2024年1月14日日曜日

小山一族、祇園城と小山御殿

小山にきた。
宇都宮線だと栗橋(埼玉)、古河(茨城)、野木(栃木)、間々田のつぎ。栃木県では野木町に接する最南端の市である。
新幹線、宇都宮線のほか、両毛線、水戸線の起点でもあり、駅舎は新しくて駅ビルも立派。
2024₋01₋10 9:39
小山駅。
西口のロータリーに降りると2本の柱のキャッチフレーズが迎えてくれる。
「徳川家康 決断の地 開運 小山評定」
「祝 本場結城紬ユネスコ無形文化遺産登録」
しかし結城市は小山と結びつきが強いとはいえ、隣の茨城県である。
もう一本のキャッチフレーズも、偉人(家康)生誕の地とかいうならわかるが、「決断の地」というのはあまりに市の紹介として弱い。

ロータリーの裏に回ると(写真)
開運小山評定の柱の裏は
「祝 渡良瀬遊水地ラムサール条約湿地登録」とあった。
渡良瀬遊水地の栃木県側は野木町と藤岡町がメインだが、小山市も少し接している。しかしほんのわずかであり、このフレーズも他の自治体と比べ大々的に言うには弱い。

こういうキャッチフレーズより、小山と言えば小山遊園地(1964年開業)が有名だったが2005年に閉園した。私のように行ったことがなくても名前だけ聞いた人は多いだろう。この遊園地がなかったら、県外の多くの人は小山をコヤマと読んだのではないか?

小山はオヤマと読む。
小川はオガワ、小山は人名にしろ武蔵小山にしろ、コヤマが普通。
小さいものをコといったりオといったり、どういうことかと考えたけど、調べるのは面倒だ。

小山に降りるのは3回目。
最初は1985年11月、剣道班の友人で富士通にいた関屋幸雄氏の結婚式で和田屋新館(2010年倒産)に来たが、全く記憶がない。
二回目は2017年11月、このときはダンスの競技会のためすぐバスで県南体育館に行ったため市内は歩いていない。ただ駅前で目についた小山評定の看板についてのブログは書いた。

今回は短時間でも少し歩く。
小山には城がある。中世の小山氏が築き、一般には、例えばwikipediaでは小山城という。しかし地元では、例えば小山市の観光案内やグーグル地図では祇園城という。
地元で小山城と言わないのは、思川に沿って小山市内に鷲城、中久喜城があり、いずれも小山氏の城であり、鷲城などは保存の市民運動もあったことから、3つの城を区別するため、ここだけ小山城と言うのを避けたからと思われる。

駅からまっすぐ西に祇園城通りを歩く。
新しくできた道のように歩道も車道も広くて店舗があまりない。小山宿本陣つまり日光街道は駅の西側だからこちらが繁華街のはずだが。
やがて国道4号に出た。東北自動車道のほかに市の東のほうにバイパスがあるから、それほど交通量は多くない。
交差点の南西の角、市役所の東に芝生の広場があった。
9:45
小山市役所と小山御殿広場
今時これだけの何もない芝生広場は珍しい。犬の散歩ができる広場ということだが、そのためだけの芝生とは思いたくない。

史跡説明板があった。
小山御殿
祇園城は関ヶ原のあと本多正純が3万石で封じられ、その後宇都宮に移封されると廃城となった。しかし将軍の日光参拝が始まると祇園城の南の部分に休憩所が造営され、それが小山御殿である。日光への途中というだけでなく、関ヶ原の戦勝のきっかけとなった小山評定の場所ということも意識されていたであろう。
しかし、3代家光は10回も参拝したが、4代家綱の1663年以降参拝は途絶え、御殿は20年後の1682年古河藩の手で解体された。
思川の左岸の丘陵に築かれた祇園城は御殿広場、市役所のあたりまで広がっていた。
会津討伐に向かった家康軍がここに陣を敷いたのは、祇園城があったというだけでなく、兵糧などの輸送に使った思川の河岸があったからでもある。
9:50
川側の、広場より一段と高いところに上がってみる。
発掘調査された礎石が並んでいるのかと思ったら、木の切り株であった。不思議なほど太さのそろった大きな切り株が、ほぼ等間隔で並んでいた。
犬の散歩を許可した公園ということで、足元に注意したが、フンは気付かなかった。
9:50
御殿広場の南西の端から市役所駐車場を越えて思川をみる。

藪の中を歩いて道路に戻るとズボンのすそに草の実がいっぱいついていた。
9:55
小山御殿から祇園城通りを少し歩くと、観晃橋の手前に石垣があった。
この道路は空堀のあとを通したものだろうか?
橋から北を見れば日光連山がよくみえる。1899年にかけられ、晃(分解すれば日光)を観るということで名付けられたとか。
水戸城などと同じく連郭式平山城である

祇園城の入口は工事中で封鎖されていた。
石垣の積み方は新しく、後世のものと思われた。
いずれにしろ、入れないので登り口を探して、城の崖下、民家の裏を入っていった。
9:57
城の東側はすぐ石垣から土塁になった。
これが本来の姿であろう。
関東の城はほとんど石垣がない。
多くの城主が徳川譜代で石高が小さかったのと石切り場が遠かったからによる。
それにしても、この角度の土の斜面が、廃城後もよく崩れなかったものだ。

9:59
城址公園への入口があったので入っていく。
ここは空堀のあとだろう。
上がると上段曲輪。
上段曲輪
片隅に子どもの遊具が立ててある。

小山氏は、藤原秀郷(俵藤太)を祖とする太田氏から分かれ、1150年ころ小山政光が初めて下野小山に移住し、小山氏を名乗った。彼の後妻で三男・朝光(結城家初代)の母である寒河尼(さむかわに)は源頼朝の乳母。すなわち、頼朝の挙兵から幕府成立まで強力に支援し、以後鎌倉御家人、下野国守護として確固たる地位を築いた。以後、代々の当主が着々と力を蓄え、11代小山義政は室町幕府創設にも功あり、南北朝時代のころには東日本最大級の勢力となった。
しかし、宇都宮氏を滅ぼしたことから、鎌倉公方足利氏満の不興を買い、鎌倉府から追討軍の攻撃を受ける。合戦は数次にわたり、やがて滅んだ。
しかし氏満は分家の結城基光の次男・泰朝を小山城に居城させて、家督相続(12代)を許した。
祇園城が初めて文献に出るのは、この1380年の小山義政の乱のときで、城はそれ以前からあり、築城したのは藤原秀郷とも小山政光ともいわれるが分かっていない。当時の小山氏の本拠地は神鳥谷(ひととのや)曲輪(小山駅から線路に沿って南、1.2km、土塁が残る)とされており、祇園城が小山氏代々の本拠となるのは12代以降と言われる。

小山氏は祇園城を本拠地として戦国時代をむかえ、小田原北条氏と争うも降伏、臣下となった。しかし秀吉の小田原征伐で北条とともに滅び、子孫は水戸徳川家の家臣となったという。
いっぽう、分家筋の結城氏は小田原征伐で秀吉に参陣したため、戦国時代を生き残った。しかし家康が関東に来ると、家康次男で秀吉の養子になっていた秀康を養子に迎え、結城の家名を残す。しかし結城秀康は越前に転封され、鎌倉以来の名族は結城の地から去った。
10:01
上段曲輪から空堀を経て南は本丸、二の丸、三の丸だが工事中で封鎖されていた。
本丸との間の空堀の隙間から思川と観晃橋をみる。
川に守られた高台であり、敵が来る関東平野を遠くまで見渡せたと思われる。
10:04
上段曲輪の北は塚田曲輪
塚田曲輪にある大銀杏

塚田曲輪の北の空堀は急峻で深い。
10:07
この角度で、よく300年の風雨に崩れなかったものだと感心する。
粘土質なのか、地中に竹など何か補強材でも入れているのか、説明板などは一切なく、よく分からない。石垣がないと城址というより市街地に近い山林という風情である。
10:08
橋を渡って本祇園曲輪に入る。
思川から大分高い丘陵なので、水を蓄えることは難しく、すべて空堀だったと思われる。
10:10
本祇園曲輪
祇園城の名は小山氏の守護神である祇園社を城内に祀ったことによる。京都の祇園牛頭天王(八坂神社)を勧進したのは藤原秀郷で、小山氏が中久喜からこの城内に移したという。
その祇園社は、いま市役所の南の須賀神社のことだが、本多正純が現在の位置に移したらしい。
10:11
江戸時代の絵図に本祇園曲輪はあるが、神社はない。
本多正純以前、祇園社はこの曲輪にあったのかもしれない。

本多正純は父・正信とともに家康の知恵袋、側近として仕えた。1608年に小山藩3万3千石のち5万3千石となり、1619年には宇都宮藩15万石に加増移封された。しかし宇都宮城の無断修築や吊り天井事件(実際はなかった)などを理由に改易された。実際は秀忠に疎まれ、台頭してきた秀忠側近の土井利勝らの謀略という話もある。
10:17
中曲輪。
塚田曲輪の一部が空堀で独立しているが、どういう機能があったか分からない。

小山市教育委員会の地図では、塚田曲輪の南を本丸、二の丸、三の丸としているが、3つは空堀で隔てられておらず、空堀が郭の境ならば、この中曲輪が本丸で、それを囲むような塚田曲輪が二の丸、その南の(本丸とされている)一角が三の丸となるだろう。
(あとで市役所でもらった地図だと、南の本丸のある郭には空堀があったようだ)

一つ一つの曲輪が小さく、空堀も深いが狭く、いかにも鉄砲のなかった中世の城という縄張りである。
10:22
塚田曲輪と本丸の間の空堀の底を通って思川に出る。
思川を下れば渡良瀬川に入り栗橋に出る。そこから利根川、江戸川を使えば江戸に出られる。鉄道、自動車がなく水運が盛んだった時代は、交通便利な城であっただろう。

本多正純の改易、廃城後、小山には将軍の日光参拝用の御殿ができ、日光・奥州街道の宿場町(小山宿、間々田宿)さらには東照宮のための資材の船下ろし場でもあるなど、思川の舟運によって栄え、明治を迎えた。

この城址公園は「ここは犬の散歩ができる公園です」と、飼い主マナーを詳しく箇条書きで述べた看板ばかりが目立ち、城に関する歴史説明板はまったくない。曲輪の名を書いた、風で飛びそうな立て看板が照明の柱に立てかけてあるだけである。歴史資料館とか土産物店とか一切なく、小さな東屋以外ベンチすらないところは観光地化されておらず好ましい点ではあるが、長居することもなく、御殿広場まで戻ってきた。

広場の前に真新しい小山市役所があったので入ってみた。
人口16万人、新幹線も止まる栃木県第二の都市である。両毛線、水戸線で結ばれる西の栃木市、東の茨城県結城市と合併し中核都市となる構想もある。
10:30
広報などが置いてある場所に観光案内のパンフレットがあるかと思ってきたが、何もなかった。総合受付の女性に祇園城のことを書いたパンフレットがないか聞くと、4階の商工観光課を案内された。
4階に上がり、商工課のカウンターで尋ねると、どんどん集まり4人の人が探してくれて、昔のパンフレットの白黒コピーを出してくださった。しかし小さな字がよく読めない。現物が残っていないことを詫びられたがとても親切だった。

借りたトイレもとてもきれいだった。
あまりきれいなので調べたら2021年新築だった。

正面玄関から出ると史跡小山評定跡の立派な柱石が立っていた。
10:37
繰り返すが、小山評定などという歴史好きな人以外は知らないものを、わざわざ市の一番の場所に顕彰することもないと思う。 すぐそばに祇園城、御殿広場があるのだから、何も立てなくても小山は十分良いところだ。

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2023年12月31日日曜日

谷中銀座:のなかストア、富じ家が閉店、40年で8割以上消えた。


谷中銀座は多数の観光客が来る場所になった。
最初は昭和の下町を懐かしむ日本人たちが来たが、大して見るものはないから二度は来ない。それゆえ良いことしか書かないガイドブックを信用した外国人が来る場所となり、いまや外国人のほうが圧倒的に多い。彼らは朝8時ころから来て、店が開いておらず人もいない通りで呆然としていることがある。

当たり前だが、昔は観光地ではなく地元の商店街だった。

1975年高校卒業後上京、大学構内の寮に2年いて、本郷に来てからは自転車で通える本駒込の二葉荘に8か月、向ヶ丘の寮に1か月、そして1978年1月から81年3月まで3年3か月、谷中真島町の谷アパートに住んだ。

谷中のアパートから日暮里駅へは、谷中小学校の前から六阿弥陀道にはいり七面坂を上がる。だから、谷中銀座も夕焼けだんだんも、かするだけで普段の道ではなかった。それでもたまには気まぐれでそちらを通った。

50代になって懐かしい土地に住みたいと、2011年に千駄木に家を買って、30年ぶりに谷中銀座にきた。
2012₋10₋15
夕焼けだんだん
引っ越しは2013年4月だから、埼玉から新居を見に来たついでだった。
右側の階段下のパン屋はなくなっていた。

2014年6月、日暮里駅東口にダンス練習場、ファーストプレイスがオープンしてから日暮里駅と自宅の間を歩く機会が増え、その多くは谷中銀座を通った。

このあたりは変化が激しくどんどん変わる。
階段上の古本屋「信天翁(あほうどり)」はブックオフにないような渋い本を扱っていて「谷根千」のバックナンバーを買ったが、2019年2月3日に閉店。
階段下の寿司・魚て津も、いつか入ろうと思っているうちに、このころ消えてしまった。
2019₋05₋03
階段左下には落語・演芸・にっぽり館ができた。
しかしそれもいつの間にか閉館。

2021年7月に日暮里のダンス練習場が閉鎖されてから、谷中銀座、夕焼けだんだんから足が遠のいた。
2022年3月定年退職後、京成高砂の畑バイトの帰りに日暮里駅から歩くこともあり、たまに夕焼けだんだんを通ることがあった。外国人がぐっと増えていた。

今年、2023年秋、久しぶりに夕焼けだんだんへ来ると、かつて魚て津、にっぽり館などがあった一角、つまり七面坂との間の建物群がすっかり壊されていた。今までは建物がそのままで店が入れ替わっていたのだが、景色が大きく変わった。
2023₋10₋17
七面坂を越えて長明寺の墓地まで見える。
また、谷中銀座入り口、六阿弥陀道の角も更地になっている。
何になるか知らないが、マンションはやだな。

谷中銀座もどんどん変わる。

谷中に住んでいた学生時代、通学途中の根津交差点付近に赤札堂や惣菜店があったから、反対方向の谷中銀座では買い物しなかった。しかし、ここの野中ストアは入った記憶がある。
2021‐11‐15
のなかストア
数十年ぶりに千駄木に来てからも、前を通ったついでに食パンや牛乳などを買うことがあった。
また、前を通るときは野菜の値段をちらりと見るのが癖になっていた。

その、のなかストアが閉店した。
畑バイトの帰り、久しぶりに日暮里から歩いて帰る途中、谷中銀座を通ってびっくり。
2023₋12₋08 16:32
閉店のお知らせは11月から貼ってあったようだ。
12/1~6 全品2割引き
12/7 3割引き
12/8 半額
と書いてある。
16:33
店内をのぞくとイチゴのパックが数個あるだけ、きれいに空っぽだった。
それが売れたら(たぶんあと数十分か)閉店だろう。
偶然閉店間際を見たわけだ。
歩いてきた通りを振り返った。
16:34
左、キャンドゥの跡地
右、お茶の金吉園

谷中銀座の真ん中ほどにあった100円ショップ、キャンドゥは、もちろん学生時代はなかった。しかし古株の店舗に先立ち今年閉店、今更地から工事中になっている。

45年前の谷中銀座で覚えているのは野中ストアのほかはこの金吉園だけ。谷中銀座の西の入口、よみせ通りあたりまでほうじ茶を炒る匂いが漂っていた気がする。今は近づいてもほうじ茶の匂いはない。店前には緋毛氈の縁台はなく、観光客相手の茶碗、陶磁器が並んでいる。お茶はもう扱っていないような雰囲気。
2023₋12₋08 16:34
写真左、野中ストアの西隣は観光地されてからシナ麺の「はしご」、ネコ型たい焼きを売る「招き屋」と変わった。今写真を見ると保護ネコカフェとある。昔は考えられなかった店である。
その隣は肉のすずき。昔は通りの北側にあった。肉のサトーとともにメンチカツ食べ歩きでテレビに出る。すずきもサトーも住民相手から観光客相手に切り替え、時代を生きておられる。

森まゆみらの地域雑誌「谷中・根津・千駄木」(谷根千)第2号(1984年12月)に40年前の谷中銀座の商店街のイラストがある。まだ観光地化される前である。

p22
古い商店街に見えるが、戦後にできた。昔はもっと北の谷中幼稚園付近にあり、戦時中に建物疎開して道路が広くなったところに商店が移って来たらしい。
いま、40年前の店名を見ると大分なくなっている。

12月31日、どのくらい残っているか確認したくて再び谷中銀座へ行ってみた。
2023₋12₋31 14:08
前回気づかなかったが、観光客は誰も買わない魚屋さん、富じ屋が「感謝のお知らせ」という貼り紙をしていた。「約一世紀の間、谷中富じ家をご利用いただきありがというございました・・・・」
焼き魚、煮魚、生魚を昔のように皿にのせて何もかぶせず売っておられたが、きれいにラップされたスーパーの商品に慣れた人は手を出しにくい。値段も意外と高く(と言っても利益はないだろうが)、買っている客を見たことがなかった。しかし、また景色が変わる。

夕焼けだんだんのほうまで歩いて各店舗を見てくる。
かつて(つい数年前まで)全店舗がおしゃれに統一された板の看板を掲げていたが、入れ替え、改装が相次ぎ、看板のある店はわずか。
14:12
武藤書店は赤澤不動産などに貸して間口が3分の1になっている。

少し西の洋品店すずむらのご主人が品物を出していたので、少しお話を聞く。かつては3店舗あったらしいが今はここだけとか。
西隣で観光客を集めている「蜜芋研究所」さんは、以前かばん屋、その前はヤマシタヤという靴店だったそうだ。他にもいろいろ教えてくださったが、店名多すぎてメモしきれず。

西のほうに戻ってくる。
14:22
今や唯一の八百屋となった尽誠食品は閉まっていた。
廃業ではなく年末年始休業と思いたい。
この八百屋では、千駄木に来てから庭に植える泥ネギと見切り品のグレープフルーツを買ったことがある。よみせ通りのマルエツプチ、道灌山下交差点のまいばすけっと、サミットなどスーパーに押され不忍通りの八百屋さんなどが閉店する中、昔通りの商いをされているのは立派。
そういえば戦前、谷中銀座商店街がもっと北にあったときは安八百屋通りと言ったそうだ。

尽誠食品が入っている雑居店舗の看板には肉のサトー、中華・紅華、石橋鮮魚、清水かまぼこ店、ファミリー鮨・宝家と5軒の名があるが、営業しているのはサトーと尽誠食品のみにみえる。
14:38
菅井生花(左)と小野陶苑
隣り合う2軒は40年前のイラストにもある。
菅井さんのおばあさんが立っていらして目が合い挨拶したので少し話をきく。
和栗やは魚屋さん(魚亀)、飲み屋は杉田さんという豆腐屋さんだった。野中ストアの手前はタケダさんという洋品店だったの。向かいの鶏肉うなぎの小林さんと福島さんは残っているけどね。こうなっちゃうと住んでる年寄りが買い物がてら立ち話できるところがないって寂しがるのよ。
14:38
左 鮮魚と貝・福島商店 右 焼き鳥、魚など・小林商店
昔から現存する2軒。

結局、1984年「谷根千」にのっている64店舗のうち、縮小移転しても残っているのはわずか11店舗だった。すなわち飴の後藤、武藤書店、洋品すずむら、肉のサトー、肉の鈴木、立ち飲み・越後屋、鳥魚・小林、鮮魚・福島、小野陶苑、菅井生花、雑貨やまと、である。

商店街というのは様々な店が並んでいないとスーパーに太刀打ちできない。谷中銀座のように、櫛の歯が抜けるように普通の店が観光客相手の店に代わっていくと、地域住民は離れていく。

「谷根千」を読んでいたら68号(2001年12月)に鈴木肉店の店主が出ておられる。
狂牛病騒ぎで売り上げが減っていて嘆いていらした。まだ観光地化されず、商店が元気に住民と触れ合っていた時代である。

シャッターを下ろした野中ストアの前を通ったら建築計画が貼ってあった。
5階建ての店舗・共同住宅とあった。建築主は野中圭助氏だったからスーパーになってほしいな。

しかし猫のぬいぐるみや、箸、キーホルダーを売る店、占いや、はては「勇気」「日本」「愛」「美」などをふつうに書いた色紙を詐欺のように(しかし堂々と)1枚2800円で売るような店が増えては地元民は近づきたくもない。

2023年12月30日土曜日

ミカンと豆は鳥害、夏ミカンは人害

千駄木は、あるいは東京は思ったより鳥が多い。
ゴミをあさっているカラスや浅草のハトは幸い庭に来ないが、スズメは多い。桜があったときは山鳩やメジロも見た。
スズメは数匹がまとまってきて、整地して種を蒔いたばかりの畑で土遊びをする。羽で土を周りに吹き飛ばしながら蟻地獄のようなすり鉢状の穴を掘る。野菜の種も飛び散り台無しとなる。だから種まきしたら防虫ネットをかける。

芽が出た時も危ない。
特に豆類。枝豆の苗を作るときは大きくなるまでカゴをかぶせておく。
今は秋に種蒔きして苗で冬越しするエンドウとそら豆。
2023₋12₋27
スナップエンドウ。
種すなわち豆は地表から見えなかったのに鳥は芽をつまんで掘り出した。
いくつも食われ、やられるたびに追加で種を蒔いたから年末というのにまだ小さい。

2023₋12₋27
こちらはそら豆。
そら豆は半分地表に出して埋める。豆のときは毒々しい色にコーティングされているせいか食われなかったが、子葉が開いたら齧られた。こちらはエンドウと違って根を張っていたから嘴でつままれても抜かれなかった。しかし栄養分のある子葉がなくなったことで成長に影響するかもしれない。

鳥はもちろん実も食べる。
柿の被害はすでに書いた。柿はことし大豊作で363個もなったが、10ないし20個は食べられた。食べているところは見ていないがツグミだろうか。1匹だけ地面を歩いているのを見たことがある。

ミカンは昨年食われたが今年は食われないな、と思っていたら、柿がなくなってから食われ始めた。
2023₋12₋28
鳥に食われた温州ミカン
ミカンは一昨年、昨年と64個、77個なった。今年は豊作で(摘果しないせい?)現在すでに60個収穫した。最終的に200個くらい行くのではないか?
しかし柿もなくなり他に食べ物がないと鳥が殺到するかもしれない。
2023₋12₋29
そこで防虫ネットをぐるぐるまいた。
てっぺんと、横、下は隙間があるから賢い鳥だと入って食べられる。
どのくらい鳥が賢いか、どのくらい食べられるか見てみよう。

温州ミカンが色づいたのは柿より早かったが襲われなかったのは、柿のほうが皮が薄くて一、ニ回のくちばしで味が分かったからだろうか。
しかし温州ミカンも何回か突けば果汁に到達することがばれてしまった。

これで学習した鳥は夏ミカンに向かうかもしれないが、さすがに皮が厚いから大丈夫だろう。今まで一度も襲われたことがないし。

しかし夏ミカンは一昨年、初めてなったとき、通行人に盗まれた。
ヒトは鳥と違って、木になっているまま齧ることはしない。丸ごと取っていく。だから取られても気づかない。1昨年は道路側に2つだけ出ていたからとられてすぐ分かった。
昨年は31個収穫したが、取られたかどうか分からない。
今年は写真を撮っておいた。
2023₋12₋16
夏ミカン。鑑賞用としても美しい。
10日後の12月26日、一番手が届くところの様子がおかしいので、この写真と比較したら1つ足りない。よく見ると枝がちぎれていて、跡も生々しい。
悔しい。
私だってまだ食べていないのに。
こんな住宅地の夏ミカンなんて甘いかどうか分からないのに。
一昨年と同じ人間だろうか。
古本無人販売でも大分盗まれたし、世の中はいろんな人がいる。
これで終わればいいが、また取られたら悔しい。
世の人間を信用して喜んだり怒ったりするより、取られないように防護したほうがいいか。
2023₋12₋28
夏ミカンにもネットを張った。
鳥が相手ではないから上と家側はがら空き。

ヒトを獣以下の鳥のように見なすとは大多数の通行人には失礼な話だが、仕方がない。
保護樹木だった桜の大木を切ってから、夏ミカンが我が家のシンボルとなった。
この景色をいつも眺めて通り過ぎる人は多い。
きれいですね。見事ですね。と言われていたのに、人を信用せずネットで隠すのは気が引ける。
彼らは盗られていることなど知らないから、意地悪で強欲な家に思われるかもしれない。
ほんとは立ち話をした通行人には差し上げることもあるのだが。
(実際、柿は知らない人にもその場で取って差し上げた)

2023年12月28日木曜日

パプリカ収穫、玉ねぎ植付け、人参はセンチュウ

パプリカは毎年作っているが、定植してから収穫まで8か月くらいかかる。

期間が長いと関心がなくなり、世話もしなくなる。
支柱と紐での補強も真面目にしていない。
その結果、風雨のたびに枝が折れて実が落ちた。
2023‐11₋27
落ちたパプリカと落ちたミカン

パプリカは実が重いうえに枝が驚くほどもろい。
朝、枝ごと落ちているのに気付くのは何個目だろう?
この日はミカンも蜂に刺されたのか一部分が腐って何個か落ちていた。

パプリカは実が重くなってきた10月、11月で何個も落ちたが、12月になって残っているものが色づいてきた。
2023₋12₋20
パプリカは2018年以来毎年種をまいている。
その種は妻がスーパーで買ってきて調理した後の生ごみから取ったもの。
ちゃんと赤と黄色の2つのパプリカ(2017年産)の種を冷蔵庫に保管していて、それを毎年まいている。最初のころは発芽して育っても実がなかなかならず途中で引き抜いたりしていたが、2021年からは毎年我慢強く見守って収穫している。


こちらは玉ねぎ
ダイソーの2袋110円の種。3年目だけど今年はうまくいくか?
2023₋11₋29
プランターに種まき育苗した玉ねぎを定植。
ネットには直径5~6mm(鉛筆くらいの太さ)の苗が良いとされる。
これより太いと春にトウ立ちしやすく、細いと寒さにやられてしまう。
今年も私の苗は、過去2回と同様、かなり細い。
鉛筆どころか箸にも程遠く、爪楊枝程度しかない。

昨年のか弱い苗は、今年の6月に収穫したが、小さい玉が多かった。
妻は小さいと面倒だといって使うのを後回しにしていたら青い芽が出てきた。
これも植えてみる。
2023₋11₋29
苗でなく玉ねぎを埋めたもの。
2023₋12₋26
定植して1か月近く。
保温ビニールで覆っているが、相変わらず爪楊枝のまま。

2023₋12₋26
こちらはホウレンソウと春菊。
保温ビニールで正月には少し食べられるかな?

次はニンジン。
抜いてみてびっくり。
2023₋12₋15
割れているのは珍しくないが、こぶだらけだった。
ネコブセンチュウだろう。
いままでオクラやトマト、ナスなどやられたが、ニンジンは初めて。
そういえばバイト先の農園でもニンジンがセンチュウにやられた。今年の猛暑が影響したのだろうか。
2023₋12₋15
ニンジン本体だけでなく、細いひげ根にも数珠上にこぶがついていた。
しかしよく見ると肥大化したこぶは色からしてニンジン組織のようだ。
オクラがセンチュウにやられると根が肥大化して腐るが、この場合、がん化したように成長している。

土壌中のセンチュウはネコブセンチュウ類、ネグサレセンチュウ類、シストセンチュウ類の3つに分かれるが、我が家のオクラはネグサレセンチュウ、ニンジンはネコブセンチュウということか。