外でランチしようと動坂を降りて田端駅まで来た。
2021‐10‐02 13:05
文士村記念館と江戸坂
ふと田端文士村記念館が目に入った。
ここはいい。何がいいかというと一番は入場無料なことだ。
北区としては良いお金の使い方をしていると思う。
給付金などは飲み食いで消えてしまうが、こういうものは区民の頭に残るだけでなく、よそから見て区の品格を上げる。
区民が自分の街を誇りに思うような事業が良い。
撮影禁止なので入り口の外から1枚だけ撮った。
昔はこの右側が事務室だった気がするのだが、この日から始まった芥川龍之介企画展のスペースになっていた。
北区は近年、芥川の旧宅の敷地の一部を買い取った。
そこに記念館を作る予定で、発掘調査したらしい。
出土品の薬瓶や牛乳瓶が展示されていた。
この記念館は無料というだけでなく、さらに良いことには、地図や年表などが充実していて、情報が多い。壺や絵画など室内芸術品より地形や歴史に興味のある私にとってありがたい。
明治大正、昭和の初めまでは徒歩が中心だったから、友人たち、似た人々は同じところに住む。しかしきっかけ、核となる人がいないと集まらない。
田端は上野の芸大から尾根続きの高台だったから、初めは板谷波山、香取秀真、吉田三郎など美術家が集まった。
当初、作家はほとんどいなかった。核となったのは芥川龍之介と室生犀星である。
龍之介は、京橋で牛乳製造販売業「耕牧舎」の支配人、新原敏三の長男として生まれた。耕牧舎は渋沢栄一らが箱根仙石原ではじめたもので、龍之介が生まれたころ(すなわち1892年ころ)には京橋本店のほか支店も中根岸(日暮里)、芝、四谷とふえた。
龍之介が生まれてすぐ母が発狂したため母の実家芥川家に預けられ、母の死後、芥川道章の養子となった。芥川家は本所にいたが、明治43年の水害のあと内藤新宿二丁目の耕牧舎牧場の横にあった新原敏三の持ち家を借りて住み、大正3年、龍之介が東大在学中に田端に新築、転居した。そのあとすぐ龍之介が「鼻」で文壇の寵児となり、それに引き寄せられるように多数の新進作家、作家志望者も集まり住んだ。本郷、谷根千にも近いから田端以外の文化人も往来した。
芥川は田端文士芸術家村の人物録ではたいてい最初に来る。「あ」で始まるからだが、実際中心人物だった。江戸っ子らしく交際好き、世話好きで、作家たちの中心となっただけでなく、芸術家と文士たちを結び付けた。
犀星は金沢で同年だった吉田三郎と親しかったこともあり大正5年、千駄木から田端に転居、萩原朔太郎、堀辰雄、中野重治らの中心にいた。また動坂、千駄木の北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫もよく訪ねた。
・・・・
初めてこの記念館に来たのは1997年5月。
埼玉からはるばる古地図の忠敬堂に来たら懐かしい江戸坂に大きなアスカタワーができていてびっくり(竣工1993年)、その1階に田端文士村記念館ができていた。
左、アスカタワー建設地、国鉄田端病院を壊したのは1990年ごろ?
更地になって駅前から高台通りが見える。
右、戦前の江戸坂
田端文士村という言葉はそれまで知らなかったかもしれない。
1977年、大学3年生、本駒込の不忍通り近くに住んでいたころ、山手線は駒込駅、京浜東北線は田端駅、と使い分けていた。江戸坂を上り下りし、板谷と表札のある家の前を通っていたのだが、板谷波山も知らず、20代は文学や歴史に興味がなかった。
文士村記念館は、アスカタワー竣工の年、1993年11月に開館した。
北区の偉いところは、建物だけでなく区立田端図書館が「田端文士村」という小冊子を発行したことである。
1997年に記念館に来たときは、以下のバックナンバーが置かれていてもらって帰った。
第6集 犀星と私 (1987年3月)
第7集 大衆に愛された作家・趣味人たち (1987年12月)
第8集 女流5人、今は昔:田端周辺を偲ぶ
その後は縦書きになっていて、
第10集 よみがえる田端のありし日 (1990年3月)
第11集 実業家・鹿島龍蔵と文士・芸術家たち (1991年3月)
第12集 田端文士・芸術家村探訪(資料編) (1992年3月)
帰宅後、近藤富枝「田端文士村」(中公文庫、1983)もアマゾンで買った。
単行本としては講談社から1975年に出た。名著だと思う。
その後、2013年に千駄木に引っ越したとき、バックナンバーを団子坂の本郷図書館でみつけ、コピーして揃えた。
第1集 古い田端を語る会 (1985年3月)
第2集 田端ゆかりの文化人(1985年7月)
第3集 田端の思い出 (1986年2月)
第4集 芥川龍之介入門 (1986年4月)
第5集 父を語る (1986年12月)
第9集 室生犀星生誕百年特集(1989年3月)
子孫の方のエッセイ、座談会などが多い。
50歳を過ぎて、終の棲家を考え始めた。
土地勘のある赤羽や王子など北区の、坂道のある高台が好きだった。
中でも田端に強くひかれた。
学生時代を思い出して懐かしいし、田端文士村で得た知識も後押しした。
さらにかつての文士村に相当する地域は、京浜東北線の西の高台、山手線の内側にありながら、世間から忘れられたような不思議な、田舎じみた雰囲気があった。
与楽寺坂の物件はそのまま住めたが、2010年9月、迷っているうちにタッチの差で買われてしまった。
上の坂の物件は2011年4月に内見した。我が5人家族には狭くて古かったので建て替えねばならなかった。いい味を出していた祠のある石垣もセットバックで取り除かねばならず、また急斜面で土台工事が大掛かりになりそうで断念した。二軒とも南側が樹木のしげる崖で、見晴らしもよく私好みだった。
この上の坂の家から3か月後に千駄木の家を見つけ、結局、田端の住民にはならなかった。
左、たぶん「上の坂」(2015年ころまでこんな感じ)
この石垣の家を買おうとしていた。
右、上の坂を下りて少し先、在りし日の天然自笑軒と、その敷地に建つ浅賀邸
・・・
さて先日、文士村記念館にいった翌10月3日の夕方、出かけるついでに北区が購入した芥川邸跡地を見に行った。
芥川が毎日のように上り下りしたであろう上の坂から行く。
上の坂 2021‐10‐03 17:13
私が買おうとしていた古家はアパートに建て替えられ(写真右)、樹木も石垣もきれいになくなった。その手前の古アパートもマンションになるのか更地に工事中だった。
坂を上がって左に曲がってすぐ、この角が芥川龍之介旧居跡
他の文士(作家志望者たち)の多くが借家、借間を転々としていたのに対し、ここは370坪もあった。
北区管理地
(仮称)芥川龍之介記念館建設予定地
北区は敷地の一部、西側部分を買った。
先ごろ行われた発掘調査では防空壕跡が2つ見つかったという。
戦時中家族が疎開しているうちに家は20年4月の空襲で焼失した。
戦後、土地は3軒に分割されている。
発掘では友人で主治医だった下島勲の楽天堂医院(上の坂を下り、天然自笑軒の向かい)の薬瓶や丸善のインキ瓶、耕牧舎の牛乳瓶も出てきた。
昭和2年に芥川は自殺、その翌年、同じく田端の中心人物だった室生犀星が馬込に去り、田端文士村の最盛期は過ぎた。さらに空襲で田端は壊滅し、転居していた文士芸術家たちの多くはこの地に戻らなかった。
芥川のいたころ、この切通し(昭和8年開通)はなかった。
高台通りの東台橋から西南の歩道橋(童橋)をみる。
家を探した2011年、千駄木に引っ越してきた2013年でも童橋の左(東、芥川邸跡のほう)には板塀の家なども残っていた。しかし、いまや細分化され3階建ての新築住宅になったり、アパートが建てられた。
滝野川第一小学校(2014年から田端小学校)あたりの一部分だけ完成していた補助92号線が東覚寺の境内を削り、田端駅前通りにつながった。それにともない区画整理も行われた。
1977年の学生時代いつも通っていた道で上品な「板谷」という家が文士村記念館で板谷波山の家と知ったが、2011年ころの区画整理で跡形もなくなった。
もう今の田端には終の棲家にしたいほど魅力がない。
田端の道という道は、ほとんど歩いた。
しかし10月2日、記念館で地図を見ていて高台通りの北(線路側)だけ歩いていないのに気付いた。田端6丁目になる。いってみよう。
いまの6丁目には鹿島龍蔵(1880‐1954)の屋敷があった。
1912(明治45年)、田端650番地、筑波の見える高台に屋敷を構えた。多趣味な文化人として田端の作家、芸術家、その卵たちと交流し、とくに資金面でその面倒をよく見た。
「田端文士村」第11集
「田端文士村」の編集者たちは、1990年長男の鹿島次郎氏(早大名誉教授)を浦和市領家に訪ね、昔の田端邸と文士、芸術家たちについてインタビューしている。
2021‐10‐02 田端6丁目6番地
写真の左あたりが鹿島邸の場所だと思うのだが、よくわからなかった。
空襲で一面焼けたあと無秩序に家が建ち、道も当時と少し違っている。
芥川の随筆「東京田端」に
「門内に広い芝生のあるのは長者鹿島龍蔵の家、」
と書かれた景色は、影も形もなかった。
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