2017年2月11日土曜日

第109話 世尊院で子どもが天南星を食べる

千駄木菜園 総目次


薬学雑誌 43号(1885 明18年)p382 

地下鉄千駄木駅から団子坂を上がり(大観音通りという)、左に鷗外旧居跡の記念館と何軒かマンションを過ぎると世尊院がある。都会の寺らしく、広くない境内に木々どころか土さえなく、周りを密集した家々で囲まれている。



しかし今から130年前の薬誌の三面記事のような文章から、違う景色が浮かんでくる。


「千駄木町21番地、消防夫・石田幾次郎の長男、直吉(13年)、次男、金太郎(4年)、および千駄木林町2番地、車夫・小林辰次郎の長男、伊の助(9年)は、去る三日の昼ごろ、世尊院の境内にて丈、2,3尺ばかりの草にて万年青(おもと)のような美しき実を結べるを見つけ・・・」


世尊院は、将軍綱吉に寵愛されたお伝の方の父、小谷忠栄の死に際し建立されたという。江戸切絵図や明治9年の東京実測全図をみると、団子坂上から続く道に北面しながらも、さらに東側の藪下道まで広がる地所を持っていた。近所の子供たちが遊ぶ鬱蒼とした森があったのかもしれない。

なお、奇しくも千駄木21番地のというのは鴎外が1892(明治25)年30歳から大正11年60歳で亡くなるまで、家族とともに住んだ場所である。



https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/detail/detailArchives/0201100000/0000000037/01

明治東京全図(明治9年、国立公文書館蔵)から



「・・・実を摘みて噛み砕きたるに、辛辣にして口内灼くがごとく、舌たちまち涸りて物をも云へざる体に苦しむを・・・」
薬学雑誌の同記事によれば天南星には種々あり。
  ・天南星やまにんじんArisaema Japonicum
 ・斑杖へびのだいはち、やまごんにゃく
 ・虎掌うらしまそう
  ・(漢名不詳)むさしあぶみ
のちに現物をみて小林九一はArisaema Japonicumと結論した。これらはシュウ酸カルシウムの針状結晶を含み、それが毒となる。

「・・・傍らに見て居たる一人は、早々立ち戻りて親々へ通知せしかば早速駆けつけ、直ちに本郷の医学部第一医院へ入院せしめしに、幸ひ三人とも嚥下せざりしかば、1週間ほど経て治癒出院したりと云ふ」

世尊院のすぐ南、現在救急病院として利用されている日本医大病院は当時なかった。子供たちが人力車?で運ばれたのは、医学部第一医院といわれた。
東大は、明治11年医学部が神田に医学通学生の臨床講義用患者収容所として第二医院を設立、本郷の病院を第一医院と称した。帝国大学医科大学は明治19年からの名称であり、当時は東大医学部が正式名である。

明治40年の地図では、世尊院が古尊寺となっている。世を卋とした地図を見たことがあるので、写し間違ったのだろう。注目すべきは藪下道に面した東部が37番地となり、小さくなった世尊院に与えられたはずの13番地もさらに二分され、敷地が3分の1までに減っていることだ。現在は南側に住宅が建て込み、さらに狭い。

 数年前、この辺りで家を探したことがある。私の予算では土地付きの家は変えない。借地権付き中古住宅を探したのだが、寺が地主の物件が多かった。世尊院も困窮した明治に土地を貸したり譲ったりしたのだろう。

ついでに言うと観潮楼の21番地というのは、実は団子坂上の角のところで、鴎外は藪下道に面した21番の南側と19番、20番を買った。




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