2018年2月1日木曜日

岩船の母、柳沢の叔母

書かないでおこうと思ったが、忘れっぽい自分の記録のために。
・・・

1月29日、朝早く、いとこの葬儀に長野へ行った。
この時間の新幹線は8年前、がんの父親のところへ通っていたころ以来。
新幹線が北陸まで伸びたからか、昔より自由席は混んでいた。

雪の残る飯山線立ヶ花駅に、会社を休んだ弟が迎えにきてくれた。
今から柳沢へ直行すれば、焼き場へ行く前のいとこに会えるかもしれない。
しかし口には出さなかった。
どうせ間に合わないかもしれないし、雪道を無理に運転してもらうのも悪いし。
もう死んだのだから会っても仕方がない、と自分に言い聞かせ・・・

実家に着くと弟の嫁さんはパートにでかけ、11月に脳梗塞になった岩船の母は、ひとり炬燵にあたってテレビを見ていた。玄関から部屋、トイレまでの廊下には新たに手すりが付いていた。

長野駅でドーナツを買って持って行ったのだが、弟がインスタントラーメンを作ってくれた。ちゃんとネギと白菜、ソーセージが入っている。旨い麺だなと聞いたら丸ちゃん正麺だという。

告別式は13時から始まるが、それに合わせて行ったらバタバタしていて叔母さんたちと話ができないから12時半ごろに行こう、と弟が提案。いい考え。

車で10分の会場に行くとまだほとんど人はいなかった。
弟が受付の人に死因などを聞いていると、たかえ叔母(母の弟の嫁さん)が来た。焼き場に行かなかったのか、行っても自家用車で早めに戻って来たのか、よく分からないが、私を見るなり「おー、よくきたなー」と駆け寄ってきた。

「おまえたち、子供のころ双子みたいに、ずっと一緒だったものなぁ」
と言われると涙が一気に出てきた。
目をそらしてごまかしながら手で拭ってもどんどん出てくる中、たかえ叔母は見ぬふりをして話しを続けてくれた。

1月2日、いとこは例年のごとく、家族と、自分の妹一家、弟一家を引き連れ、斑尾の旅館で新年会をしたらしい。翌3日、帰って雪かきをしているうちに具合が悪くなり、寝込んだ。夕方になってもよくならず彼の弟が病院に連れて行って、そのままICU、意識が戻らなかった。奥さんは、面会もできないからと知人には知らせず、すぐ近くの母の実家でさえ、死ぬまで知らなかったという。

そうこうするうちに、焼き場からマイクロバスが着いた。
お骨、位牌、遺影などを持つ息子、娘、奥さん、彼の弟が式場に入っていった。そのあと娘(彼の妹)に支えられた叔母がよたよたと歩いてきた。叔母は目と足が不自由だ。
「力ちゃんが来ているよ」と教えられた叔母と私は同時に近づき、
「おー、おー、遠いとこ、よく来てくれたなぁ」
と彼女は私に抱えられ支えてもらいながら、強い力で私の手を握った。

私は言葉を発する前に、顔がゆがんでしまった。
悲しいとか、そういう感情によるのでなく、何かスイッチが入って顔中の筋肉が収縮し、口から上の、顔の中のすべての水が絞り出されて、たまたま目が出口だった感じ。
あの会場で一番ひどい、醜い顔をしていたのではないか。
顔の筋肉と涙が自分でコントロールできなくなっていた。

叔母は私の手を放そうとせず、ますます力を入れた。
少したって私も落ち着くと、叔母を座らせたほうがいいと思い、係りの人に案内され、誰もいない式場の一番前の席に2人して座った。
正面には彼がいた。このために撮ったような立派な写真。
私は「立ち悔やみ」のつもりだから式には参列せずに帰る予定だったが、叔母の手は、しっかり私から離れなかった。

実の娘でも息子でもなく、私だったのは、叔母にとって彼の代わりに見えたのではないか。

親と子。
薄情な私でも、わが子の幼いときのことはよく覚えている。
抱きついてきたときの感触。
彼らの腹に顔を埋めゴリゴリやってくすぐったときの匂い。
すべらかで柔らかい肌に可愛らしい笑顔。
30年も経ってこの年齢になっても覚えているということは死ぬまで忘れないということだ。
男親でさえ覚えているのだ。
ずっと一緒にいる母親の記憶は一生鮮やかだろう。

叔母は彼の生まれた直後からの記憶をしっかり持っている。
その一部に双子のようだった私がいるのだろう。

式が始まるので、彼の妹と交代し、私は弟と一緒に立ち悔みの列に並んだ。
焼香でもう一度叔母を見て、退出した。
私と彼を結ぶものは、彼の奥さんや子供たちではなく叔母だということがよく分かった。

式のあとは宴席が始まる。
その前に叔母ともう一度話したかったけど、弟に促され、会場を出た。

会場の並びに、物産品直売所がある。
弟に、お土産にきのこでも買っていくか?と聞かれ立ち寄った。
野菜、果物、加工食品が中心だが、素人が作った植木などのほかに、農家の主婦が作った手作りパンや手芸品まで並んでいる。
さっきまで涙でぐしゃぐしゃだったのに、すぐ立ち直ってしまった。
彼の家族や叔母たちと比べ、私たちは何と薄情で、幸せなんだろう。

岩船に戻ると、母は一人で相変わらずテレビを見ていた。
自分の妹の息子の葬儀の様子を話したが、とくに関心があるようでもなかった。

・・・・

母は秋に脳梗塞になった。
11月18日、妻と息子の運転で松代見物の後、実家に帰省すると、庭にいた弟が母に聞こえぬよう小さな声で「おふくろ、今朝からちょっとおかしいんだよ」という。
会うと表情があまりなく、しゃべらない。話しかけると返事をするのだが、自分からはしゃべらず、こちらの言うことを繰り返すような返答。
そのまま外食に出た。
帰宅してお茶を飲みながら母の様子をうかがう。
「昨日は普通だったのに突然、」ということから脳梗塞が疑われた。
10年以上前、軽い脳梗塞を起こしたことがあり、飲んでいる薬をチェックしようと
「薬はどこ?」と聞くと、血圧ノートを指す。何回も同じことを聞く私に、彼女は異常を感じたのか、戸惑いながらも何回も血圧ノートを指した。「薬」という単語が、冊子を表すものに変わったというより、「薬」がなんだか分からなくなり、なんとなく関係ありそうな冊子を示したのではないか。

血圧ノートを見ると、昨日の夜から文字になっていない。何とか数字を書こうとしたのか、同じ場所に何回も意味不明な文字を重ねている。
しかし悪化していく様子は見られず、命に別状はなさそう。昼も一人前を食べたし。土曜日で病院が休みであったことなどから、急いで連れて行くべきだ、とは誰も主張しなかった。我々がすぐ帰ることで忙しいということもあった。
月曜、弟の嫁さんが病院に連れて行ったらやはり脳梗塞だったという。もちろん入院。
左脳に大きな梗塞巣ができた。私が強く主張して急患で連れていけば、もっと軽かったかもしれない。

・・・・・・
入院は2週間ほど。正月が過ぎ、だいぶ元気になってきた。
電話でも普通に話せるようになったが言葉はなかなか出てこない。「あれ」「それ」ということが多い。リモコンとエアコンの単語が区別できない。炬燵のスイッチの切り方が分からなくなってしまった。弟は毎晩寝る前に点検する。

梗塞前との一番の違いは意欲がなくなったことだ。
「忘れっぽい、覚えていられない、というならメモするべきだ。」
「テレビを見て後で話そうと思ったら紙に書けばいい」といっても、
「もう、だめさ~」といって炬燵から手を出そうとしない。
全く動かず、チャネルさえ変えない。
絵や工作が好きで農作業の合間に作ったものを、見たくもない私にいつも見せていたほど、まめだったのに。

彼女も私が生まれたときの記憶は鮮やかにもっていたと思う。
帰省するたび、何を食べたいか、いつも聞かれた。帰るときはお菓子を持たせ、また帰っても私一人だと知ると、おにぎりを握ってくれた。もちろん具は何が好きか、しつこく聞いた。彼女にとって私はいつまでも子供だった。

しかし今回、私に何かを持たせることもしなかった。食べろ食べろと、漬物を切ってすすめることもなくなってしまった。

・・・・・・

叔母は61年前の我が子の記憶を鮮やかに覚えている。
しかし私の母はどうだろう。
私が今死んだとき、叔母のように悲しむだろうか。

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