2024年12月20日金曜日

ネクターとネクタリン、プラムとプルーンの品種一覧

信州にいた子どものころからネクタリンが好きだった。

桃よりもすっぱくて味が濃い。

1989年6月、初めて家を買った。ちょうどバブルのころで、埼玉県北足立郡伊奈町という田舎の、小さな中古住宅だったが、土の地面を得た。
狭い庭にスチール製の古い物置があったが、翌90年に壊してスペースを作った。
ここに真っ先に植えたかったのがリンゴでもミカンでもなく、ブドウでも桃でもなく、ネクタリンだった。長野の父に頼んで苗を買ってきてもらった。
91年夏の写真には育ちつつある若木が写っている。
しかし実が生るのに3,4年かかるうえに、93年8月から1年留学、帰国して2年も経たずに大宮市に引っ越した。だから初めてのネクタリンは実が1つ2つ生ったことは覚えているが、他に記録、記憶がない。
1991年5月?
唯一うつるネクタリンの写真(右上隅)

都会の素人はナス、キウリは作れても旨いフルーツは無理だと思っていた。しかし千駄木に来て、試しに温州ミカン、甘夏を植えたところちゃんと実がつき十分食べられた。
それに味をしめ、サクラの大木を切って日が当たるようになった庭の隅に不知火をうえ、桜の切り株を除いた跡にせとかをうえた。

そして今年の秋、イチジクを切ったあとに念願のネクタリンを植えようと決めた。

ネクタリンというと不二家のドロッとした飲料、ネクターと言葉が似ている。
桃の味だから桃の学名や英語名にnecterのような文字が入っていて、ネクターもネクタリンもそこから採ったものだと思っていた。

ところが桃の学名はPrunus persicaである。
またネクタリンは、産毛がないモモの変種だから学名はモモと同じで、変種を示すvar. nectarinaが後ろにつく。
つまり、ネクタリンはその語感から(桃類の)栽培品種名(登録名)かと思っていたが、学名になるほどの普通名詞だった。すなわちネクタリンは、後述するように様々な栽培品種の総称である。

ちなみにネクターも登録商品名ではない。
もとは森永製菓の商標であったが、同社が業界発展のために商標管理を一般社団法人日本果汁協会に一任した。現在はどこのメーカーも使える普通名詞のようになった。桃とは関係なく、果肉(細かくすり潰したピューレ状の物)を一定量以上含む飲み物をネクターというらしい。オレンジ、ナシなどで50%以上、イチゴ、カキ、アンズで40%以上、モモ、リンゴで30%以上、バナナ、ウメで20%以上果肉が入っていれば、ネクターという。

さらに言えば、ネクターはギリシャ神話におけるネクタール(神々が常食とする生命の酒・不老不死の霊薬である飲み物)が語源で、ネクタリン飲料というわけではない。

話がそれたが、ネクタリンの苗を探さねばならない。
しかし都会のホームセンターには樹木苗がなかなかない。

さいたま新都心のビバホーム、さいたま市上落合の島忠などは売っていないと分かっている。あちこち行っても扱っていない確率が高いので、ありそうなホームセンターに電話して聞いた。与野本町のドイト花の木、足立小台の島忠にもなく、行ったことがない足立区北綾瀬の島忠ホームズにも電話した。
結局、何処にもないと分かったのでネットで買うことにした。

ついでにスモモの苗も買うことにした。

スモモはもちろん酸っぱい桃が語源である。
プラム、プルーンという言い方がある。

中国原産のすももはプラム(Plum、日本すもも、単に「すもも」とも)と呼ぶ。 
学名Prunus salicina。
形は丸く、赤く熟れる。生食用。日本産は山梨が32%、長野が16%(2022)。ハタンキョウ(巴旦杏)とも呼ばれる。(漢字があるとは知らなかった。長野ではバタンキョといい、方言だと思っていた)

コーカサス地方原産のすももはプルーン(prune、西洋スモモ)と呼ぶ。学名Prunus domestica。
ミキプルーンで知られるように、紫がかった少し長めのかたちで、生食だけでなくドライフルーツやジャムなど加工もされる。雨で裂果が起きやすく、生産量は長野が54%、北海道が36%(2021)。

ちなみにネクタリンの国内生産は長野が7割を占める。

以上、ネクタリン(=桃)、プラム、プルーンはすべてバラ科スモモ属Prunusである。

さて、ネット通販で買おうとすると、様々な栽培品種があり、それぞれ特徴がある。
それぞれの品種を検索すると個人のブログなどが多くヒットする。しかし有名な品種しかなく、プルーンの品種がプラム類に入っていたりして間違いが多い。ネットの特徴か、同じ間違い、同じ記述が多く、自分で大して調べず、ネット情報を鵜呑みにしたものが多い。

そこで自分で表を作ることにした。
重要なのは、1本だけで実がつくかどうか(自家結実性)、実が生る季節はいつか(ブドウなどに重ならないほうが良い)、実の重さ(大きい品種は難しい)などだ。
JA長野、長野県果樹試験場、農研機構、苗木販売業者の公式サイトなどをいくつか見て作成した。
https://www.naro.go.jp/laboratory/nifts/kih/index.html
https://www.agries-nagano.jp/original_breed#kaju
https://www.ja-nagano.iijan.or.jp/farming/products/calendar/prune_plum/
など

1.ネクタリン

    自家結実か 収穫  g  苗の価格
ファンタジア  〇    8月 250  1,155 日持ち良い
秀峰      x、〇? 250
フレーバートップ 9月 240
弁天の舞   〇,△    9月 150₋180
サマークリスタル 7月 150₋200 須坂で開発
スイートクリスタル  7月下 160₋190 須坂で開発
ヒラツカレッド  〇  7月 200  1,650 旧名・モモ平塚68号
常陸レッド    〇      180
しずくレッド  6月(90日)140 早生
チヨダレッド 開花から90日 170 

2.すもも(プラム)

大石早生  x  6中旬~  50₋80  1952年福島県大石俊雄氏
ソルダム   x  7下旬~  80₋150
太陽
サンタローザ   7月  100₋150  別名「さんたろう」
貴陽   x     大型  難しい
ビューティ  〇  6中旬~8月 70  1,155
シナノパール  9月   200  高級

3.プルーン

アーリーリバー 〇△  7下₋ 8上 25₋30 1,800
サンタス   △  7下₋ 8上 40₋50 2,300
トレジディ
グランドプライズ、
くらしま早生、
スコウ         1,800 須坂
オータムキュート x  9月下旬  80  2,000 須坂で開発
サンプルーン  9月  30  1,800 佐久で選抜。国内首位、
スタンレー    〇     45    米から導入、国内生産量2位
パープルアイ    120  2,300 北海道
プレジデント  10月  90
シュガー   〇  9月

一覧表を作っているうちに、ヒラツカレッド(ネクタリン)、ビューティ(プラム)を買うことに決めたので、調査、表作製を途中でやめた。

注文先はガーデン ストーリー。
取り扱い品種が多く、送料が2本同梱、1400円、とはっきりしている業者にした。
苗は1650円と1155円。苗本体だけならホームセンターより安い。

住所を見たら
高松市国分寺町国分601-1
偶然にも、今年の6月に香川県に行ったとき、讃岐国分寺から関の池の脇を通って国府跡まで歩いた田舎道から、わずか500メートルのところだった。
知っていたら立ち寄りたかった。

2024₋12₋13 
12月12日、苗が到着。
2つとも1年生接木苗。
驚いたことに、苗はポットに入っていなかった。畑から掘って洗ったのだろうか、根は土が全くついていない裸の状態で、少量の濡れたおがくずと一緒に新聞紙に包まれてていた。
説明を読むと6~12時間水に漬けてから、すぐ植えろという。
その日の夜に水にいれ、朝は寒くなるので玄関の中で放置した。

翌朝久しぶりに早起きして植えた。
水をたっぷり上げなくてはいけないが、凍る季節になっている(気温が氷点下でなくても凍る)。少し心配。
2024₋12₋13 7:26
奥から甘夏、ビューティ、ヒラツカレッド、せとか。
まあ、こんな狭いところで果樹をやろうという人はいないだろう。
室内の鉢植えよりマシという程度である。

ビューティは樹高2~5m、葉張り2 ~5m、ヒラツカレッドは樹高2~3m、葉張り2~4mである。
しかし、ビューティは奥の甘夏の枝先から80センチ離れたところに植えた。ビューティとヒラツカレッドのあいだは100センチ、ヒラツカレッドとせとかのあいだは150センチ。
つまり、半径50~80センチしか枝を張れない。触れ合うところは日が当たらない。

共倒れになる恐れが十分にあるが、他の広いところは野菜用で、野菜の作れない(下のほうは塀のため日当たり悪い)この狭いところしか空いていなかった。

こうなるなら、枝豆やエンドウのように、最初から二本立てにしても良かったかもしれない。つまり、木の中央は日が当たらないから葉が付かず空洞になる。これをネクタリンとプラムの二本で共有し、二本が作る楕円の円筒の半分ずつに枝を張らせる。
しかし、実験の成否は5年後くらいにならないと分からず、こんな前代未聞の植え方は独創的すぎて危険である。
状況によっては、来年秋ごろ、場所を移転するかもしれない。
2024₋12₋13 
手前(左):ヒラツカレッド 奥:ビューティ
先を少し切り戻しして、切り口で生きていることを確認した。

来年、場所を移動するかどうか、
5年後に実が生っているかどうか、
その時自分はどうなっているか、
甘い実が生ったら誰が喜んでくれるか、
果樹の苗を植えるということは、野菜と違い、未来に思いをはせるということ。
老人の場合は人生を思わざるを得ない。


2024年12月14日土曜日

印象派のモネとルノワール、マネ、ほかを見た

穏やかな初冬の土曜日、12月7日、千駄木から歩いて国立西洋美術館に行ってみた。

ちょうど特別展「モネ 睡蓮のとき」がやっていて、特別展のチケット売り場は行列だったが、常設展は空いていた。

入り口の19世紀ホールからスロープを上がり2階から見ていく。
まず、14世紀〜16世紀(後期ゴシック、ルネサンス)の絵が並ぶ。このころの絵は技術的な面では後世のものにかなわないから、絵としての絶対的な良さは素人にはよく分からない。
10:21
フランチェスコ・ボッティチーニ(1446 - 1498)
「聖ニコラウスと聖カタリナ、聖ルキア、聖マルゲリータ、聖アポローニア」

絵画史のうえでの転換点になった作品なら意味があるが、こちらにはその知識もない。
また、近代の絵は我々が普段見ているものを描いているが、このころの絵は宗教画などが多い。神話や聖書などを十分知っていないと、絵の最も重要な要素である「主題」がわからない。
つまり見ただけでは、色々な意味で、感動しづらい。

クラシック音楽のコンサートと同じで、初心者は自分が知っている絵の実物とか、有名な作者の別の作品がみたいものである。しかしルネサンス期のダ・ビンチやラファエロの作品はそれほど多くないから美術館より博物館のほうがふさわしく、ここにないのは仕方がない。

・・・
展示は17世紀(バロック美術など)、18世紀(ロココ美術など)、19,20世紀(印象派など)、20世紀戦後の作家、といった時代順に並んでいるようだ。

多数あるので先入観なしに目についたものだけ、誰だか作者をみるようにした。

歩をすすめれば、ピーテル・ブリューゲル(子)(1564-1637)「鳥罠のある冬景色」があった。私の好きな同名の父親の「雪中の狩人」とそっくりだった。
フランドル地方の北方ルネサンスの画家としてとらえられる父は5歳のときに亡くなり、長男は父の作品の多くを模写し、さらには何枚も複製した。実際、父親にも「鳥罠のある冬景色」(1565)がある。
親子だからタッチが似たわけではないのである。

さらに進むとフェルメールの「牛乳を注ぐ女」(1657?)を思わせる構図と、光をうまく使った容器の光沢が目を引く絵があった。
10:41
「聖プラクセディス」
これは、あるイタリア人画家の作品を模写したものらしいが、模写したのはフェルメール(1632- 1675)の可能性が高いという。肉体、衣装、壷の質感が素晴らしいと思った。

フェルメールやレンブラントの作品はバロック絵画に属する。写実性がルネサンス期に確立されたあとは、凝った装飾の多用と明暗の対比が特徴である。すなわち陰影を深くして光を強調する。

二階の本館から新館(北側)に移ると日本人を描いた肖像画があった。
ずっと西洋の画題ばかりだったから目立った。
10:45
フランク・ブラングィン(1867-1956年)「松方幸次郎の肖像」
周知のことながら国立西洋美術館は、松方コレクションを収蔵するために建てられた。(前のブログ)

松方の肖像画のあたりから、旧松方コレクションの絵画が中心となる。
松方の買い集めた印象派の作品が続く。
10:49
アルフレッド・シスレー(1839-1899)
「ルーヴシエンヌの風景」

彼の900点近い作品は大部分が風景画という。
「ルーヴシエンㇴの雪」を私学共済の広報紙(利倉隆解説)で見て、いいなと思ったたことがある。
彼はルノワールやモネの1,2歳年長であるが、印象派の中でも正統派とされる。
「ポールマルリーの洪水」もどこかで(本で)見た。

絵画はアルタミラの洞窟のころから、現実世界を固定する、それもなるべく写実的に描くという方向で発展してきた。遠近法が確立したルネサンス期に一応の完成を見て、その後は細部まで写実性を高めていった。
ところが写真機があらわれ、写実性では到底かなわなくなった。

しかし伝統を重んずる保守的な権威者たちは、相変わらず理想化された主題や完成度を求めた。パリの若い画家たちはこれに反発し、細部を丁寧に描くよりも、色や光を大胆に表現することで、見る者に直接的な「印象」を伝えることを試みた。
(印象派の「印象」という言葉はモネの絵のタイトルから来たものだが)

彼らは日常のシーンをリアルに捉えることを重視し、アトリエで時間をかけて作り上げる従来の方法ではなく、屋外での即興的な風景画を多く描いた(チューブ入り絵具の登場が戸外での写生を助けた)。だから彼らの作品数は、フェルメールやレンブラントよりはるかに多い。
そして明るい色調、薄く塗られた絵の具、そして独特のタッチが特徴である。
また、色を混ぜずに隣り合わせに塗ることで(チューブから出したばかりの絵具と酷評された)、目の錯覚を利用する手法も駆使した。

10:50
クロード・モネ(1840₋1926)
「雪のアルジャントゥイユ」(1875)

絵というものは、それが刺激となって見る人が脳内に持つ記憶の景色を呼び覚ます。それにはあまり細かい写実性は必要なく、全体の雰囲気が大切である。

上のモネの雪景色を見ると、雪道を歩く人は写実性のない小さな黒い物体ながら、寒そうで足元がおぼつかない感じが伝わってくる。風が吹くと木々の枝から雪がパラパラ落ちてくるような林。手前の雪原に薄く残る足跡。大雑把な筆使いながら十分に計算されているのだろう、写真に匹敵する現物再現性がある。いや、作為的に(脳に伝わるように)デフォルメできるから写真以上のものができる。
10:51
クロード・モネ Claude Monet
「並木道(サン=シメオン農場の道)」(1864)

道に映る並木の影に、見る人によっては風なども感じるだろう。
一見大雑把な筆使いながら、よく見れば影には濃淡があり、土の質感もあわせて田舎道を再現している。

現在西洋美術館では特別展「モネ・睡蓮のとき」が開催されていて、モネの作品はそちらに行っているのではないかと心配したが、この2つを見られてよかった。

モネは日本人が最も好きな画家の一人だと思われ、それがこの日、特別展チケット売り場の混雑に反映されている。
私も大好きで「アルジャントゥイユのひなげし」「散歩、日傘をさす女」などは美術の教科書にもあったのだろうか、忘れがたい。

モネの隣にルノワールがあった。
10:51
ピエール=オーギュスト・ルノワール
(1841₋1919)
「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」(1872)

日本ではモネよりルノワールの名のほうをよく聞く。絵に興味がない人には喫茶店の名前になるなどフランス語っぽい語感が好まれるのかもしれない。

二人は1歳違いで親しかったらしい。
ここで思いだすのは有名な風景画「ラ・グルㇴイエール」(1869)である。
「絵画の見方」別冊宝島(1992)から

当時パリの都心から郊外へ向かう鉄道が敷設され、近郊ブージヴァル、セーヌ川の河畔には新しい行楽地、ラ・グルヌイエールができた。二人はともにブージヴァル近くに住んでいたから1869年の夏に出かけ、並んでイーゼルを立てた。

彼らは水面に反射する光をどのように表現するかを一番に考えたであろう。
28歳と29歳の二人は、絵具を混ぜて濁らせないよう、タッチのひとつひとつを分けておいた。するとわずか数種類の色で、光の反射だけでなく、水面の動きまで再現された。印象派の基本的な技法として知られる色彩分割の威力である。

しかし絵の出来、つまり水面のきらめきは圧倒的にモネが優れている。
いくら仲が良くても同じ構図の絵を後世比較されると分かっていたら、描きにくいであろうが、このときは若く、軽い気持ちで描いたのだろう。
もっともルノワールは人物画、モネは風景画を得意とした。モネは「舟遊び」「散歩、日傘をさす女」などで人物が中心になることがあっても、目や鼻は描かずに風景のようにしている。

私がモネの「ラ・グルヌイエール」を初めて(本で)見たのがいつだったか忘れたが、印象派の魅力を知り、中でもとくにモネを好きになったきっかけとなった絵である。
今回、これがメトロポリタン美術館にあることを知った。松方幸次郎が集めたコレクションに入っていなかったのが残念である。
10:52
クロード・モネ
「しゃくやくの花園」(1887)

ラ・グルㇴイエールより20年近く後だが、この絵は良さがよく分からない。

アメリカでは有名画家の大型豪華本が驚くほど安い。1ドル100円のころ、7.99ドルとか8.99ドルでバーゲン本として平積みされていて、出張のたびに買って重い荷物を持ち帰ったものだった。ネットで本が買えるような時代ではなかった。何冊もあるはずだが、どの段ボールにしまったか、この機会に大判で見てみようと思ったが探すのが億劫になっている。

さて、ゆっくり歩を進めると、黒いドレスの肖像画があった。
今度はモネでなくマネの絵を思い出した。
10:53
ベルト・モリゾ(1841₋1895)
「黒いドレスの女性(観劇の前)」

マネの黒いドレスの絵が浮かんでもタイトルが分からないので調べたら「黒い帽子のベルト・モリゾ」、と「バラ色のくつ(ベルト・モリゾ)」であった。
即ちこの絵の作者、モリゾは(私は知らなかったのだが)マネのモデルをつとめた画家仲間の女性だったのである。説明文を見れば、このモデルのドレスはモリゾのものらしい。
マネの描いたモリゾは可愛らしいが、モリゾの描いたこの女性はあまり可愛くない。

日本人にはよく似た名前のモネとマネは、同じ印象派ながら全然違う。モネが風景画を主に描いたのに対し、マネは人物画が多い。

10年近く私学共済の広報紙で連載された「名画物語」のページを破いてファイルしていたが、利倉隆はマネの代表作として「フォリー・ベルジェ―ルのバー」(1882)を選んだ。カウンター越しに正面を見る女性はやはり黒いドレスである。

10:53
エドガー・ドガ(1834₋1917)
「舞台袖の3人の踊り子」

初めて見る絵だが、すぐドガと分かった。
作者として、画風が一定なのと、作品によって色々変化するのとどちらがいいのだろう?
やはりその人だけの特徴、他人にない個性が世間で有名になっていくほうがいいのだろうな。

ドガの絵は過半数が踊り子を主題にしているらしい。
この絵については人物が右に寄っていること、3人の踊り子の中にシルクハットの男性の影があることなど、よく分からない。
10:54
ポール・セザンヌ(1839₋1906)
「散歩」(1871)
セザンヌもルノアールと同じく名前の響きが良い。絵を知らなくとも名前はみな知っている。
彼は、当初、年の近いシスレー、モネやルノアールとともに印象派として活動していたが、1880年ころから印象派と離れた。すなわち人物、風景を問わず、(石膏デッサンのように)物の形を面取りをし、対象を面の集合として捉え、キャンバス上に小さい色面を貼り合わせたように乗せて立体感を強調した。すなわち印象派が全体の反射光の描写に力を入れたのに対し、セザンヌは対象自体の存在感を追求した。これはピカソなどのキュビズムに影響を与えていく。

上の「散歩」は、それ以前の作だが、モネなどと比べるとごつごつし、すでにモデルの存在が力強い。

10:54
ルノワール
Pierre-Auguste Renoir
「帽子の女」(1891)

10:55
エドゥアール・マネ
Édouard Manet(1832₋1883)
「ブラン氏の肖像」(1879年頃)

私は彼の人物画としては20年前の、無名の若い時に描いた「ギター弾き」(1860)が好きだ。これは「サロン」(フランス芸術アカデミー主催の美術展)へのデビュー作である。
芸術家というのは音楽でもなんでも、若い時と違うものを作ろうとするのだろうか。

2階から1階に降りた。
10:59
中庭が見える廊下に彫刻が並ぶが、見ずに通り過ぎた。

11:03
ジョルジュ・ルオー
Georges Rouault(1871- 1958)
「道化師」

半世紀近く前、本郷通りにルオーという喫茶店があった。
(今も東大正門前にある)
カレーを頼むと食後にコーヒーが出てきた。何回か食べたが、ルオーという画家の作品を今回初めて見た。素人受けする絵とは言えないが、この作者を店名にするとは、店主はかなりの芸術通だったのだろう。調べたら、画家でアートコレクターの森田賢氏が1952年に画廊喫茶ルオーとして赤門前近くに開業、私が修士2年の1980年に今の位置に移転したようだ。
11:04
パブロ・ピカソ
Pablo Picasso(1881₋1973)
「男と女」(1969)

私には良さがよく分からない。

11:05
エドヴァルド・ムンク(1863₋1944)
Edvard Munch
「雪の中の労働者たち」(1910)

あの「叫び」のムンクである。
絵を見ると同じ作者だとなんとなくわかる。
撮影禁止の絵だったので、離れたところから景色として撮った。

西洋美術館はムンクの作品を37点所有するが、多くはリトグラフである。

11:06
パブロ・ピカソ
「小さな丸帽子を被って座る女性」(1942)

素人の何割がピカソを素晴らしいと思うのだろう?
従来の絵画が一つの視点から見たものであったのに対し、ピカソは様々な視点から見た絵を1枚に統合した。我々が物を見るときは様々な視点から見るから、こちらのほうがある意味で自然だとはいえ、一枚のキャンバスに固定されると、素人はついていけない。絵画という芸術は見る者に心地よい感動を与えるものだと思うが、一般人は感動するだろうか。

11:08
ポール・シニャック
Paul Signac(1863-1935)
「サン=トロぺの港」(1902?)

点描法のスーラ(Georges Seurat 1859₋1891)の絵を思わせる。実際シニャックは、4歳年長のスーラの弟子というより友人であったが、その影響を強く受けた。点を打って描く作品は手間のかかるうえ、スーラは早世したから彼の作品は少ない。だからこの手法が評価されたのはシニャックの功績が大きい。
「サン=トロぺの港」の拡大写真
モネは「ラ・グルㇴイエール」の水面で、絵の具を混ぜずに描くことで光の揺らめきを表現したが(筆触分割)、どうしてもキャンバスで絵具は混じり、その分暗くなる。そこでスーラらは完全に分離した点を置くことで(カラーテレビの原理)、色を再現した。これは点描主義といわれる。

光の三原色を明らかにしたのは物理学者のヘルムホルツで1952年のことである。
彼の実験はプリズムを使ったものだが、スーラが点の集合で絵を描いたのは独創的である。

素人にとって絵を描くのに難しいのは、写実性というか、形の再現である。これができないからへたくそと言われる。
しかし点描法の場合、そんなことより、どの色とどの色を置いたら、どんな色に見えるかということを常に計算しなくてはならず、もはや絵を描くという行為ではなくなってしまう。生理学、心理学の問題である。

画家たちは写実的に描く実力はあっても、写真とは違う、さらには従来の画法とも違う、新しい試みに挑戦することに意義を見いだし始めたのではないか?

スーラ、シニャックは新印象派という。
(これに対し、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンらはポスト印象派という)

・・・
どうも館内での順路を間違えたらしく、ピカソのあとに、見なかった壁にいくとまた印象派の絵が出てきた。
11:09
エドゥアール・マネ
「花の中の子供 (ジャック・オシュデ) 」(1876)

手前の花は下(横)から、後ろの芝生と木は上から俯瞰し、顔と植木鉢は浮いているようにみえる。先に述べた「フォリー・ベルジェ―ルのバー」の黒いドレスのバーメイドは、カウンターの正面に居ながら、背中の鏡に映る姿は斜めという、いたずらなのか、何か深い意味があるのか分からないが、マネはよくこういう絵を描く。
11:11
ポール・ゴーガン
Paul Gauguin(1848₋1903)
「海辺に立つブルターニュの少女たち」(1889)

ふつうはゴーギャンだが、西洋美術館はゴーガンである。フランス語だと後者のほうが近いか。
ゴーガンは南太平洋のフランス領タヒチでの絵が有名である。最初のタヒチ訪問は1891年、2度目は1895年。「ブルターニュの少女たち」はタヒチより前だが、十分タヒチ的である。

11:12
ポール・セザンヌ
「ポントワーズの橋と堰」(1881)

素人は特に何も感じないが、セザンヌというビッグ・ネームのため撮った。
遠くの橋や建物の筆使いはさすがである。

11:12
ポール・ゴーガン
「サン=トゥアン教会、ルーアン」(1884)
やっぱりゴーギャンは褐色肌の女性の絵がいい。

11:13
ポール・セザンヌ
「葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々」(1885ころ)

順路を間違えたおかげで、最後にまたモネがあった。
11:13
クロード・モネ
「波立つプールヴィルの海」(1897)

ずっと先延ばしにしていたが、この日、散歩に来てよかった。
また来よう。
11:17
展示室から出ると館内カフェ「すいれん」はこの時間ですでに並んでいた。
ここで食べる予定で朝を軽くして来たのだが、仕方がないので西郷さんの下のさくらテラスにいった。土曜だからどの店も人が並び始めていて、空いていた2階のこて吉でお好み焼きを食べた。1500円くらいだったが量が少なかった。どうせ歩いて帰るのだから根津あたりで食べればよかった。

帰宅後気づいたのだが、西洋美術館の公式サイトはよくできていて、検索に作者名をいれると収蔵するすべての作品が小さな画像で出てくる。モネの作品は上野に18点あるようだ。

今回そのうちの9点が特別展「モネ 睡蓮のとき」のほうに行き、パリのマルモッタン・モネ美術館の所蔵作品50点を中心に、64点が展示されているという。https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/pdf/2024monet_list.pdf

「睡蓮のとき」って日本語で変だな、と思った。睡蓮を眺めている瞬間という意味だろうか。
モネは1883年からセーヌ川沿いのジヴェルニーに住み、自宅に「花の庭」と、睡蓮のある「水の庭」を整えていった。そして1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになった。リストをみると特別展には睡蓮以外の絵も多いが、すべて1890年代以降である。「とき」というのはモネのこの「時代」の作品を集めて特別展にしたという意味だろうか。

・・・
印象派(新印象派、ポスト印象派)の画家たちは、当たり前だが(派となるくらいだから)年が近い。そしてみなパリにいた。日本では明治時代である。

文明開化で西洋の芸術が入ってきた時、絵の好きな若者は衝撃を受け、あこがれた。しかも作者たちは同じ年恰好で、異国の空の下、現実に生きている。
これらの絵を見ると、みなパリに行きたがったのもうなづける。

芸術は科学とともに、経済力や軍事力より高尚なものとして尊敬される文明力である。
フランスはドイツに戦争で3回も負けたのに、外交では常に強気で欧州の中心である。これは印象派という独創的な集団を生み、世界の芸術の中心だったという「歴史的な自信」から来ているのではないか?
現代につながっているものとして、産業革命と基礎科学のイギリス、医学・物理・化学と音楽のドイツ。
アジアの辺境にいた日本は仕方のない面もあるが、歴史的に自慢できるものがない。

2024年12月10日火曜日

上野公園13 無料の西洋美術館と松方幸次郎

9月の暑い最中、東京都美術館の院展にきたとき、次は国立西洋美術館に行こうと思った。
しかし、いつの間にか3か月経ち、冬になってしまった。
国立西洋美術館は国立科学博物館同様、65歳以上は無料である。しかし特に見たいということもなく、齢を重ねて3年。

穏やかな初冬の土曜日、散歩がてらに行ってみた。
家から団子坂を下りて谷中の三崎坂を上る。
東京芸大正門まで1.9km、27分。
2024₋12₋07 10:04
学園祭の名残のような、モニュメントがあった。
芸祭で担がれたお神輿か。象ではなく無病息災の神獣・獏らしい。美術部でなく音楽部にあるのは、例年1年生が学部、学科を越えてグループを作り4-6体製作するというからか。
10:08
東京都美術館の裏はイチョウの落ち葉で埋まっている。
左から地下を通る京成電車の音、右からは動物園の獣の声。
10:12
噴水前はフードフェスティバル。
こんな早い時間から人出がある。
かつては個人、カップルがのんびり散歩する場所だったのが、インバウンド客などを集めるため、噴水を小さくする一方、周りの木を伐り、イベント広場にしてしまった。
金儲けを優先する、まことに乱暴な公園整備である。
10:14
西洋美術館到着。
「考える人」、「弓を引くヘラクレス」、「カレーの市民」は、いつもは見向きもしないで足早に通り過ぎるのだが、今日は真っ先に目に入った。その向こうに早くも行列がある。
10:14
この時間、駅のほうから皆一方向に歩いてくる。
10:15
入るのは上京した年、1975年以来。
中野の畑純子さんだったか、甲府の名取千波さんだったか。
二人とも続かなかった。
10:16
ロダンの「考える人」、「カレーの市民」
このような貴重な美術品を屋外の炎熱寒波、風雨霜雪にさらしていいのだろうか? それとも本物は倉庫にあってこれは複製品だろうか。
なんて昔は考えていたが、像は鋳造品で融けた金属を型に流し込めば版画のようにいくつでも作られる。世界で一つというものではないから、戸外でもいいのかもしれない。
もっとも、著作権というものがあるだろうから、限りはある。

考える人はオリジナル版が国内5か所のほか世界で32体、ロダン死後の鋳造は26体あるらしい。カレーの市民はオリジナルの鋳型からが12体、その他にも多数あるという。
西洋美術館のものはもちろんオリジナルで、松方コレクションの一部である。

前庭にいた大勢の人は、特別展「モネ 睡蓮のとき」を見に来た人々で、常設展は違うだろうと並ばずに中へ入った。
10:17
常設展入り口 「19世紀ホール」
ここでチケットが必要と分かり、また外に出る。
10:19
本来のチケット売り場は特別展専用になっていた。
大行列だが、皆お行儀が良く混乱はない。
常設展のチケットは屋外の仮設テント(写真右)で売っていて、そちらに並ぶ人は誰もいない。
特別展は2300円(常設展も見られる)、常設展は500円(65歳以上無料)。

私のように事実上初めて、もしくはたまにしか来ない人は、常設展だけでも十分。
今回のモネはパリからの50点の他に国内にあるものを加えて64点展示されるらしいから見ごたえあるだろうが、例えばモナ・リザ1点のために高くて混雑する特別展に並ぶ元気はない。

さて、仮設テントで運転免許証を見せて無事チケットをもらい、改めて展示室に入る。

最初の展示室は14世紀〜16世紀(後期ゴシック、ルネサンス)の絵画がかけられている。
10:21
フランチェスコ・ボッティチーニ 
見たことがあるような無い様な。

しかしこちらの知っている絵が一つもない。
クラシック音楽のコンサートと同じで、初心者は自分が知っている絵の実物がみたいものである。

素人だから、いっぱい見てもどれが素晴らしいのかよく分からない。

西洋美術館はル・コルビュジエの設計で、世界文化遺産に登録されて注目された。
しかし建築素人には、その良さもよく分からない。
10:26
左の絵はステーン・ヤン (1626 - 1679)「村の結婚式」
(ずいぶん花嫁が老けていた。)

この絵の隣が開いていて、一階入口から二階に上がってくるつづら折りのスロープが見えた。西洋美術館の設計上の特徴、すなわちル・コルビジエの特徴は、なんだろう? このスロープが印象的だが、車いす対応として、日本全国にいくらでも見られる。建物全体の四角の形も、なぜ世界遺産なのか、と思うような意匠である。

さて、外の喧騒と離れた静かさの中を1点、1点見ながら進む。
展示は17世紀(バロック美術など)、18世紀(ロココ美術など)、19,20世紀(印象派など)、20世紀戦後の作家、といった時代順に並んでいるようだ。
10:41
「聖プラクセディス」
あるイタリア人画家の作品を模写したものだが、模写したのはフェルメール(1632- 1675)の可能性が高いという。肉体、衣装、とくに金属壷の質感が素晴らしいと思った。バロック期の絵画は、凝った装飾の多用、強い光の対比が特徴である。

見ていくと日本人を描いた肖像画があった。
ずっと西洋の画題ばかりだったから目立った。
10:45
フランク・ブラングィン(1867-1956年)「松方幸次郎の肖像」

上野の国立西洋美術館は、松方コレクションを収蔵するために建てられた。
モネもマネも知らない長野にいた時から「松方コレクション」、「松方幸次郎」の名前だけは、知っていた。
調べたら、私が高校1年だった1972(昭和47)年10月12日から11月5日まで、長野市の信濃美術館に絵画、彫刻など計78点が出張展示されている。このとき学校(美術の授業?)の勧めで見に行ったのか、行かなかったのか、全く記憶にない。少なくともこのとき松方コレクションを知ったが、自発的に行くような高校生ではなかった。

松方幸次郎(1866 - 1950)は薩摩出身の総理大臣松方正義の三男である。
東大予備門に入学するも学生運動にかかわり中退。渡米してエール大学で法律の博士号を取った。帰国して首相(父)秘書官などをしていて、1896年(株)川崎造船所の初代社長に就任した。これは川崎財閥創設者で、幸次郎のアメリカ留学の費用を負担するなど公私に渡って関係の深かった同郷の川崎正蔵に要請されたもの。
(川崎家の屋敷は文京区、猫又橋の北にあり、以前ブログに書いた)

これをきっかけに幸次郎は神戸新聞、高野鉄道など多くの会社の社長、役員に就任した。衆議院議員にもなり、関西政財界の巨人となった。

川崎造船は海軍とも関係を深め、日清、日露、第一次大戦の時代に、国家的規模の造船国産化の追い風もあり大発展した。
(ちなみに第二次大戦終了までに榛名、伊勢、瑞鶴、大鳳などを建造したが、戦艦、空母を建造できた民間造船所は神戸の川崎造船と長崎の三菱重工だけである。)

しかし川崎造船は第一大戦後から昭和にかけての船舶供給過多と大不況、軍縮条約の逆風で、経営が破綻、幸次郎は積極経営の責任を取り社長を辞任した。

彼は、川崎造船所社長として隆盛を誇った第一次世界大戦期に、日本における本格的な西洋美術館の創設を目指し、ヨーロッパで絵画、彫刻、浮世絵を買い集めた。(麻布に土地を用意し「共楽美術館」という名前まで決めていた。)

大戦終了後も、パリを中心にロダン、ゴーギャン、セザンヌ、ゴッホらの作品を次々に購入し美術品収集を続けた。肖像画を描いたブラングィンはアドバイザーだった。
すでにこの時期は川崎造船所の経営に陰りが見え始めた時期であるが、クロード・モネを度々訪れ交流を深め、大量にモネの作品を購入している。

大正初期から昭和初期(1910年代から1920年代)にかけて集められた松方コレクションは、浮世絵が約8000点、西洋美術品が約3000点。浮世絵コレクションは戦前皇室に献上され、現在、東京国立博物館にあり、西洋美術は多くが散逸したが、一部が国立西洋美術館に所蔵されている。

3000点という膨大な西洋美術コレクションは、川崎造船の経営悪化、負債返済のため1000点以上が売却され戦時中に多くが散逸した(ごく一部はサントリー美術館、大原美術館などにある)。
海外にあったものは、10割関税の実施と国粋主義の台頭による西洋排斥の風潮とで、日本移送が遅れた。ロンドンに置いていた900点は1939年に火災で焼失、パリにあった400点以上(428?)のコレクションはナチスによる略奪や戦災は免れたが、第二次大戦後に敵国資産としてフランス政府に没収され、戦後一部が競売にかけられた。

しかし、1950年から交渉が始まり、1951年のサンフランシスコ講和条約で返還が決まった。ただし、重要なゴーギャンやゴッホなどいくつかの作品はフランス側が譲らず、結局、絵画196、素描80、版画26、彫刻63、書籍5の合計370点が日本政府に返還された。

返還には収蔵する美術館を建設、展示するという条件があり、その結果できたのが国立西洋美術館である。
1953年準備委員会が発足するも、当時は財政難で文部省の1億5千万円の要求に、ついた予算は2桁少ない500万円だったとか。1954年には「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され、1億円を目標に寄付金集めが始まった。著名美術家が協力して大口寄付者には見返りとして作品をプレゼントするという試みもあり、また1954年11月には補正予算で5千万円が認められた。

敷地はフランス側が上野を推薦し、寛永寺の凌雲院跡を東京都(公園所有者)に寄贈させ、それを国に無償貸与するとした。
(西洋美術館、東京文化会館があった辺り、凌雲院の跡地は戦後引揚者のバラックが並んでいたらしい)

こうして国立西洋美術館は1959年に開館した。
松方コレクションだけでなく、海外からの作品を中心とする特別展も随時開催された。
1964年の「ミロのビーナス特別公開」は38日間の会期中に83万人以上が来場、入場前の行列は、上野公園を縦断して西郷隆盛像をすぎ階段下の公園入口まで続いたという。
1994年の「バーンズ・コレクション展」は、62日間の会期に107万人以上が来場し、混雑する日の入場待ちは7時間だったらしい。

今回、モネの特別展も想定以上に人気があるようだ。
行列が敷地から出ることはないものの、混雑のため、急遽12月21日以降の土日と2月の全日程は日時指定券が導入され、3回にわたって発売される予約券を買わないと入れなくなった。

それにしても松方幸次郎の美術品買いっぷりは豪快である。この資金は自分が社長を務めた会社の金であろう。少量なら公私混同、横領とか非難されるだろうが、これだけの規模だと作品を私蔵することもできず、結果的に国家財産となったから悪く言う人は誰もいない。

松方幸次郎は公職追放中の1950年、美術館の完成どころか、コレクションの返還を知ることもなく84歳で死去した。

(この日の絵画の鑑賞については、次回)

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