2017年4月16日日曜日

第102 明治の千駄木にいた薬学会会員

(薬学昔むかし)
薬学雑誌 1902年(明治35年)11月号付録(会員名簿)から
2011年に見つけて2年後に引っ越した文京区千駄木。
我が家の二軒隣の細井医院は、廃業され看板も塗りつぶされているが、昔、鴎外森林太郎家のかかりつけ医であった。
ここから鴎外記念館(観潮楼跡)に向かう道沿いには、高村光太郎や宮本百合子の旧居跡、旧安田楠雄邸、また代々東大医学部で名を残す島薗家などが短い距離に並ぶ。つまり、ここは今よりも昔が楽しい。明治のころは誰が居たのかな~と、薬学雑誌の会員名簿からご近所さんを探してみた。


明治35年の名簿を見ると、在東京会員477名のうち2割以上の98人が現文京区の東半分、本郷区に住んでおり、6人が千駄木にいた。

団子坂上の観潮楼跡から片側崖の道(藪下道という)をそのまま南下すれば根津神社裏門の通りに出る。右折して右に日本医大病院の正面玄関を見ながら坂を上ると四つ角がある。南へ行けば東大農学部だが、この東北の角が千駄木58番で、今はもちろん日本医大になっている。
この58番地にいたのが曲淵景章。東大薬学本科を明治14年に卒業。下山、丹波らの2年下で(第3回生)、薬学会創立メンバーである。この学年は田原良純を含め9人いた。


58番の北、千駄木57番には丸山長四郎がいた。内務省衛生試験所技師であったが、高峰譲吉らが設立した三共に入社し、村井純之助と『験乳法』の共著がある。


この57番地というのは有名である。鴎外が下谷区上野花園町11番(現台東区池之端3丁目、水月ホテル鴎外荘)から明治2310月に移り住んだ家もここにあった。彼は同25年に千駄木21(現鴎外記念館)に移るのだが、そのあとロンドンから帰国した夏目漱石が35年から39年まで偶然同じ家に住み、『吾輩は猫である』を書いた。57番のうち漱石らの住んだ場所は、今、日本医大同窓会館の敷地になり、猫のオブジェが塀の上に乗っている。


57番のすぐ北隣の千駄木町50番にいた石川静逸は、私立薬学校(現東京薬科大)を優等で卒業、大正4年、衛生試験所において、阿片からモルヒネを抽出、さらにモルヒネからヘロインを製造する工業的な製法を完成した。


50番は広くて前島知徳という名もある。そのまま北に行くと団子坂上から白山上に至る道にぶつかる。西に曲がった千駄木町1番には田丸伴太郎、道を渡った北の千駄木林町3番には太田現作という名が会員名簿にあった。彼ら三人については分からない。老後の宿題とする。


なお、この千駄木林町3番地は、鴎外の愛人、児玉せきが住んでいた場所でもある。『雁』で無縁坂に住むお玉は、彼女がモデルという。




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