薬学雑誌 1902年11月号付録(会員名簿)
明治35年の名簿を見ると、東京在住477名のうち2割以上の98人が現文京区の東半分、本郷区に住んでいた。二位が日本橋区(66人)、次いで神田(50)、下谷(44)、麹町(29)、浅草(22)と続く。移動が徒歩であった時代は、みな都心に住んでいる。
いまやおしゃれな住宅地となっている品川、目黒などは荏原郡に含まれ、郡全体でたったの3人、中野、新宿、渋谷は豊多摩郡に含まれ、全部で8人、日暮里、王子、板橋を含む北豊島郡は11人であった。
当時の東京市は15区で、麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川でそれ以外は田舎だった。目黒世田谷は山の手ではないし、葛飾、江戸川も下町ですらない。皇居中心に時計回りの順は35区に拡大された後も続き、今も都民大会とか、23区地図などの区の順番に反映されている。
さて、本郷区。
日本橋区などは製薬会社、問屋などが集まっているからそこを連絡先にしている者も多いのだが、本郷区はほとんど居住地である。
本郷は加賀前田家以外にも徳川四天王、岡崎の本多家、幕末の阿部正弘を出した福山の阿部家、大老土井利勝を出した古河の土井家、太田道灌の末裔、掛川の太田家らの大名屋敷があって、それぞれ森川町、丸山西片町、駒込曙町、千駄木町の住宅地になった。さらには旗本、御家人も多く住んでいた高台で、維新後、新政府の役人、東大関係者、文化人、高級サラリーマンが好んで住んだ。
薬学会名簿を見ると、まず目立つのは東大の南西、本郷弓町。
東大衛裁初代教授の丹波敬三、東京薬学校教頭の飯盛挺造、医学部解剖学教室の初代教授田口和美、文部次官から貴族院議員になった辻新次の4人が会員名簿にある。彼らの住所は、弓町2丁目20番、22番、23番、24番と並んでいた。
当然薬学以外のエリートも多く住み、まさに学者町であったのだが、ときに場違いの長唄が流れた。夫人の糸に合わせ丹波が楽しんでいたらしい。なお飯盛は明治6年に創設された医学校製薬学科の助教として下山、丹波はじめ薬学者の卵たちに物理を教えた。
今の弓町はビルばかりだが、辛うじてマンションの奥に瀬川邸が残る。工科大学長、古市公威が住み、娘婿、瀬川昌世医博が継いだものだ。南隣は内科の青山胤通邸だった。
東大の北西、中山道の東、東片町は161番に衛生学初代教授の緒方正規、131番が最初の医学博士、大澤謙二(生理学初代教授)、134番に理学部助手だった天然物化学の真島利行。昔は薬学出身でない会員も多い。
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