2019年2月17日日曜日

誠之舎と西片のお屋敷

2月14日、本郷税務署へ確定申告に行った。
かつては埼玉の家の売却損で所得税をそっくり返してもらったり、印税の申告だったり、金額が大きい分、書き方が分からず少し面倒だったが、最近は単純なもの。

田辺の退職金の一部を年金でもらうようになり、それが年70万以下だから、源泉徴収された税金が戻ってくるのだ。
日常生活で100円でももったいないと思う半面、4万7千円の還付手続きを面倒くさがり、ともすると無視したくなる心理の不思議。

今年は家で印刷して持って行ったから提出しただけであっという間に終わった。
まだ朝8:35。
面倒なものを終えた開放感で、ちょっと遠回りしようと自転車ですぐ裏へ入ったらびっくり。
誠之小学校がなくなっている。
崖下の民家を越えて白山通りのマンション群まで一望

公立小学校でありながら設立に阿部家が多額の寄付をしたこともあり、名前に福山藩の藩校の名前を冠した。東大教授初め文化人が集まった西片町にあったため、名門小学校となった。遠く千駄木はもちろん、北は不忍通りの向こう、動坂町や日暮里渡辺町からも意識の高い親が子女を通わせた。
今でも人気があって文京区の小学校(→別ブログ)3S1Kの筆頭である。
グランドの真ん中にあった木がこれとすると、校庭に校舎を建てたということか。

北西の9教室は大正13年に建てられ貴重なものだったらしいが、文京区というのは歴史、景観とかに配慮しない区だから。

電動機付自転車のきれいなお母さん方が、近くの幼稚園の弟妹を送ってきて長い立ち話しをする姿もこの日はなく、工事関係者のみ。
校舎の裏というか、南に回ると

これが正門? いかにも仮設。

ちょっと油断すると町はどんどん変わる。
少しばかり自転車を走らせてみる。
誠之小学校の北へいくと、すぐ胸突坂


 胸突坂の下は白山1丁目
左の崖上が誠之小学校。
ここは千駄木と違って崖の上と下で町名が違い、ほとんど交流がなさそう。


再び坂を上がって西片町を散策する。

へんな町名である。
中山道の西側は福山藩阿部家の中屋敷があったから、東側だけの片町だった(駒込東片町)。
西側は明治になって開発され、両側が宅地になった段階で片町ではなくなったのだが、東片町があったため、それと対をなすように西片町と名づけられた。
東片町が向丘1丁目となった段階で西片も意味がなくなったのだが、変えるわけにもいかずそのままになっている。

誠之小学校の通りを南下、2丁目13番地の四つ角を西に曲がる。
 千駄木より大きい家が多い。
大和郷の本駒込6丁目、あるいは曙町の本駒込1、2丁目よりも豪邸が多いのではないか。

敷地は小さく荒れているけど素敵な家

安藤邸
ながらく都営三田線・春日駅(1968)くらいしかなく、ようやく南北線・東大前駅(1991)ができたが、繁華街から離れていたことも官民による乱開発の圧力から免れたのかもしれない。

それに第一種低層住居専用地域(建蔽率60、容積率150、高さ10m)のため、相続で開発業者にわたっても、せいぜい落ち着いた低層マンションしか建てられない。

いっぽう、千駄木の私のところなどは第一種中高層住居専用地域、建蔽率60、容積率300、高さ17mだから、3階建てが優にたつ。敷地が55平米(16.7坪)あれば床面積100平米の家が建つのである。
業者は品のいい邸宅だった敷地を細分化し、手ごろな新築物件にするから町がどんどんごちゃごちゃしていく。
業者だけでなく土地所有者の間でも規制が緩いほうがいいと思う人がいるから厄介である。

さて、左折して8番地と4番地のあいだを南下。
 
あとでgoogle viewをみたら、表札は栗山と読めた。 
帝大教授、国立東京第一病院長、栗山重信も西片だったが・・・?


中には朽ちている家もある。
老人一人暮らしの家も多いのかもしれない。

西片公園
こういうゆったりした広場をつくったのは、分譲主だった阿部家の功績だろう。

なお、一丁目と二丁目の境はこの公園の南縁である。


阿部家が明治に新築した本邸は、南を見下ろす高台の端だったな、と思い自転車を回した。すでに阿部邸の敷地も分譲され、何軒もの豪邸に変わっている。
それらを見ていると、阿部家ゆかりのものがあった。
右側の西片らしくない古いビル。
誠之舎である。


説明版によれば、明治23年以来、福山藩子弟の寄宿舎が今も継承されているらしい。
自転車が2台とまっていたが、玄関前の日経新聞が1月29日より溜っていた。

帰宅して調べると定員37名、今年度は9名募集している。
食費、部屋料など舎費は月74,200円
 宮澤裕(明治40年入舎・元衆議院議員、宮澤喜一の父)
 森戸辰男(明治44年入舎・元文部大臣)
 葛原しげる(明治37年入舎・童話作家)
 井伏鱒二(大正7年入舎・作家)
など創立以来129年、これまでの寄宿生は1480人を数える。

・・・・
そろそろ帰ろうと自転車を北へ向けると
板張りの立派な邸宅があって、植木屋さんと老婦人が話していた。
素敵な家ですね、と彼女に話しかけると、いろいろ教えてくれた。

帰宅して会話を思い出し確認すると
もとは中央公論社の(初代)社長だった麻田駒之助(1869 〜 1948)の屋敷だったという。
設計は保岡勝也(1877~1942)。
彼女によれば、右側の洋館が事務所で一階が中央公論、二階が婦人公論の編集室だったらしい。

植木屋さんが上から「門の瓦が割れているから早く修理したほうがいいですよ」と言った。
「これだけの家を維持するのは大変でしょう」というと
「ええ、私どももいつまで持っていられるか・・」
「区などが修理費など補助してくれればいいんですがね」
「そういう話もあったんですが、そうすると公開しなくちゃいけない。国の登録有形文化財にはなっているんですよ。補助金は全くでないけど、これなら公開しなくてもいいんです」
大正10年と12年築。

・・・西片町。
医家だけでも杉田直樹、山際勝三郎、片山国嘉、榊俶、名倉英二、100名以上いたらしい。入沢達吉、三浦謹之助も震災後に仮住まいしている。
長岡半太郎、佐々木信綱、伊東忠太といった文化勲章組も住んだ。
ここに居を構えることそのものが最高の「エスタブリッシュメント」という時代があった。

おそらく今のどの家も、名の有る文化人の屋敷なのだろうが、表札だけではわからない。
町内に住んでいれば、古いご近所さんと親しくなって教えてもらえるのだろうが。


千駄木菜園 総目次

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