2017年1月6日金曜日

弥生2・異人坂上、弘田邸



根津から上がってくる異人坂は途中でスイッチバックのように折れる。
その折れたところに銘鈑が埋め込まれている。

 昭和六年二月工事竣成 
浅野侯爵家建設 
  工事監督 青木清太郎 
  工事請負人 篠原丑蔵

言問通りの南側にいた浅野家が資金を出したというだけではなく、当時はここ一帯まで、ずっと地続きで浅野家の土地だったのである。

向ヶ岡弥生町という特別な響きのある高台には有名人が多く住んでいた。堀田伯爵邸は別にしても、田中館愛橘(物理)、佐藤清勝陸軍中将、団藤重光東宮太夫、熊谷直彦(画家・帝室技芸員)と、異人坂を上がったところだけで文字通り軒並み挙げねばならない。もちろん言問通りを越える南の方まで著名人旧居跡は続くが、ここでは異人坂を途中で鋭角に曲がって頂上に出るので、述べない。

坂を上りきると素晴らしく眺望がよく、北の崖下には根津小学校があり、東は不忍通りがあるはずだが、聳えるマンションの威容に驚いた。寸分の隙もない壁である。バブル前はほとんど二階建てだったから、記憶はないが、谷中の木々も見えたのではないか? 崖の下は高台とマンションに挟まれ、深い谷底になってしまった。写真の通り日照時間は短く、私だったら道路際の利用率を規制緩和して建築許可を出した行政に怒る。
写真を撮った見晴らし台の2軒隣は壊された直後だった。この日の自転車散歩では工事現場が目立った。広いところ、古いところ、素敵なところから順に壊されていく。
確かここは札幌旅館という古い旅館があった。
田中旅館も聞いたことがあるが見つからず。

この工事現場のちょうど向かいは(私の背中) 旧弘田龍太郎邸。
鯉のぼり、浜千鳥、叱られて、金魚の昼寝、雨、雀の学校、春よこい、靴が鳴る。懐かしい曲ばかり。


一見無人かと思うほど家の傷みがひどかったが、植木がわずかに手入れされていたので誰か住んでいらっしゃると思う。現在の持ち主は、弘田の標札ごと旧居を維持して下さっている。しかし閉め切った窓板などの傷み具合からその方もご高齢のように思われ、ちょっと心配である。何とか区の援助でもうけられないだろうか。

かつて弘田邸と背中合わせにサトウハチロー邸があった。
以前は記念館があったが、今は一般住宅と駐車場になっている。
『谷根千』45号(1995)によれば、遺族が旧宅(私設記念館)と土地を維持できなくなり、売却するところを区が遺品の寄付を条件に土地を取得して区立記念館にすることになった。

ところが一切合財の寄贈をかたくなに要求する区と、個人的なものなど一部は手元に起きたい遺族が対立した。

結果、岩手北上に立派な記念館ができ、文京区民は貴重な資料だけでなく、大正時代の建築学的にも価値あるという邸宅、小さい秋見つけた、のハゼの木まですべて失った。
区はもらう立場なのに意地を張って対立するなんて信じられない。
全く残念なことだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿