあたりは桜の老木が並び、美術の時間、その間から見える景色を写生した。
中学の時はいつも先生に褒められ、美術部にも入っていた。しかし、長野高校では他に上手いやつがごろごろいたのだろう。先生も私をとくに評価せず、私も絵を描くことが好きではなくなった。

90周年に出した信濃毎日新聞での広告(1989.7.8)
私の入学する7年前1965年ころの撮影という。
手前に図書館、西口自転車置き場がある。
一番奥に金鵄会館はまだないがプールが見える。

ついでに書いておくと
明治16(1883)上水内郡立中学校設立
明治17 県立長野中学校が長野に置かれ、上田、松本、飯田に支校設置
明治19 1府県1中学校制により本支校を合併。県立師範学校と県立中学を長野と松本で分けるため、本校を松本に移して長野県尋常中学校と改称。(長野に中学なくなる)
明治26 1府県1中学校制の廃止により長野(校舎は西長野町)、上田、飯田に支校を設置
明治32(1899) 松本から独立して県立長野中学校と称し、上田尋常中学校を支校とする
(この年を創立年とする)
明治33 上田支校独立
明治34 本校第1回卒業生50名を出す
昭和15(1940)現在地に校舎を新築移転


南校舎の東部分。
入学試験の合格者はここに張り出された。

当時の写真があった。

じっくり見るのは初めて。
今みると、けっこう知っている名前ばかり。へ~、彼らは割と近くで受験したんだ。
受験番号104番の周りを見ると、10人のうち2人は落ちている。

1972年3月は、定員8クラス360人のところ、465人が応募した。
倍率1.29倍で105人落ちる計算。
私立のない田舎というのは受験機会が1回しかない。

この前の年、木島平だか飯山だかの優秀な中学生が長野高校に落ちたが、中学浪人の最中に大検に受かった。こんな子供が落ちる高校入試というのは問題ではないか、と新聞に大きく取り上げられた。(当時の大検は今と違ってたいそう難しかった。彼は翌年私と同じ年に入学)

その私の年は蓋を開けたら1クラス分、45人余計に合格者を出した。「校長裁量」という言葉が(とくに校内で)流行語になったが、それでも60人は落ちている。
彼らは私立の長野中央高校(1988から長野日大)に行くか、翌年再受験するしか選択肢がない。私の中学でも5人受け(一人は浪人)、現役の一人が不合格となり、翌年再受験した。

この状況に県は動きを加速する。
「十五の春は泣かせない」という流行語にも押された。
私が受験した2年後には小学区制が導入される。学区内の定員を調整するため、長野東高校が新設され、女子高だった中野高校も共学化された。長野市は3つの通学区になるほど細分化され、平等にするため、つまりレベル格差を解消するため教員の大移動も行われた。富士山型より八ヶ岳型を目指すとした。
しかし、進学校に慣れた教員は低学力校の生徒生活指導ができなかっただろうし、低学力校の教員は進学指導が苦手だったであろう。

その結果、長野高校からの東大合格者は、3年連続30人を超えていたのが(私の年は35人)わずか一桁に激減した。
八ヶ岳の一峰として期待された周辺の須坂高校からは一人か二人、飯山北、屋代などはゼロだったのではないか。
おりしも始まった共通一次試験の県別平均点は、沖縄に次いで下から2位だった。
その2,3年前の1975年は、長野と深志で東大に60人入り、上田、諏訪青陵、飯田、伊那北、野沢北、と全県で100人以上、人口当たり合格者数は全国トップクラスだったはずである。

教育県というのは学力が高いということではない。
江戸、明治以来、単に教育への意識が高かったという意味である。

その教育に熱心という県民性はマイナスに働き、伝統というものを壊し、県内高校生の学力を著しく低下させた。

その高校卒業から44年。
図書館跡地
図書館ではソファで週刊誌を読んでいたことを思い出す。桜田淳子、山口百恵らはデビューしていたが、天地真理と小柳ルミ子の記憶のほうが強い。

かつて図書館があった西南の隅は弓道場になっていた。
NHKドラマアニメ「弦音(つるね)」はここがモデルというが、見たことない。
西側は通用門と自転車置き場、そして図書館、保健室に行くときの廊下があった。

(現)金鵄会館の閉まっている扉のガラス越しに写す。
南校舎の西の端。
ここがホームルームだったことがある。
しかし写真左の窓側は西校舎につながり、二階に上がる階段もあったはず。
コの字型の一部を独立させるため、だいぶ修復したようだ。
池田満寿夫ギャラリーという文字が見えた。

南校舎の裏に回る。
ここはかつての中庭にあたる。
正面の校舎裏口から降りるコンクリートの階段が残っていた。
1年のころ、雨の日以外はここで弁当を食べた。
小布施の関信和は、いつも紙パックの牛乳を飲みながら弁当を食べていた。
当時はもちろんペットボトルはない。お茶はどうしたのだろう? 
私は何も飲まなかった気がする。
弁当箱はアルミ製でたまに汁が漏れていた。
豚肉生姜焼き、卵焼き、(身の小さい冷凍の)エビフライ、キウリ、赤いウィンナー、それから農作業の合間に作ってくれた母親のことなど思い出す。

一面、芝生(草?)が生えた中庭には、ベンチや、花壇の淵に腰かけて食べているグループがあちこちいた。それぞれ場所は決まっていた。

2年生以降は柔道場の畳で食べた。
もちろん冬はストーブのある教室しか食べるところはない。皆、朝来るとストーブの横の温飯器(ただの下駄箱のようなもの)に弁当を入れ、昼まで放射熱で温めた。

日新鐘?
ずいぶん立派になって、別物のよう。あまりありがたみがない。

信濃毎日新聞での広告(1989.7.8)(卒業後14年)
かつては中庭の東端にあった。倒れそうな木造の櫓だと思っていたが、写真をみるとしっかりした鉄製だったようだ。

家で見つけた、この新聞広告にはこんな写真もあった。
神聖なるピアノ
松本の県立尋常中学校本校から独立した明治32年(1899)、三好校長以下、音楽教育にはピアノが必要と考えたが、お金がない。
そこで全校生徒の申し合わせのもと、ひと冬暖房を絶ち、薪代を貯めた。
風の入る木造校舎に信州の極寒。手が凍え鉛筆が持てない日もあっただろう。
全国どの高校も立派な校訓をもつだろうが、それ(質実剛健)を実践したところは少ないのではないか?

(我が家にはエアコンがなく、「夏の暑さ、冬の寒さは他のものと比べたら大した悩みではない」という私の口癖は、この実話を源の一つとする。)

旧制長野中学はこうして貯めたお金でフランス、プレイエル社製のピアノを購入。
しかし、いつしか故障、戦後には使われなくなり、私のころは倉庫に入ったままだった。
私が卒業した1975(昭和50)年、(旧)金鵄会館に展示室ができたらしい。
だから私は見たことがない。

90周年(1989)記念事業として復元、調律され、今は校長室に展示されているようだ。
この日は年末の日曜。もちろん見られない。

(現)金鵄会館(南校舎)の東側入口から覗く。
廊下の真ん中あたり左側から、ちいさなカウンターが張り出している。
ここで国鉄の学割証がもらえた。
見上げると偉人か誰か有名な書家の額かと思われるものが掛かっており、古文書のように変色していた。
達筆を解読すれば、ただ証明書発行のための手続きについて記されていただけ。
しかし箇条書きではなかったから、詩文のように見えた。
こんなところも好きだった。

元のグラウンドに作られた現校舎

学んだ校舎が異なれば、思い出が異なり、先輩後輩の関係は生まれないのではないか。
同窓というのは文字通りだと思った。


冬野菜の収穫とワタ

2016年以来3回目の白菜栽培
2018-12-24
昨年は完全に葉が広がっていたから、今年は少しはまし。
それでも白い部分はほとんどない。

(参考:昨年度、2017-12-24)

 
 2018-12-24 初収穫 650 g
市販品と比べたらひどく小さいけれども、老夫婦だから鍋に使うにもこれで十分。

2018-12-29 初収穫
葉っぱを除いて760g 
昨年から聖護院をやめて宮重のみ。

小松菜は発芽後、虫に食われて数株しか残っていない。

11月上旬に追加でまいたもの。
ほうれん草(手前)と小松菜。

あと、ワタにまだ白い綿がついている。
というか、寒い年末年始でも枯れない。
茎を触ると幹のよう。
今年初めて作り、ワタ「棉」がクサカンムリでなくキヘンである意味がようやく分かった。
気まぐれで種をまかなければ、一生知らないことだった。