2019年2月15日金曜日

東大12 薬学部間取図と本部棟、竜岡門

2月13日、職場の会議が湯島であった。
千代田線で行こうかと思ったが、途中、東大で調べものをしたかったので歩いた。

時間が来たので竜岡門から出る。
途中に薬学部がある。
本部棟と薬学部総合研究棟

かつて薬学は口の字形で、メインの5階建て北側部分や中庭に日が当たるように、東側は3階、南側は2階だった。そしてその南に看護学校のテニスコートや動物舎、薬草園があった。

1977。本郷に進学した年。
地階の製化学生実習室はその後、代謝実験室になった気がする。

南側の屋上(3F)にプレハブの宿泊室があった。

ところが、
1994、南館(4階建て)が、広く南側部分と薬草園、中庭をつぶすようにでき、
1996、資料館(図書館)棟(4階建て)もでき、
2004、さらに道路に面した東側部分の南に、テニスコートと緑地をつぶすように総合研究棟(10階建て)と
まるで、敷地の狭い温泉旅館のように建て増しされ、今どきの研究機関には珍しいほど、中は迷路のよう。
実験室の床面積だけを追求した、なんとも美的センスのない校舎となった。

竜岡門
左はかつて大正時代に救急患者の受付棟として建てられた。
1995年に広報センターとしてオープンするまで何であったか知らない。
右は看護学校。
昔は植込みの奥のほうに見えるコンクリートの建物だったが、今は焦げ茶色のタイルが貼られたものの、ずいぶん近くに感じる。

車の流れがひっきりなしの竜岡門から出て振り返る。

この偉そうに聳え立つ、本部棟はもう少し落ち着いたデザインにならなかったものだろうか。12階建て、美意識の感じられないコンクリートの塊で、歴史ある竜岡門周辺の景色が台無しになっている。

1977年1月

その西には同じデザインで7階建ての第二本部棟がある。
これらができたのは1979 年、設計は名誉教授の丹下健三(1913-2005)。
権威者から出たデザインでは誰もダメ出しできなかったのだろう。
2棟とも、顔である正面玄関がどこだかわからず、周辺は土や植栽を一切なくして、寒々としたコンクリートの地面となった。これも彼の特徴あるデザインである。

ところで、それまで事務部門は大きなものがなくてもなんとかやりくりしていたのだから、一挙にこんな巨大な建物が二つも必要になるのだろうか?

もっとも第二本部棟は作られた当時、理学部5号館(数学、地学)であった。
数学が駒場に、地学が新築の巨大な理学部1号館に移転して理学部5号館が空いたあと、本部組織や総合教育センター、保健センターなどが入った。

しかし、こんなに巨大な五号館が空いたなら、緑地をつぶして建てられた医学部の総合研究棟や薬学部総合研究棟は不要だったのではないか?
税金の無駄遣いと緑地・文化財の破壊としか思えない。

理学部五号館と本部棟はまさに目の前で1977-81年に立ったわけだが、当時は構内がまだゆったりしていたから、つい見過ごした。しかし医学部、薬学部をはじめキャンパス全体がオフィス街のようにビルを建ててきた今、この流れを許すわけにいかない。

場所が欲しければ柏など郊外に移転すればいいのだ。
明治近代化の舞台となった歴史建造物とその景観は、税金を払って応援した国民の財産でもある。

東大内部の人間にはキャンパス全体、伝統に対する愛情というものがないのだろうか。
自分のスペースさえ広がればいいという狭い考えではいい仕事はできないと思うのだが。

竜岡門の外には昔通り水野薬局。
新しくなっている。
ならびにサンフラワーだったか、ひまわりだったか、小さな喫茶店があった。

区立四中は区の総合体育館になっていた。
1998年、二中の場所に統合され、本郷台中学となったのだ。(→文京区の中学


かつて薬学部でスポーツ大会をするときは岩崎家の隣にあった文京区体育館(現文京区青少年プラザ)をつかったが、今はここを使うらしい。
すぐ近くに同じものを作る必要があったのだろうか?

少子化で空いた都会の小中学校用地は貴重である。
とりあえず使い道が分からなければ、ひとまず緑地公園にでもしておけばいいのである。
ただでさえ文京区は総面積、一人当たり面積とも23区内で圧倒的に公園が少ない区なのだから。


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