2025年10月5日日曜日

都民の日の六義園。柳沢吉保と48年前の私

10月1日、朝テレビを見ていたら、今日は都民の日です、都立公園などが無料になりますという。

2,3年に一度、こういうニュースを聞くが毎年どこにもいかなかった。
思いついたのは六義園。
歩いて15分くらいだからいつでも行けると思っていたが、この年齢になると死ぬまで行かないような気もする。

どうせ家でぶらぶらしているわけだからと、自転車で行ってみた。
レンガの重厚な塀が長く続く正門の前に駐輪するわけにいかない。隣の六義公園の自転車置き場へ。
9:16
「六義」は柳沢吉保がつくった庭園に対して付けた言葉である。この区立公園は六義園ゆかりの公園だから、六義公園ではなく六義園公園が正しいと思う。
1977年に都から文京区に移管された。
六義園の空気が伝わっていて普通の区立公園より落ち着いている。大和郷に隣接しているというのもあるかもしれない。
9:18
正門前に戻ってくるとバスガイドさんだけがいっぱい。
制服とマークからハトバスのようだ。
一人だけ年配の方がいて「ここは門が二つありますが、北の染井門は普段開いておらず、この門だけが開いています」と話し、残りの人はメモを取っている。新人研修だろうか。
9:18
4月のみどりの日と年2回の無料開放日なのに思ったより空いている。
平日で小雨模様だとこんなものか。
9:20
入ってすぐ、六義園の概略が記されている。
周知のごとく、5代将軍徳川綱吉の側近だった柳沢吉保が元禄15年(1702)ころ築庭し、明治後に三菱弥太郎の別邸となった。

順路の矢印に従って進むとすぐ、その歴史について展示パネルがあった。
9:20
江戸時代前期の地図
このあたり、今は山手線の内側でも昔は「畠」の文字があってあまり開けていない。
「イハツキ道」が切れる地図の右端に「土井スワウ」とある。六義園の南にあった古河7万石土井周防守の下屋敷である。つまり、六義園は地図に載っていない。
地図をよく見れば根津神社のところが甲府中納言(後述)とあり、根津神社が千駄木から現在地に移ったのが1706年と言われるからちょうど築庭のころの図であることが分かる。
9:22
柳沢文庫所蔵の屋敷図を初めて見た。
柳沢家下屋敷は、たいていの絵図では正方形に描かれる。しかしこれは南のほうに突出して長屋などが描いてある。城郭のように周囲を堀で囲まれていたのも初めて知った。

柳沢吉保についてはテレビドラマ元禄太平記などの記憶からか、生類憐みの令の5代綱吉の側用人で、地名では舘林、川越、甲府、大和郡山、といった単語が浮かぶが、詳しくは知らなかった。六義園に入ったついでに書いておく。

柳沢吉保(1659₋1714)は武田遺臣を祖に持つ柳沢安忠(1602₋1687)の長男(庶子)として生まれた。保忠は大坂夏の陣で活躍し、旗本であったが将軍家光の第4子徳松(後の徳川綱吉)付きを命じられ、徳松が上野国館林15万石に封じられると安忠も館林藩士(直参旗本ではない)となった。(もっとも綱吉は基本的に江戸在住であって家臣のほとんどは神田の御殿に詰めていた)

保忠の子・のちの柳沢吉保は
1664年、5歳にして綱吉(1646₋1709)に謁見。
1675年、家督を相続
1680年、綱吉が5代将軍となると直参幕臣となり、小納戸役。530石。
1683年、1030石
1688年(元禄元年)、1万2000石、大名となる。
1692年、武蔵川越、7万石の藩主、老中格
1695年(元禄8年)、駒込の旧加賀前田家の屋敷を拝領
1698年、大老格
1701年、将軍綱吉から松平姓と「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保となる。(それまでは
保明といった)
1702年、駒込拝領屋敷に庭園が完成。
1704年、綱吉の後継が甲府徳川家の綱豊(甲府中納言、のちの家宣)に決まると、綱豊の後任として祖先の地・甲斐に所領を与えられ、15万石となった。もっとも幕政などもあったから甲斐に行くことはなかった。
1709年、綱吉死去。吉保も隠居し、この駒込の地に住んだ。
1714年、死去、甲斐の恵林寺に葬られた。

嫡男・吉里は幕府の甲斐一国直轄化に伴い、1724年、大和郡山15万石に転封された。
9:23
この地は幕末まで柳沢家の下屋敷(別邸)であったが、明治11年、荒れていた屋敷(4万5千坪)を岩崎弥太郎が別邸として購入した。パネルによれば隣接する藤堂、前田、安藤家などの敷地を合わせて12万坪の土地を手に入れたという。
(安藤家とは紀州田辺の大名(紀伊家付家老)のようだが、私が調べたところ幕末の絵図に屋敷はない)

三菱2代目の弥之助(弥太郎の弟)は荒れた庭園を明治19年以降、完成時の姿に復元した。しかし3代目久弥(弥太郎の長男)の代に、庭園部分2万6千坪だけを別邸として残し(幕末の柳沢家屋敷は正方形だが4万坪)、大部分を売却した。北は山手線敷設、本郷学園、西は大和郷住宅地、南は理研、東洋文庫などになった。
昭和13年、岩崎家から六義園が東京市に寄付された。
9:24
内庭大門をくぐると庭にはいる。
おそらくここらあたりまで岩崎家別邸の家屋があったのだろう。

門をくぐるとまた説明パネルがあった。
9:25
六義園は紀州・和歌の浦の景勝や、古今和歌集などに詠まれた名勝、中国古典の景観などを88景として再現したものらしい。これは初めて知った。
柳沢吉保は王朝文化にあこがれた文化人でもあり、作庭にも力が入った。
9:26
一見西洋庭園のように広々した芝生が広がり、禅宗の枯山水、室町時代の書院造りの庭とは違う。

前回来たのは約40年前の1986年5月。
前年に理科大から入社した中原美香さんが駒込・都立臨床研の山本一夫氏のもとで卒業研究をしたという。山本氏は私の薬学時代の同級生だから、一緒に訪ねることになった。

都立臨床研は美濃部時代の1976年に開所し、1999年財団法人化、2009年上北沢に移転するまで駒込病院の中にあった。(2011年、都立神経研、都立精神研と統合された)

駒込病院のあたりは9年前の1977年に暮らして懐かしい土地だからあちこち立ち寄ろうと思ったのだろう、午前中に駒込駅に集合し、六義園に立ち寄った。
9:27
この場所である。
中原さんとここまで来ると、むかし流行ったミドリガメが歩道を歩いていた。
私が池に戻してあげようと拾って投げた。
ところが、小さくてしっかり掴めず、力加減もわからず、そっと握ったまま強く投げた。しかし水面に届かなかった。カメは芝生に叩きつけられ、あー可哀そう、と彼女は言った。

この後ゆっくり園内を歩いて、たぶん時間的に、不忍通りの勤労福祉会館にあったレストランでランチをしてから、山本氏を訪問した気がする。
(このレストランはこの近辺で一番お洒落だったが、その後、同じ建物内に介護センター若駒の里を開所したときだろうか、大改築が行われ、今レストランはなく、その場所は会議室になっている)
9:28
池の向こうに本郷通りのマンションが見える。
最後に来た40年前、あるいは暮らしていた約50年前は、こんなマンションがあったかどうか。
池を中心とした回遊式築山泉水の大名庭園である。

9:29
滝見茶屋
相変わらず人がいない。
無料だから来たというケチな人は私くらいかもしれない。
9:30
滝見茶屋と小さい滝

六義園は50年前から知っているが、この日まで六義の意味を知らなかった。
六義は、儒教の5徳・仁義礼智信のひとつ「義」を6つに細分化したというのではなかった。
中国の詩の分類法、あるいは詩の体裁(詩の六義)をいうらしい。すなわち、賦、比、興、風、雅、頌である。つまり義は義理・義務の義ではなく意義の義であった。
武士道の7徳目にも「義」「忠義」が入っているが、それとは全く関係なく、元禄時代に生きた柳沢吉保の文人ぶりが分かる。
9:33
桜の老木。
十分丁寧に育てられていたはずだが、3年前に伐採した我が家の保護樹木より小さかった。
桜はこの大きさが限界なのだろうか。

桜のそばに吹上茶屋がある。
抹茶と上生菓子が1000円という看板が出ていた。ここでも英語表記が添えられていた。
(上生菓子というのは生菓子の中でもとくに四季の移り変わりや自然を美しく表現した手作りのものをいい、茶道などで出される。では生菓子であって上生菓子でないものは何か。どら焼きや団子、草餅などか。)

吹上茶屋では池を見ながら休めるだけでなく、箱に六義園の文字が入った人形焼きや瓦せんべいなどの土産も買える。

山のほうに登りかけたが、やっぱりやめたと元の道まで戻ったら、はとバス研修グループが追いついていた。彼女らは意外と足が早い。
9:36
相変わらずメモを取る新人たち。
企業の研修など、わざわざ混雑する無料開放日にしなくても良いかと思ったが、こんなに空いているなら関係ない。むしろ大人数の入場料が節約できる。もっとも20人ならわずか6,000円だが。

はとバスは皇居、東京タワー、浅草などが定番で、地味な六義園などは対象外と思っていたが、近年のインバウンド客に合わせて行き先の一つになったのかもしれない。

引率する先輩社員の説明をなんとなく聞いていると「決して山のほうに行ってはいけません。足の悪い方もいらっしゃいます。池の周りのコースだけにしてください」
なるほど、園内最高点の藤代峠へ団体で行ったら大変だ。庭全部を満喫させてはいけない。

ちなみに藤代峠も吹上茶屋の前の吹上浜も紀州、和歌の浦付近にある地名である。
園内88か所の名所には石柱が建てられていたらしいが(現存32か所)、見逃した。
白鴎橋
救命具が置いてあるが、溺れるほど深くはなく、投げたら滑稽でさえある。お役所仕事か。
むこうに文京グリーンコートのオフィスビルが見えた。あそこもかつては岩崎家の土地だった。
9:40
渡月橋
渡月は和歌浦を歌った和歌から採っている。
注意書きのように雨のあとは滑って落ちる人がいるかもしれない。溺れることはないが、浅いから打撲のけがをするかも。

「まっすぐな橋ではありません」
どうしてこんなことを書くのだろう? 
文京区公園課の上司はやめろと言わなかったのか?
呆れ果て、危うくフリガナが「とげつけう」というせっかくのこだわりも見落とすところだった。

こうして池を一周した。

1977年、大学3年のとき、ここから歩いて数分の本駒込5-37-4 二葉荘に住んでいた。
当時、六義園は無料だったから、何度か入った。夏はアパートが暑いから文庫本などもって涼みに来たが、蚊がいて長時間はいられなかった。

あるとき老紳士がいて昔話をしてくれた。
不忍通りの坂(たぶん神明坂)の上から下を見ると一面、田んぼだったというのである。当時の私は、それが戦前の話、彼の幼児の記憶のように受け取ったのだが、今思えば、彼の親や書物から得た知識を話された気がする。すでに団子坂下から南は江戸時代から人家が並んでいた。動坂下まで不忍通りができたのが明治43年(1910)、上野からの都電が開通したのが大正6年(1917)である。彼が私より50年上の1906年生まれとしても、子供のころはすっかり宅地化されていたはずである。
彼は写真が趣味で、私がたまたま持って行ったカメラで21歳になったばかりの私を撮ってくれた。
1977年夏
サンダル履きである

むかし六義園に入ってから48年、39年経った。
私は老人になった。樹木も幼木が老木になるはずだが、庭はあまり変わっていない。
9:41
入ってから23分間の散歩、見学だった。

天気も怪しかったが、久しぶりに自転車に空気を入れて乗ったので、ついでに古河庭園も行ってみることにした。
9:48
本郷通りに出ると古河庭園は六義園から1230メートルと書いてある。

ふと前を見たらはとバスが止まっていた。運転手が一人座っていらした。
よく考えると彼女たちがあの制服で電車に乗ってくるのは恥ずかしい。このバスで来たのだろう。
9:50
六義園染井門
この日は都民の日だから特別に開いていた。丁寧に係の人も二人、暇そうに立っていらした。

六義園はいつから有料になったのだろうと思って調べたら、9つの都立公園は革新系知事だった美濃部亮吉都政の政策で1972年4月から無料になり、しかし都財政の悪化や無料化による公園の荒廃などから1978年11月以降、順次、再度有料化されていったようだ。
つまり、私が住んでいた1977年はちょうど無料の時期で、中原さんと来た1986年は有料化されていたことになる。入場料は先輩の私が誘ったから私が払ったのだろう。


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2025年10月1日水曜日

春ジャガイモの種芋の残りを秋に植える

 2013年から千駄木で野菜を作り始めて13年目。

初期のころはナス、キウリや大根、野沢菜、白菜などだった。玉ねぎとジャガイモは長野からもらうので自分で作ることはなかった。

ジャガイモに関しては、台所で出た生ごみ(要するに皮)を捨てていると発芽し、小さな芋ができていたが、邪魔な雑草のように抜いていた。
しかし、だんだん樹木を伐採し耕作地が増えたこともあり、ようやく
2022年、台所で出た皮や芽を、初めて「畝を作って」うえてみた。
2023年、ゴミの皮や芽ではなく初めて「ジャガイモ」を植えた。(長野で発芽したから捨てるといった芋)
2024年、人並みに芋(発芽ジャガと種芋)を植えた。
また秋10月には、完全二期作を目指し6月に収穫した芋を植え、1月にほんの少し収穫した。

そして今年。
2025年春、3月に芋を埋めた。
このとき種芋が余ったので紙に包んでビニール袋に入れ冷蔵庫に5か月保管した。
それを出すと不気味な形態をしていた。
2025₋09₋11
しわくちゃだが枯死してはいない
キノコのようなものが芋から出ている。
キノコのように見えたのは発芽した茎の先にできた小さな芋だった。
これら保管していた4つの種芋は前年の6月に収穫したものであろう。

いっぽう3月に植えた芋はモザイク病にかかりながらも6月に収穫した。
2025年6月に千駄木で収穫した春ジャガ。
外の日影に置いていたら猛暑の夏を乗り切った。

つまり、2024年夏と2025年夏に収穫した2種類のジャガイモがある。
それぞれ保管3か月(新ジャガ)と1年3か月(古種芋)の芋である。
これを秋植え栽培の種として使う。
2025₋09₋15
植える場所はスイカメロンを片付けた1番畝
2025-09-30
古種芋が発芽した。
しかし新ジャガを埋めた穴に変化はない。
心配になったので新ジャガのほうを掘ってみた。
ほんの小さな1ミリほどの芽が出始めていた。

ようやく猛暑の日々が過ぎたと思ったら、この日で9月ももう終わり。
あと3か月で今年も終わる。
あと何年野菜を作れるのだろう。
などと感傷に浸っている暇はなく、秋冬野菜のために夏野菜を片付け場所を作らなくてはならない。
まずカボチャと人参。
2025-09-30
たった一つ生ったカボチャ。
ちょっと見なかったら大量のウリハムシが葉っぱから移動して食い散らかしていた。
追い払ったが、一匹だけ残っている(写真中央)。
ニンジンは3月14日に種を蒔いてビニール保温したもの。
食べきれずに放っておいたら中に芯がでてきた。
白菜用の畝にするためすべて抜いた。
ネコブセンチュウにやられたのか、ひげ根にこぶができている。
7月には食べ終わりたかったが、夏はカレーや煮物をしないため残っていた。
2025-09-30
7番畝北(左)に大根、カブ
南(右)に白菜など(市販苗。実生苗は作成中)

岩手盛岡の駒野宏人氏が土地を借りて野菜を作り始めたらしい。送ってくれた写真は無農薬というのに白菜も大根も防虫ネットをしていなかった。この写真を送ったが、もう手遅れだろう。彼が何年続けるか分からないが、最初の年は失敗すれば良い。


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2025年9月29日月曜日

枝豆がネズミに食われた

 

2025₋09₋03 7:11
スイカとメロンは葉が枯れてきた。
ウリハムシに葉を食われたこともあり無残な姿となって片付けた。

最後のスイカは未熟だった。
結局スイカは13、メロンは2つ取れた。
メロンは追熟しないと甘くならないので、猛暑の室内に置いていた。そしたら良くできたほうが腐ってしまったこともあり、今一つだった。
2025-09-11 7:38
繁茂するサツマイモ
サツマイモは3,5,6番畝に植えたのだが、庭一面に広がった。
まだ苗を植えたばかりのころ、その周りが空いていたので、枝豆の種をまいた。
2025-07-03
(2か月前のサツマイモと枝豆、同じアングルから)

長野では枝豆は畑でなく、田んぼの畔で作った。すなわち掻き揚げた泥に鎌をグサッと刺してその割れ目に一粒ずつ豆を入れて行く。味噌などにする大豆と違って、枝豆は短期間で収穫でき自家用に少しだけあればいいから、こういういい加減な作り方だった。サツマイモの畝の外周に1列に種を入れたとき、そんな記憶が蘇った。

上の写真のように畝は長いので食べきれないほどとれるはずだったが、サツマイモに追いつかれ覆われてしまったせいか実の成熟が遅かった。

スイカやメロンに気を取られていて、久しぶりに見ると、鞘が何かにかじられている。

見れば下に豆の莢が散乱。
ネズミに間違いない。
2025-09-11 7:38
鞘ごと食いちぎって地面で食べたほかに、登ったのか生っている状態で中身だけ齧っているのもある。
腹が立つのは、実がしっかり入って太った鞘だけかじって、やせた鞘はそのままであることだ。あんなに脳が小さいのに幼児よりも知能が高そうだ。

枝豆はナスやキュウリと違ってやせた鞘は残しておいても太らないから、すべて引き抜いた。
桜の巨木を伐採して以来、何匹もいたヒキガエルがいなくなってしまったが(絶滅?)、ネズミが目立つようになった。ここ数年、春先に苗をとるため土に埋めているサツマイモをかじられたり、天井で音がしたりする。

今回かなり大きな実害が出たので、駆除を試みた。
まず、粘着型のネズミ捕りを家屋から庭への通り道と思われる縁の下のところに置いた。
設置して3日後の朝、ネズミ捕りがひっくり返っていた。
みれば毛が2か所にくっついている。

ネズミは足が4本ともマットの上に乗れば逃れられないが、1本以上の足が地面に残っているうちに、それ以上進まなかったのだろう。残った自由な足で暴れるうちに、マットがひっくり返り、背中に粘着するも、縁の下の柱や踏み石にマットがひっかかったときに体重も利用して、暴れるうちに足が地面をひっかき、足、続いて背中が離脱できたと思われる。

その後、2週間以上経つがネズミは二度とかからなかった。
やはり賢い。

枝豆はなくなったものの、サツマイモ、落花生は依然として畑の地中にある。
これに気付くような知能を持っていたら恐ろしい。


2025年9月23日火曜日

飯山城と彦次郎系本多家、佐藤武造、うなぎ

お盆の8月14日、日帰りで帰省した。

長野から久しぶりに飯山線に乗ったが、最寄り駅の立ヶ花で降りずに飯山まで来た。
飯山城を見たかった。
9:28に北飯山駅に着いた。
上り列車の時刻を見れば、10:03の次は2時間後の12:03だから、お城まで行って30分で戻ってこなくてはならない。駅から5分だからできないことはない。

飯山高校(旧飯山北高)の前の道を52年ぶりにあるいて飯山城についた。
9:35
飯山城は平山城で、城山の北側が飯山高校のグラウンドになっている。
皆が休むお盆というのに野球部が練習していた。
練習を見るのは好きだが、そんな時間はなく、城の坂を上がっていく。

こちらは裏門である。しかし戦国時代は上杉謙信の城だったこともあり、かつては北に大手門があったらしい。
9:36
高校生たちが弓道の練習をしていた。
市営の弓道場のようだが、城址に建てる公共施設としては最も景色になじむ。

こちらも練習を見る時間はなく、左の坂を上がる。
9:37
「なぜ三年坂というか不明」とある。ふつうこういう案内板は名前の由来とか歴史エピソードが書いてあるものだ。「三の丸に上がる急な坂」くらいしか書けないなら、わざわざ案内板を建てることもないかと思うが、昔の城内絵図があったので撮った。野球をしていたグラウンドも城内で下御台所、下御長屋があり濠に囲まれていたことや、北中門から入ったことなどが分かる。
9:37
三年坂
飯山城は石垣が少ない。
9:37
三の丸
誰もいない。
日本の観光地は国を挙げて、インバウンドも期待して金儲けを目標に作っている。しかし、ここは(少なくとも今は)市民の憩いの場として存在する。よそ者はそこを静かに見物させてもらうのが良い。日本中がこのようであってほしい。
9:38
二の丸
ようやく石垣が見えた。
城主の公邸であった二の丸御殿は図面も残っていて204坪あったという。
9:38
桝形石垣・本丸門
本丸への入口は一番いい石を積んだだろう。

石垣というのは安土城以後の城に盛んに取り入れられた。それ以前は濠を掘るとき掻きあげた土をもって土塁にした城が多かった。

石垣は遠く離れた石切り場から大勢の人足を使って巨石を一つ一つ運び、積み上げる。こんな大工事はよほど力のある城主でないとできない。

飯山城は13世紀、鎌倉幕府に仕えた泉小次郎親衡が築城したと伝わる。戦国時代になると南の中野にいた高梨氏が武田信玄に追われて飯山城に入り、上杉謙信に助けを求めた。そして謙信が対武田の前進基地として本格的に築城した。
その後、次世代の上杉景勝と武田勝頼の和睦により武田の城となり改修された。

武田滅亡後、甲州征伐に功あった森長可が信長から北信4郡20万石を与えられて飯山城はその支配下に置かれた。しかしその後、上杉景勝、豊臣秀吉と持ち主が変わり、ようやく1598年関一政が3万石で入封したが、彼も翌年転封する。

関ヶ原後の徳川体制になっても城主は目まぐるしく変わった。
1603年、皆川氏
1610年、堀氏
1616年、佐久間氏
1639年、桜井松平氏
1706年、永井氏
1711年、青山氏
1717年、本多氏
石高も2万石から4万石程度。
これでは大きな普請はできない。
もっとも、すでに飯山盆地の中心に平山城があったのだから、敢えて石垣を築く必要もない。

1717年に2万石で入封した本多氏は初代の助芳以下、すべて助の字をもち、9代目で明治維新を迎えた。

飯山の本多氏は三河以来の譜代の家だが、本多氏というのは西三河の国人領主として松平家に仕え、一族から50家以上と言われる大名、旗本が出た。維新後には旧大名家8家が子爵に、また越前松平、加賀の重臣だった2家が男爵に、つまり10家が華族に列した。

大別すると6つの家系がある。
我々がよく知る、酒井忠次、井伊直政、榊原康政とともに徳川四天王の一人とされた本多忠勝はそのうちの平八郎家、また家康、秀忠の知恵袋と言われた謀臣・本多正信、正純父子は弥八郎家、また「鬼作左」と言われ長篠から妻に日本一短い手紙「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」を出した本多重次は作左衛門家という系統である。

飯山の本多家は、彦次郎家(豊後守家)である。
これら諸家は嫡流である平八郎家の忠勝から数えて7代前、4代前に分かれ、それぞれの家系から多数の大名、旗本が出た。

9:39
本丸の中心に葵神社
明治維新で各地の城が廃されたあと、本丸に藩主を祀る神社を作る(あるいは移築する)のが流行した。米沢、新庄、鶴岡などだ。葵神社は明治16年に建てられ本多広孝を祀る。ふつうは藩祖とか中興の祖、あるいは最後の藩主を祀るものだが、飯山は違う。本多広孝というのは、飯山とは関係ないずっと昔、彦次郎系本多家の中興の祖、家康時代に活躍した武将である。家康の父、松平広忠から偏諱を受け、今川支配下の松平家、岡崎帰城後の家康を支えた。

葵神社の葵というのは本多氏の家紋である。徳川のは3枚の葉の先端を合わせて図案化したものだが、本多葵は葉柄までいれて3本並んで立っている。

ちなみに本丸に天守はなく二重櫓を代用とした。三の丸にも二重櫓があった。

城山の東の千曲川と堤防道路を見たくて葵神社の裏にまわった。
9:40
葵神社の裏からの眺め
子どもたちが小さかったころ、帰省すると両親は飯山を通って野沢温泉、北竜湖、西大滝ダムなどに連れて行ってくれた。レジャーシートを敷いてみんなで食べるお弁当は美味しかった。
その道中、何度か車中から飯山城を見た。千曲川の向こうに見たと思っていたのだが、今見れば道路はお城のすぐ下、千曲川の手前だった。飯山中学出身の佐藤武造(1891~1972)が対岸の堤防からお城を眺めて描いた絵と記憶が混同したのかもしれない。

ちなみに、弟は佐藤武造が好きで何枚も持っており、私が千駄木の家を買ったとき、お祝いに佐藤の桃の絵をくれた。佐藤は同じ信州(東御市)出身の丸山晩霞に師事し、丸山は太平洋画会の創立に関わり、千駄木に住んでいた。
9:40
本丸には石碑が何基かあるが、見る暇はない。

9:41
本丸から西曲輪を経て飯山市街を望む

飯山城はだいぶ昔、4月の終わりの夜だったか、桜を見に来たことがある。
また、ゴールデンウィークに帰省したときピクニックで来たこともある。
本丸から西曲輪に降りる途中の帯曲輪のあたりでお弁当を食べた。
もちろん父の運転で来たから両親はいたのだが、80年代だったか90年代だったか、私の子供は誰がいたのか、弟家族もいたのかどうか思い出せない。はっきりしているのは城とか歴史に興味がなかったから全く城内を見物しなかったこと。地元だといつでも来れると思っていたのかもしれない。
9:42
西曲輪に降りると、弓道場のほうまで広い空き地になっている。
9:44
西曲輪
ここには1963年に市民会館が建てられた。老朽化したこともあり、2015年11月末 に閉館、翌2016年1月に新しい施設「飯山市文化交流館・なちゅら」が駅の近くに開館、ここの旧市民会館は取り壊され広場となった。

西曲輪の端に小さな飯山城址公園交流展示館「城terrace」があり、入ってみた。
9:45
誰もいなかった。
無料休憩所になっていてWifiも使える。
9:45
飯山城の鳥観図が壁にかかっていた。
四周の堀はほとんど埋められた。

城テラスをでて坂を西におりた。
内長屋のあった曲輪である。
9:47
左:飯山城の城門(移築)と七賢人の像
右:「長野県スキー発祥の地」

西のふもとに近い西曲輪の下は、かつて市民会館に来る人の駐車場になっていたが、今は城門が復元されている。
飯山城には絵図などから5つの二層門を含め13から15の門があったとされるが、明治維新後破却、売却(移築)された。現在、近隣の寺や民家に残る9つの門が飯山城のものとされる。中野市江部の豪農山田庄左エ門家(山田顕五氏)の裏門などもその一つだ。しかし文献などで確実なのは3つだけらしい。

(写真には左隅に壁だけしか写っていないが)移築したこの門は、1993年に丸山家の旧住居の解体にともなって飯山市が復元したもの。実は丸山家でも改築を行ったこともあり、飯山城内の門か上級家臣の門か確証はなく、城内門である確率が高いとして飯山市が復元移築した。
それに先立つ1992年、弓道場の建設にともなう発掘調査で、南中門の礎石が出た。その規模から間口5間、奥行き2間半の二層構造と推定され、丸山家の門(平屋の長屋門になっていた)の部材を使い、それに合うように作り直された。移築というより建築である。

こうして、わずか13分で飯山城の見物を終えた。
9:48
飯山城址整備計画。
普通の城内案内板がないので全体図を収めて残したく撮影した。
私はよく裏口、裏門から入るので帰るときに全体図・案内板を見ることが多いが、これも復習、余韻になってよい。

改めて謙信公築城450年の整備計画を見れば、樹木の整理、案内サインの整備などで安心した。かつて4万人いた人口も2万人を切る豪雪過疎地帯。市の活性化政策として飯山城を観光資源の核としてイベント広場やレストランを兼ねた観光会館など作ろうと言い出す人もいて不思議はない。しかし特定の人(観光客と観光業者)のための公園整備はしてほしくない。普通の市民の憩いの場であってほしい。
9:51
鉄さびで赤くなった道を北飯山駅に急いだ。
踏切の向こうに見える赤い屋根は本光寺。1582年本能寺の変の後、織田軍が飯山から退去して上杉景勝が家臣の岩井信能に飯山城の守備を命じた。彼は城の修復とともに、真西に城の庇護としてこの寺を建て、その後、代々の飯山藩主の信仰を集めた。

このあたりは飯山市街地の北のはずれである。
飯山には、他にも「阿弥陀堂だより」のロケにも使われた正受庵など、歩ける範囲の市内に20余りの寺がある。町中の仏壇通りなども歩いてみたい気もするが、実現するかどうか。

最後に飯山の記憶をもう一つ。
飯山の本多と言えば、書いてきたように飯山藩の殿様、藩主家だが、今の人はほとんど鰻専門店「本多」を思うだろう。
2019年の年末、珍しく(最初で最後?)息子と二人きりで新幹線に乗り、途中上田城を見物したりして帰省した。夜帰京する前に、母と弟夫婦と5人で「本多」に鰻を食べに来た。
この店は藩主家の一族で家老だった人が明治になって創業した。当時は千曲川で鰻が取れたが、その後のダムや治水で激減、東京から電車で運んだ時代を経て、今は九州産のウナギを使っている。現店主は6代目で、本多5代目の娘さんと結婚した松岡氏である。
2019年末というと母が亡くなる4年前で、脳梗塞を患って動けなくなった母はもうあまり食べられず、残した鰻を孫である息子がきれいに平らげた。

北飯山駅には無事、10:00前に到着、上りの列車に乗った。
わずか30分の飯山滞在だったが、来てよかった。
親がいなくなり中野への帰省もずっと少なくなることを考えれば、今まで何度も来た飯山は、もう来ないだろう。

(終わり)

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