2018年12月28日金曜日

玉林寺と千代の富士

天眼寺をみたあと、言問い通り(善光寺坂)を北にわたる。
玉林寺。

 
スダジイは食べられるドングリとして知られる。
今の職場にもあり、かじったことがある。
以前、スダジイを見たくて入ったが分からなかった。


千代の富士の銅像がある。
建立されたのは彼がなくなる5年前。
夭逝した三女、両親、義父、本人が秋元家の墓に眠っている。
あれ? 北の湖とどっちが先だったっけ?
と一瞬迷う。
輪湖時代という言葉を考えれば明らかなんだけど、つい混じってしまう。

     千代の富士   北の湖
生まれ  1955(松前)  1953(洞爺湖)  
初土俵  1970      1967
横綱   1981(58代)     1974(55代)
引退   1991      1985
死去   2016(61才)  2015(62才)(ともにがん)

彼等が活躍したのは私が谷中にいた頃(1978-1981)と重なる。

スダジイを見るには本堂裏に行かねばならない。
外部の者の無断侵入は気が引ける。
しかし前回、ここをくぐって墓地に行ったので、今回もお許し願う。

通り抜けると、谷中の寺としては広い墓地。
結局スダジイは、墓地と本堂の間の藪の中なのか、すでに枯れてしまったのか、
暗いせいもありよく分からず。

向うの森はたぶん大名時計博物館。

寺を出て三浦坂に出ようと西側の小道に行くと、
私有地に付き立入禁止とある。
6年前に引っ越したころは通れたのに、外国人含め観光客が増えたからか。

そこで参道途中から東に上がっていく細道をいく。

この道は初めて
ああ、谷中で有名な井戸はここにあったか。
暗くなってきて写真もピンボケ。

初めて通る細い坂道を上がって少し広い道に出る。
ヒマラヤスギが見えて気が付く。
かつて上野公園から谷中のアパートに帰るときよく通った道ではないか。
観光客が「大きいね」という横を通り過ぎ、三浦坂へ

坂をおりる途中、さきほどの玉林寺の西側の私道の出口がある。
かつてはそっと通してもらったのだが。

三浦坂途中の猫の家。
私は猫を放し飼いする人に大いに迷惑をこうむっている。
自然とこういう店は気に入らない。


2018年12月26日水曜日

谷中天眼寺とパン屋のリトルマーメイド

12月16日、長野の弟がきた。
私が長岡へ行った話をしたら、彼は小千谷会談の慈眼寺に行ったという。
「じがんじ」というから、
「いや、寺はふつう呉音だから、ガンじゃなくてゲンじゃないか?」 
ネットを調べたら、同名の寺は、染谷墓地の裏をはじめ全国あちこちにある。
「じがんじ」と読むのもあり、結論付かず。

そのあと皆で根津のはん亭と横山大観記念館に行く。

解散後ひとり歩いて千駄木に戻る途中、言問通りに出た。

寺がある。
このあたり珍しくもないから無視しようとしたが写真を撮る。
なぜなら「天眼寺」。
朝の会話を思い出す。
てんげんじ? てんがんじ?

山門不幸とは住職がなくなられたか。
このまま通り過ぎるところ、はっとした。
太宰春台の墓があると看板が出ている。

長野県人なら皆知っている。
しかし私を含め誰も、彼が何をした人か知らない。
とにかく県歌「信濃の国」で子どものころから皆大声で歌った。
5番は偉人をうたう。

旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

しかし、木曽義仲はまだしも、信玄の五男・仁科信盛、儒学者の太宰春台とは地味すぎる。1900(明治33)年、浅井洌(1849 - 1938)が作詞したときの、長野県の偉人とはこんな人しかいなかったのだろうか。
まあ、真田幸村、小林一茶も偉人という感じじゃないし、明治以降の人をあげると差しさわりがあるし。


そっと入るが、都会の寺らしく境内は狭い。
建物の間から奥に墓が見えた。

奥平松平家?
それほど大きな墓域ではないのだが春台の墓は見つからず。
諦めて帰ろうとして看板をよく読むと
円頭角柱形の桿石、隷書で「太宰春台先生の墓」と題、高さ1.32m、
とあるので、再び戻るもやはり見つからず。不思議。

天眼寺を出たあと、言問い通りを北にわたる。
ここは善光寺坂という。
江戸切絵図(近江屋)にすでに善光寺はないけれど、天眼寺の上にセンコウシサカ、善光寺前町、善光寺門前の文字がみえる。松平伊豆守(大河内)の上は寛永寺。
寺、坂、道の多くは今もある。

1978 -80年頃、その坂の途中に、今は駅ビルなどでよく見るリトルマーメイド、アンデルセンのパン屋があった。

現在自炊すれば多分スーパーの安い食パンばかり買うであろう私としては、信じられないことだが、40年前はここのパンをよく買った。

理由は食器がもらえたのである。
コーヒーカップ、スープカップ、小皿などAndersenと書かれた食器は、1981年就職と同時に箱に入り、大宮寮を出て団地住まいとなった1983年復活した。
翌年そこへ妻が嫁に来た。
ほとんど使ってもらえなかったが、彼女も覚えていた。
どこかにあるかもしれないと言われ引越しの段ボールを探したがなかった。
捨てられたらしい。

谷根千74号(2003)にリトルマーメイド根津店のことが書いてあった。
ここにあった善光寺湯(「時間ですよ」のモデルとか)のオーナー松田橿雄さんが廃業、1976(昭和51)年にビルに建て替え、広島と青山にあったアンデルセンのフランチャイズ店になり、彼自ら青山店で修行したという。当時はまだ珍しく車で買いに来る人もあったとか。

15年前、2003年の時点でも、毎月15日のリトルマーメイドの日に600円以上買うとオリジナル食器がもらえたようだ。40年前はどうだったのだろう?

その場所がいったいどこだったか、以前来たときは分からなかったのだが、今回、天眼寺の並び、少し上に「マツダフラット」というマンションを見つけた。名前からして多分ここの右側1階だろう。
残念なことに、いくら見ても当時の店内の記憶は浮かんでこない。


2018年12月25日火曜日

ハンセン病と全生園

12/17、薬物乱用防止講演で東久留米にきた。
たまたま地図にハンセン病資料館というのが見えた。
足の向くまま清瀬市に入り、社会事業大学、東京病院と歩いて来たので、こちらもついでに見学しようと思った。
場所は東村山市になるから、3市をてくてく歩いたことになる。。

写真中央の看板を見ると3行で

国立感染症研究所
ハンセン病研究センター
薬剤耐性研究センター

とある。
あれ? 感染研が戸山から移転してきたのかな?
と思ったら、「国立感染研究所ハンセン病研究センター」だった。

なお、感染研の本部はまだ新宿区戸山にある。
ここで整理しておくと、
1947、国立予防衛生研究所(予研)設立。当初、東大伝研(現医科研)内に設置され、1955、上大崎の旧海軍大学校の跡地(品川庁舎)に移転。

学生時代、1978~80年のどこかで、教授の命令で目黒駅すぐそばの予研、品川庁舎に、サンプルをもらいに行ったことがある。カビのスラント(斜面培地)だったか、ペニシリンの力価検定用の枯草菌だったか忘れたが。

当時は海軍大学校の建物をそのまま使っていた。しかし若いころは歴史などまったく興味がなかった。後年見に行ったら高級マンションになっていた。あの時、もっと見ておけばよかったと後悔している。

1992、品川庁舎から新宿区戸山(戸山庁舎)に移転。
1997、国立多摩研究所がハンセン病研究センターとして併合された。

さて、ここにあった多摩研究所は、ハンセン病に特化していた。
1955、国立らい研究所として設立
1962、国立多摩研究所と改名、
1997、改組し予研の一部になる。

そして
1997年4 月、名前が予研から感染症研究所に変わったのである。


どこが入り口だろう、と見回すと、すぐ「納骨堂」の矢印が眼に入る。
先に見ておこうと左手の森にいってみた。

ここも広い。

書いてある通り。

納骨堂うら

納骨堂の表
ここに墓があるということは、死んでも故郷に帰れなかった、誰も迎えに来なかったことを意味する。

史跡案内板。相当広い。

恐らく娘が患者であろう。
遍路から戻ったら、ここに入れられる。
生き別れは死に別れより辛いのではなかろうか。


資料センターの入り口が分からず、うろうろしていたら、
工事をしていた人に「月曜は休みだ」と教えられた。
入り口のガラス扉は養生されていて、分からなかった。

仕方がないので外に目を向ける。
 
桜の並木というより森。
かつての患者住居跡が撤去され、桜の並木が林として残ったのだろうか?
・・・・いや、違った。

全生園は想像以上に広い。
患者の宿舎はずっと奥に広がっている。
というか、不覚にも「全生園」の意味をこの時初めて知った。

入っていいのかな?とも思うが、門も注意書きも何もない。
住民の通り抜け道にもなっているようで、少しずつ入っていく。
広いのに誰もいないというのはなぜか不安になる。
左前方に住居が見えた。
同時に白衣の看護師さんらしき人を含む3人ほどが遠くに動いた。
ということは、まだ患者がいるのだろうか。

「居住者地域につき立入をご遠慮ください 園長」

第一面会人宿泊所
他にも2か所あった。

驚いたことに向うからギターを担いで歩いてくる若者がいた。
思わず顔を見たが、瞬間的にそらしたから分からない。
しかし、よく考えたら若者の患者はいるはずがない。
このあと自転車の女子高生にも会う。
立入禁止の札があったんだけどな~。

永代神社
昭和9年伊勢神宮の余材払い下げを受けて建立されたという。
なぜこの名前になったか分からない。

「山茶花46」と宿舎に名前がついていた。

帰宅して写真に撮ってきた地図(建築基準法86条認定の看板)をよくみると
ここは単に「46寮」となっていたが、東の方は
八雲、高砂、朝日、千歳、黎明、あるいは、
ききょう、さつき、ゆり、あるいは、
牡丹、柿、樫、葵、利根、などの「舎名」がついていた。

テニスコート
奥に野球場もある。

「最初の火葬場跡」とともに、いくつかある金属製案内板の文章は上手いと思う。

散歩している老夫婦は近所の人と思われた。

帰宅してからグーグルマップを見たら、私は北東の端をかすめる程度に歩いただけだ。
それでも衝撃は十分。
瀬戸内海の長島は知っていたが、こんな近くにもあるとは思わなかった。

Wikiで調べたら、全国13か所の療養所の入所者は
2012年 2134人 平均 82.1才
2014年 1840人 平均 83.6才
全生園は2012年で243人、83歳。

1958年、東京で開かれた第7回国際ハンセン病学会で強制隔離政策を批判されたが、国は変えなかった。患者が普通の病院にかかれるようになったのは法改正の1996年以降である。
また、患者同士が結婚するときは断種が条件で、96年まで”優生”保護法の適用疾患であった。


今回、樹木希林最後の主演で「あん」という全生園が出てくる映画もあることを知った。

空堀川。ほんとに水がない。

ネットには全生園ツアーなどのサイトもある。
旧図書館、旧少年少女舎などの古い建築。
県木の森、望郷の丘など故郷に戻れなかった無念さをあらわすもの。。

イギリス大使館事件、光田健輔、無らい県運動、長島事件、本妙寺事件、多くの一家心中。川端康成と北条民雄、
プロミン、ダプソン、リファンピシン、
大分勉強になったが、もう一度じっくり来るべきところだと思った。

好奇心で見るようで気が引けていたが、幸い、全生園や資料館、関係者はできるだけ多くの人に来園、交流、見学してもらいたいようだ。2012年には、外にあった保育園が敷地内に移転してきている。

何の予備知識もなく、年の瀬に偶然足を向けただけだったが、今年訪れた場所では一番記憶に残るだろう。


2018年12月24日月曜日

清瀬に病院が集中するわけ

12/17、社会事業大学を出て、ついでに隣の東京病院に回ってみる。
隣と言っても広くて歩くと大変。

路線バスが敷地に入って見えなくなった
HPをみると
昭和6年の東京府立清瀬病院(のちの国立療養所清瀬病院)と
昭和14年の傷病軍人東京療養所(のち国立東京療養所)が
昭和37年に合併したという。
両方とも結核療養所だったようだ。
それなら空気のよいところに広い敷地が必要だろう。

この辺りほんとに病院が多く道路の向かいは救世軍清瀬病院。
ここにはホスピスと教会がある。



雑木林の交差点を左に曲がると東京病院の裏側(北)に沿う。
広い。結核患者が散歩したのだろうか。

しばらく歩くと廃屋が並ぶ。
病院関係者の住居か。

窓から、中にベッドが積まれているのが見えた。
多数の宿舎が病院備品の倉庫になったということは、
急激な病院縮小があったのだろうか。


       1985(昭和60)
確かに東京病院は北側にもあり、そこは今看護大学校になっている。
南側も療護園はじめ、3分の1は社会事業大学になった。


西武池袋線が近い北側

社会事業大学に敷地を分けた南側

なお、昭和60年の地図では、いまの複十字病院のところが結研附属病院とある。
すなわち昭和14年、結核予防会が設立、昭和22年に結核研究所臨床部が発足。
その後、結核研究所付属病院となったが、結核患者は激減した今は呼吸器疾患、がん、成人病を扱う。
名前も平成元年に複十字病院と変わった。

しかし複十字というのは、1902年ベルリンでの第1回国際結核会議(コッホもエールリヒも皆いた頃だ)で、結核予防運動の世界共通のシンボルマークとなっているから、結核から離れたわけでもない。

ここまで書いて、結核予防会顧問 島尾忠男氏が「複十字」348号(2013)に書かれた記事を見つけた(→リンク)。

それによれば、大正のインフルエンザでいったん減少傾向だった結核が、昭和に入って再び猛威を振るうようになる。
江古田の東京市立療養所だけでは病床が不足し、次に公立の施設として昭和 6(1931)年
に清瀬市の現在看護大学のあるところに建てられたのが、東京府立清瀬病院だという。

当時結核は差別、偏見の対象で、結核療養所の設置には、地元の反対運動が起こった。しかし昭和大不況の時代で、最後には地主も売却に同意した。

ひとたび結核療養所が1つでも清瀬にできてしまうと、差別 ・ 偏見のため、その隣に住もうと思う人はいない。清瀬には、当時の武蔵野電鉄の線路の南側に広大な雑木林が残されていたこともあり、結核患者の増加にともない、容易な買収もあって、つぎつぎと結核関連施設が作られた。
(西と南に拡大した結果、1909年(明治42)設立のハンセン病、全生園の敷地と境を接するようになる。)

以下に結核関連施設を設立順に列挙する。

昭6 東京府立清瀬病院。昭37年東京療養所と統合。(2001年から国立看護大学、看護協会研修所)
昭8 ベトレヘムの園
昭8 府立静和園。結核軽快者保養施設、後に同じ場所に都立小児結核保養所設立
昭11 東京市代用病院。  昭和22年に同じ場所に都健保組合清瀬療養所設立
昭13 清瀬薫風園
昭13 浴風園  日本鋼管の結核療養施設。昭和41年に労働省産業安全研究所設置
昭13 長生病院 昭和21年に海外引揚者寮となる
昭14 救世軍清心療養園
昭14 清瀬保養園  沖電気、日本鋼管、日本鋳造の3社で設立。現在は竹丘病院。
昭14 傷痍軍人東京療養所。  戦後国立療養所、昭和37年に清瀬病院と統合し、国立療養所東京病院となる。現在も結核病床あり。
昭14 上宮病院
昭16 信愛病院
昭17 清光園  昭和 21 年に海外引揚者寮
昭19 結核研究所  保生園から移転。附属療養所は昭和 22 年。昭和 33 年に結研と附属療養所が独立、平成元年に複十字病院と改称。現在も結核病床あり。
昭22 都健保清瀬療養所  代用病院の土地に建設、平成14年都立青山病院と統合し閉院。
昭23 都立小児結核保養所  静和園の土地に建設。平成22年都立小児総合医療センターに統合し、閉院。
昭28 生光会清瀬療養所  清光園跡地に設立、平成3年に解散。明海大歯学部となったが、平成14年に廃止。現在空地。
昭29 織本病院  昭和44年に市内旭が丘へ移転

以上19の病院が作られた。(敷地は16)
都健保清瀬療養所は現在住宅地として分譲開発されている。また今や団地のど真ん中にある竹丘病院が結核施設であったことからも、学校や団地、老人ホーム、運動場などが集まる整然としたこの一帯は、結核関連施設の跡地だったことが推定される。

このような結核療養所は全国にあり、最盛期の昭和30年ころは、清瀬だけで15の病院に5000人が入院していたという。
吉行淳之介も原稿を書きながら雑木林を散歩していたか。

それにしても、池袋から20分程度。
近くに、こんな大規模な結核療養所が幾つもあったとは、改めて薬のなかったころの結核の恐ろしさを知る。

気を取り直して、広大な療養施設跡地のことを考える。
安直に団地や小、中学校などにせず、東京病院、複十字病院を残しながら医大を集めればよかったのではないか?
都心の狭いところで高層化した日本医大や東京医科歯科大、癌研、がんセンターなど、ここに集まれば良かったのではないか? 
筑波より近いから、核ができれば製薬企業の研究所も来るだろう。そうすれば世界随一の医療、ライフサイエンスの大拠点となったかもしれない。
ノーベル賞も量産されたのではなかろうか。


千駄木菜園 総目次