2019年1月27日日曜日

大根の移植

2019-01-27 春キャベツの苗が育っている。
春先にトウが立たないように、遅く10月にまいたもの。
昨年は2月終わりに虫が少し食ったので、2,3週間後には本植えしてネットをかけねばならない。
でもどこに植えよう?
場所がない。

当初植えようと思っていた場所には、失敗した人参、移植した白菜、さらには大根と小松菜の小さいのが雑多に生えている。
人参白菜はいつでも抜けるから問題なし。
大根、小松菜は時季外れに遅くまいたのと、日当たりが悪いのとで、ほとんど育っていないが、春になれば大きくなるかもしれない。

これらを全部抜いてしまうのは忍びない。

他の場所に移植しようか?
小松菜は大丈夫だろうが、大根は無理だ。

ふつう白菜、キャベツは苗を移植することもあるが、大根は種をまいたままにする。
なぜなら途中で移植すると細く伸びた根の先端が傷み、「大きな根」の成長が止まったり枝分かれしたりするからだ。

しかしこの菜園は常識に従わない。
昨年も場所のやりくりのあおりを受け、大根などを移植した。
それは実験だったのだが、間抜けなことに移植したことを忘れて、一緒に食べたり処分したりして、結果は不明。
それで今年も挑戦することにした。


白菜、大根を収穫して歯抜けのように空いた場所があるので、そこへ移植する。


移植すべき大根をスコップで掘ると、白く細長い根が見えた。
先端部は途中で切れているだろう。
とにかく8本ほど移植した。
この大根4本はちょっと密だったかな。

アブラナ科は連作が良くないとされる。
しかし狭い都会の庭では、連作など当たり前。それどころか、この大根のように定位置を与えられず、席替えのように、自分の場所を別のアブラナ科に明け渡し、ジプシーのように他に空いた場所へ移動するという、農家ではありえないことをしている。

こちらは1/27、お隣と自家用に無理やり白菜を取って場所を空け、
そこへ小松菜(左)、大根(右)を植えた。


2019年1月21日月曜日

与野駅、田辺製薬大宮寮

1月19日、浦和西高に用事があって与野駅、東口に降りた。
1981(昭和56)年、就職してから2年間、この駅から通勤した。
びっくりするほど何もない駅前広場
千八寿司は昔からあった。
曽布川と昼飯で並の握りを食べたことがある。

2019年のこの日、土曜の8時前だから人は少ないが、JR駅前で平屋、二階建てしかない街並みの様子だと、40年間ほとんど発展していないようである。「奇跡のように残った」というほどの有難味はないが・・・

駅前広場から北浦和方面に伸びる商店街(?)
平社さんが通ったというパチンコ屋があった気がする。

再び北のほうに目を向けると広場の線路側に公衆便所。
これも昔からあった気がする。

 ここから独身寮のあった北東方面に向かう。
旧中山道に出るまでの短い道
左側にレコード店があり、買わなかったがたまに入った。
CDプレーヤーの発売が1982年10月だから、まだレコードの時代。

旧中山道に出たところの交差点。
ここにケヤキの木があった。

2010年に倒木の危険があるとのことで伐採されたらしい。
与野駅改札口外に切り口が展示されている。
写真をみるとワイヤーで補強されているのが分かる。
樹齢300年ということで仕方がないということだが、200年、400年であっても、この2,30年で弱まり切られたのではなかろうか。彼にとって、近年の変化は急激なものだったであろう。

中山道をほんの数十メートル北に行くと
右側にラーメン屋があった。

一年後輩の小川君と一緒に寮に帰ったとき、たまたま入り、安いラーメンをおごってあげた。
彼は大学入学後、進路変更して獣医学部に入りなおしたから、同期のものより年長であり、また極真空手の練習で毎週東京に出ていくこともあり、あまり社内の人と付き合わなかった(私がダンスを始めてから飲み会を堂々と断ったのに似ているかも)。

私はスマートにおごることが下手で、めったにおごらなかったのだが、彼が数年後に退社するとき、たった一度のことでお礼を言われてしまった。
こちらはすっかり忘れていたのに、彼の人柄を最後に見た気がした。

そのラーメン屋の先から東へ入ると住宅街。
左側の渋谷家はそのままだった。

この道の先、交差点の北東の角のソバ屋は美容院になっていた。
右側にカウンターだけの飲み屋があった。ここは鈴木龍さんや小山さんと入った。
さらに先には小さな寿司屋。ここも曽布川と入った。めったに客など入らぬような店で、生ものなど大丈夫かと心配したが、マグロがうまかった記憶がある。

あのころは駅から離れた住宅街にぽつんとある飲食店が、不思議とやっていけたようだ。
今はアパートが増え、その場所も分からない。

上木崎小学校
向うに見える建物はなかった。
グランドの東は昔国鉄、いまJRのアパート。

JRアパートの北側は片側1車線の狭い道だったが、さいたま新都心に近いせいか、新しくなって景色が一変した。写真右奥に入る細い道に辛うじて記憶アリ。そこを入っていくと右に三菱金属の研究所があった。 写真右手前を下ると産業道路との交差点。

この交差点の北西の角は、小さな林で、月ぎめ駐車場があった。
桐生工業野球部出身の市川君が入社間もなくトヨタのカリーナだったか、チェイサー?、マークIIだったか忘れたが、豪華な車を買って置いていた。その土足禁止、絨毯のしかれた車に乗せてもらい、鈴木弘と3人で湘南の海に行ったこともある。

彼は甲子園が近いチームで4番を打っていた実力者で、東京工場にあった硬式野球部を長年けん引した。(一方、我々の研究所の野球チームBeaglesは、軟式でキャッチボールをしていた程度の者もいる同好会だった)。
彼は私の7歳下であったが、寮のロビーで素振りなどしていると親切に指導してくれた。躰の柔らかさとパワー、ももの太さは私が初めて間近に見た一流アスリートのものだった。

交差点から南の産業道路は拡張されておらず、景色が残った。
左側の焼肉大洞門は昔もあった。入った記憶はない。

一方、北の大宮方面はさいたま新都心に近く、人家が少なかったせいもあり、車線が増えて一変した。

産業道路を北に少し歩くと、左に三菱金属の研究所があった。
西の正門は中山道に面し、奥のグラウンドは産業道路に面するという広大な敷地で、当時はセキュリティーなどという言葉はなかった。産業道路からグラウンドに自由に入れたので、寮から山本達郎と出かけ、彼はエースの石井さんの控え、私はセカンドの控えだったから、二塁けん制やダブルプレーの練習をした。

この交差点で産業道路を渡る。
右側にソバ屋があり、カレーうどんなどを食べた。
産業道路側の並びにはラーメン屋があり、寮食のない休日の昼など利用した。
二軒ともない。
かつての田辺製薬大宮寮の敷地には別の建物が建っていた。
角のコンビニが昔何だったか思い出せない。

大宮寮は、東京工場の閉鎖、新卒の多くが大学院出身となり、入居者減少。
私が入ったときはすでに一人部屋で、さらに3階がそっくり空室になった。
1990年代になって研究所の隣の戸田寮を新築したことで、この敷地を売却した。

表札に大宮宿舎とあるので、やはりどこかの寮になったのだろうか。
しかし独身寮でなく家族も住めそう。

西側から

かつての田辺製薬大宮寮はコの字(Hの字)型になっていて、真ん中が食堂やテニスコートだった。
冷暖房はなく、夏暑いと廊下や卓球台の上で裸になって寝る人も出た。
寮の北の方は畑だった。
誰も通らない道路(農道)でバレーボールの練習をした。
金沢の井上、立教の石川が上手だった。

かつての寮の裏、東側に回る。

大宮寮には芝生に囲まれたテニスコートがあったが、誰もやらなかった。
会社に行けばもっと広いところがあったからだ。
有機化学研究所の名手(なて)さんがキャッチボールで暴投し、管理人さんの部屋のガラスを割った。

管理人の伊藤さんは私と同郷、小布施の人で、81年の夏か秋、どこかの会社から転職されてきた。谷中に住まわれていたことでも話が合い、私の顔を見ると意識的に北信濃の方言を使われた。
楽器の販売をされていたようで、管理人室に家庭料理をご馳走になりながら、別人のように上手なハワイアンの演奏を聞かせてもらった。

それまでの管理人さんが厳格であったのに対し、非常に人当たりが柔らかく、皆と徹夜マージャンをされ、よく負けておられた。

寮生のUさんが失恋して落ち込んでいるとき
「今までタダでやれたんだから得したと思いなさい」とユニークな慰め方をしていらした。

私が年賀状をやめたせいか、音信不通になったが、元気でいらっしゃるだろうか。

当時は寮と与野駅の往復で、2年住んでも、すぐ裏に寺があることを知らなかった。
神社仏閣や散歩に興味がなかったし。
景元寺 本堂が公民館みたいである。


上杉謙信はうそっぽいな。

寺から出て寮の東側から西を見ると、畑の代わりに建て込んだ家と、その向こうにさいたま新都心のビル群が見えた。

2年間住んだのは大宮市北袋2-385。

当時寮生の間では公団住宅を申し込むのが流行っていた。抽選は3か月に一回、駅から近いところの倍率は高く、菅野さん島津さん山田治民さん鈴木龍さんらは、駅から離れた上尾の団地に出て行った。長崎さんは結婚前に当たらず民間アパートだった。

落選通知のはがきを集めると倍率が優遇されたが、私はそれを使う前に、予定より早く東大宮の瓦葺団地が当たってしまった。寮を出ざるを得なくなり、結婚するまで1年間ひとりで遠い2DKから通うことになった。


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2019年1月19日土曜日

中島飛行機とグリーンパーク球場

2019年初めてのダンス競技会は武蔵野総合体育館。
2012年、2017年についで3回目。

裏がグラウンド、向かいが武蔵野市役所やクリーンセンター、公団住宅などで、一帯が異常に広々している。
もし以前が畑であったなら少しずつ宅地になるから、このような広い土地は得られない。

そう、ここには戦前、中島飛行機の工場があった。
東洋一の航空機メーカーである。

このダンス大会は毎年新春にある。
終わると暗くて寒いので散策はしなかった。
しかし今年は負けたらさっさと帰り支度をして、探索に出かけた。

そうそう、ここには戦後の一時期、プロ野球も行われた東京スタジアムグリーンパーク球場もあったはず。
2019-01-14
暗くなりかけているので急がなくてはと、市役所南の広場でキャッチボールをしていた親子にグリーンパーク野球場について聞くが知らないと言う。

公団(UR都市機構)の団地の見取り図を見ながら、球場の位置を想定し、どのあたりに記念碑を建てるかと考えて、中央の公園の南隅に行ったら果たしてあった。

1951年に完成、軍需工場時代の線路を利用して三鷹駅から鉄道も引かれたが、プロ野球は1シーズンしか使われず、閉鎖されてしまった。
この野球場、なんかの漫画に出てきた気もするが、思い出せず。
アストロ球団は新宿副都心だったし、ドカベンかアブサンだっただろうか?



興味深いのは、今の武蔵野市総合運動場のグラウンドが戦前から中島の付属施設としてあったこと。(下の写真)
中島飛行機武蔵製作所
 米国国立公文書館原蔵(武蔵野市HPから)

なお、写真上の円弧は千川上水。
武蔵境で玉川上水から分かれ、練馬を経て豊島区に行く。
玉川上水本流が新宿から麹町台地に行くのに対し、千川上水は江戸の北、本郷台地などに水を供給した。

中島飛行機 武蔵工場 正門あと
桜の木は小さいから当時のものではない。

中島飛行機は、海軍技術将校だった中島知久平が、
1910年フランスの航空界を視察し、研究を開始、第一次大戦で飛行機が実用化されて間もない1917年、海軍を退官、故郷の群馬県太田市に飛行機研究所(翌年、中島飛行機製作所と改名)を作ったのが始まり。

海軍を辞めるときにもめたのか、主に陸軍の飛行機を生産した。1919年に初飛行に成功、陸軍から20機受注し、以後発展、拡大する。このあと三菱重工業、川崎航空機、立川飛行機、日立航空機、愛知航空機といった航空機メーカーあるいは航空部門の誕生が続く。

陸軍の隼(5751機)、疾風(3500機)が有名だが、後には海軍の月光(477機)、天山(1266機)、彩雲(399機)、橘花(ジェット機)も生産している。
ゼロ戦のエンジン、栄も中島製である。

案内板の最後に書いてある、5万人の一般従業員が通った地下道というのは、
上空から米軍に見られないようにとの配慮。
でも大工場というのは一目瞭然だと思うが。


戦後GHQの命令で12社に解体され、そのうちの富士重工は2017年スバルに改名、富士精密工業は立飛の技術者が作ったプリンス自動車と合併、日産自動車の一部になった。

スバルが群馬太田にあるのは中島の故郷、創業地であるから。
(そういえば、熊谷から太田への軍事鉄道の予定だった妻沼線跡にいったな)

また、武蔵製作所の5キロほど南、三鷹研究所跡地は、いまスバルの事業所とともに、国際基督教大学ICU、東京神学大学(吉平の結婚式で行った)、ルーテル大学などになっている。

そうだ、大宮にもあった。
1989年から96年まで7年間、伊奈町に住み、ニューシャトルで通勤するときスバルと書かれた大煙突が見えた。戦前、大宮競馬場(1930-39)の跡地が、1943年中島飛行機大宮製作所となり、海軍機のエンジンを作った。戦後そのまま富士産業となり、1955年から富士重工になった。

96年指扇に引っ越し、ニューシャトルは二度と乗らないと思っていたら、2013年転職、千駄木から伊奈町に通勤、再び毎日乗るようになった。しかし高い煙突は見えなかった。
調べたら富士重工は96年まで操業、99年解体、2004年ステラタウンとなった。
ステラは星、スバルである。

煙突は中島飛行機時代のものらしく、その気になれば戦時中の建造物が見学できたかもしれない。

ところで富士重工の富士は何だろう?
中島飛行機が計画、戦勢挽回の悲願であった渡洋爆撃機「富嶽」に通じているのではないか? すなわち、何か戦前の栄光を残したくて名付けたとも考えられる。


正門跡の向かい、グリーンパークと書かれた路地のあたりは、戦前の航空写真だと、アーケードのような細長い屋根が見える。

そのまま工場の南の縁を西へ歩く。

武蔵野中央公園の南から弧を描いている緑地は、武蔵境駅と工場をつないだ引き込み線の跡。
上が南

ダンスのカバンが写っている。




中島飛行機は米軍の格好の爆撃目標であったから、それを守るために高射砲陣地が作られた。
すっかり暗くなったが今のスマホの能力はすごい。

関前というのは武蔵野市の地名。

さらに引き込み線跡を歩いていると、玉川上水境浄水場の東に出た。
境浄水場は、新宿西口の淀橋浄水場が廃止されてから代わりに作ったものかと思ったが、1924年にできている。

ここから玉川上水に沿って三鷹駅まで向かう。


上水のそばはおしゃれな家が続く。
車道と交差するところは地下に潜る。
三鷹駅ぎりぎりまで暗渠でなく開放水路で、都市部では貴重な緑地である。
太宰が入水したのはもう少し下流。
17:45三鷹駅着。
朝8:40にここでバスに乗って以来、9時間ぶり。
この日、ラテン2競技11曲
スタンダード2競技10曲、合計21曲踊り、そのあとずっと歩いて、くたくた。

武蔵野市は戦争の遺産や玉川上水のおかげで広大な公園、公有地と緑地に恵まれた。ケーキや、カフェなど中央線らしいおしゃれな店も多い。
店といえば団子か煎餅、住民も年寄と外国人が多い谷根千とはえらい違いであった。


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