2021年4月19日月曜日

御茶ノ水5 明大駿河台キャンパスの拡大

 4月4日、秋葉原から淡路坂を上がってお茶の水まで来た。

丸善の前をとおって、14:16御茶ノ水橋のスクランブル交差点にでる。

(別ブログ)
14:18
御茶ノ水橋から駿河台下交差点へ下る道は明大通りという。

法政大学発祥の地
通りの西側は明大12号館(写真左)とアカデミーコモン(右)。
地下の明大博物館は以前入った。

写真に法政大学発祥の地とあるが、明治大学発祥の地は、写真に写る今の明大駿河台キャンパスではない。
明治法律学校は1881年有楽町で始まり、1886(明治19)年、駿河台南甲賀町11番地にきた。明大通りの東、最近新築された日大病院の東側部分あたり。
すなわち、駿河台は説明板の法政大(明治13年東京法学社)より後である。(もっとも東京法学社は1年も経たないうちに神田錦町に移転)。また中央大学は1926年に神田錦町(跡地は東京電機大)から駿河台に来た。

専門学校令により、明治大学と改称したのが、1903(明治36年)。法政大も同じ。
ちなみに中央大学は1905年に中央大学と改称、
3者とも、大学令により名実ともに大学となったのが1920(大正9)である。

明大公式サイトから

いまのキャンパス、すなわち明大通りの西に初めて校舎を建てたのは1910年(明治43)のことだ。旧小松宮邸跡である。
その後、学生数の増加とともに周辺の土地を購入し、校舎を建てていく。

学生時代1975年から80年、古書店街に来るたびに明大の前を歩いた。
学生運動の立て看板で雑然とした汚い低層ビル校舎と、樹木の奥に古色蒼然とした明大記念館を覚えている。

その後、通りに面した駿河台ホテルと敷地交換し通りの西側を連続した敷地にしたのは、就職してお茶の水に行かなくなった1982年。

知らないうちに1985年、汚い校舎(4号館)は8階建ての大学会館となり、となりのホテル跡地1994年に12号館、12階のビルとなった。

1998年、明大記念館の場所には23階建てのリバティータワーが建つ。
2004年、通りで一番新しいアカデミーコモンは現代的なデザインの11階建て。
こうして明大通りは、文字通りすべて明大の新しいビルでつながった。
14:31
駿河台下交差点からみる明治大学リバティータワー
16階まで通常の教室、17階が学生食堂という。

しかし、高層ビルに入ってしまうと降りるのが億劫だろう。
かつては昼休みや放課後など学生がわくように出て、食堂や古本屋街にあふれていた。今はどうなんだろう。

神保町の古書店街を歩いてから(別ブログ)
明大駿河台キャンパスの西、リバティタワーの裏側に回る。
15:32 金華公園。
後ろにリバティータワーとアカデミーコモンが見える。
公園南に隣接していた金華小学校は1873(明治6)開校、夏目漱石なども学んだ。
1993年に小川小学校などと統合され、名前は区立お茶の水小学校となった。
この公園自体は小学校の横などに52か所作られた震災復興小公園のひとつ。

錦華坂
右は明治大学研究棟、山の上ホテルの裏口が並ぶ。

15:37
坂を上がると明大10号館
飛び地のようになっているが、旧三輪信次郎邸の敷地である。
14号館への矢印があり、木立の間から見れば崖の下に無人の寮のような感じ。
1995年の地図を見ると東京国税局神田寮である。
明大が買収したようだ。
おそらく10号館と一体化したビルに建て替えるだろう。
ちなみに11号館(現グローバルフロント、2013年17階建て)は医家の三浦謹之助邸跡地。

15:39 日大理工学部2号館
明大10号館とアカデミーコモンの間には日大理工学部2号館と8号館。
このあたり明大と日大理工が入り組んでいる。
駿河台キャンパスを拡大したい明治としては、何としても欲しいところだが、日大としても理工学部は駿河台に残したい。通りの東、飛び地の明大紫紺館と交換するには、あちらは地価は高いが狭い。
明治大学は京王線明大前の和泉(1934、陸軍旧火薬庫跡。文系6学部の1,2年生)、
生田(1951、旧陸軍登戸研究所跡。農学部、理工学部)、
中野(2013、旧陸軍中野学校、警察大学校跡地。高層ビル1棟)、
にもキャンパスはあるが、やはり駿河台が一番。
いくら受験者数日本一と言っても少子化で学生獲得競争が激しくなった。
都心のメリットを最大限に生かしたい。
校舎高層化に加え、近くに売り物件が出れば買っていくのだろう。
そういえば、14号館の先を行ったところにあった付属中、高校は2008年調布に移転させ、明大猿楽町校舎になっている。

15:42
その明大校舎群に囲まれた山の上ホテル。
中西香爾先生が来日した時の定宿だったらしいが、私は入ったことがない。
コロナで経営悪化したら明大が買収するだろうが、外見を残すか建て替えて高層化するかは分からない。

ホテルからまっすぐ明大通りに出る甲賀通りは行かず、明大リバティータワーの裏、研究棟から再び金華坂におり、斜め道(富士見坂)を上がって明大通りに戻った。

明大通りと靖国通りを結ぶ斜めに結ぶ富士見坂
この道は江戸時代からある。明治20年の地図には駿河台下交差点はなく、駿河台から神保町に降りるときはこの道を使った。御茶ノ水橋(1891、明治24年)からまっすぐ駿河台下まで伸びる明大通りはそれ以降である。
1975年からいつ来ても狭くて安くてにぎやかな飲食店が並んでいた。

15:47
明大通りに出ると、明大校舎群の中で唯一通りの東にある紫紺館。
右は内外地図のビル(別ブログ)。

紫紺館は2006年竣工。
明治の色は最初深紫に指定されたが(大正4年)、のち紫紺と呼ぶようになったそうだ。普通に青か紺だと思っていた。
昔の建物(小川町校舎)も北西の角が入り口だった。
当時は大通りも渡りやすかった。
食堂があった気がする。昔は誰でも通りからすっと入れて、こちらも明治だか日大だか気にしなかった。確かに若者の街だった。


 別ブログ 

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2021年4月17日土曜日

御茶ノ水4 神保町古書店街は日曜休み

4月4日、秋葉原にきた。
13:50に神田川にかかる万世橋をみて、昌平橋をすぎ淡路坂を上がった。
御茶ノ水駅の聖橋側改札口は西に移動していた。
丸善の前をとおって、14:16御茶ノ水橋のスクランブル交差点から明大通りを駿河台下交差点まで下りてきた。
(別ブログ)
2021‐04‐04 14:30 駿河台下交差点
辞書は三省堂 辞書はコンサイス
この看板は意外だった。 この街は昭和のままなのか?
辞書を引かなくなってから何十年も経つ。

靖国通りを西へ、いよいよ数年ぶりの神保町古書店街、
と思ったら日曜は休みのようだ。
昔から日曜休みだったかな? 
もっともわざわざ埼玉からくることはなくて、たいてい近くで学会があった時だから日曜に来ることはあまりなかった。
14:37
空いている店も少しはある。
洋書専門、理工学書中心など、古本でも店によって特徴があったが、閉まっているとどこがどこだったか分からない。

1975年、上京して大学に慣れたころ、フランス語の辞書を買いに来た。新品同様だったが定価2000円が1800円くらいだった。生協で買っても1割引きだから意味なかった。当時国鉄は初乗り30円、渋谷からお茶の水まで片道50円。フランス語学習の参考書も神保町で買った。
今思うと、古本といえど後のブックオフと比べると安くない。

当時は1972年のパンダブームが過ぎたころで、大量に売れ残り裁断所から流れた来たようなパンダ本が「天」の部分に赤マジックで線を入れて横積みされていたのも覚えている。
当時は古本は安いという意識しかなかったから関心もなかった。
しかし90年代になり、人文科学に興味が出たころ、また近くに来たら覗くようになった。
古い地図を床に広げて脚立の上から写真を撮っていた店はどこだっただろうか?
古地図で有名な人文社は2013年倒産した。本社は文京区大塚に移転する前、神保町でなく三崎町のほうだったから、違うようだ。

丸のバックナンバーなど戦記物を多くそろえていた店は靖国通りだったかスズラン通りのほうへ入る道だったか。福井静夫著作集で持っていないものを探した。

巌松堂ビル澤口書店の前に本の山。
仕入れは簡単だが売るのは大変だときいた。

澤口書店は靖国通りに3店あり、ここにはこけしや筆などもあった。

ネット時代になって雑誌、書籍が売れなくなり、書店もどんどん閉まっている。
古書、稀覯本にはネットにない情報もあるしマニアもいるから、一定の需要はあるだろうが、それでもアマゾンなどで探して注文してしまう。
神保町も経営が苦しいのではないか、と店員さんに聞いてみると、それほど人出、売り上げは減っていないという。ネットで本を買うより、店をはしごして歩きながら手に取り、ときには予期せぬものを見つけるのは確かに楽しい。
14:48
靖国通りと白山通りが交わる神保町交差点

神田古書センターは1階に高山本店
確か司馬遼太郎が坂の上の雲を書くとき、登場人物に関係する書籍、手紙などトラックいっぱい資料を買い集めたというが、ここの主人に頼んだのではなかったか?

ちょっと覗くと何やら古い資料が横積みになっている。
敷居が高くて入れず。
高山書店は「街道をゆく」全43冊揃いを13200円でネット販売していた。1冊300円か。昔、持っていないものを古書店を歩いて買ったが、1冊600円くらいだった。

狂言五十番、25万円。
高山本店のショーウィンドウは高そうな本が並んでいた。

14:57 
壁側一面書棚の矢口書店は健在

澤口書店神保町店
懐かしい絶版漫画が並ぶ。水木しげるや梅図かずおは今でも違う判元から出そうだが、望月三起也、上村一夫、桑田次郎、川崎のぼる、貝塚ひろしなど今の人は知らないだろう。

高速道路が見えてくる専修大前交差点にアダルト本専門の芳賀書店があったはずだが、気づかなかったか、そこまで行かなかったか。帰宅後調べたら2016年の時点でエロ本よりDVDの店になっていたらしい。ネットで無料動画が見れる時代、エロ本自体が少なくなって、マニア向けの古書エロ本を扱うしかなかろう。

白山通りまで戻り、
15:19
靖国通りから並行するスズラン通りに行く途中、偶然さぼうるに出くわした。
この老舗の喫茶店は初めだが、日曜は休みのようだ。

スズラン通りはきれいになったが、何となく寂しい。
学生時代、神田が詳しい綱島の叔母に中華料理をごちそうになった。
二階に上がる店だったが、どこだったか不明。

湘南堂書店
未整理本、掘り出し物がありそう。隣は虔十書林。
芳賀書店とともに古書店連盟の地図にはない。加盟していないのかな。

再び神保町交差点に出る。
白山通り
昔はこちらにも古書店はけっこうあった。
靖国通りのように軒並みではなかったが、ときには覗きながら水道橋駅から帰った。
アングル別冊1979年10月をみると古書店らしきが17店数えられたが、今回もらった神田古書店連盟の地図では7店。
こちらは昔からこだわりある店は少なかった気がする。
こだわりがないとブックオフのようなきれいで安くて探しやすい店には勝てない。

この交差点から後楽園遊園地が見えた。
そこからなら何回も歩いて帰ったことがある。
神保町交差点から千駄木の家まで4.1km。
仕事を辞めたら自転車で月1回くらい来てもいい。


2021年4月14日水曜日

御茶ノ水3 明大通りを歩く。杏雲堂、日大、中央大

4月4日、秋葉原から神田川にかかる万世橋、昌平橋、聖橋を見ながら歩いてきた。
(別ブログ)

 2021‐04‐04 
駅前の御茶ノ水橋から北を見ると建て替えられた東京医科歯科大、順天堂大の巨大病院ビル。すっかり景観が変わった。

14:16
スクランブル交差点ときくとなぜかここが浮かぶ。
さだまさしの檸檬の歌詞にもあり。
そのころは若者であふれていたのに、今ここは薬局だらけになってしまった(別ブログ)。
 あまり多いと儲かりすぎているのではないかと勘繰ってしまう。
医薬分業というのは必要なのだろうか?
医薬品が粗悪だった時代は医師に任せると不安だったが、今や書いてある用法用量を守ればたいてい事故はない。

黒沢楽器、石橋楽器、お茶の水楽器、オーディオユニオン、下倉楽器、谷口楽器と、お茶の水らしい店がまだ残っていてまだ残っていて、ほっとする。

14:18
御茶ノ水橋から駿河台下に降りる通りは明大通りというらしい。
通りの西側に並んでいた明大校舎もすべてビルになってしまった。
駿河台下から西側を上がってくると、ヒマラヤスギ?のある古い本館?と立て看板など乱雑に並ぶ汚い校舎があったが、すっかり新しいビルになっている。

下倉楽器をすぎると左の角に佐々木研究所・杏雲堂病院。
佐倉順天堂で佐藤泰然らに、その後長崎でポンペについてオランダ医学を学んだ佐々木東洋が、大学東校病院院長を経て、1882年(明治15年)、ここに杏雲堂医院を設立した。
この界隈では済安堂・井上眼科に次いで二番目に古い。戦前まで、本郷の南から駿河台にかけては医師の邸宅と病院の集積地だった。

佐々木研究所は、東洋の養嗣子である佐々木政吉の養嗣子佐々木隆興が、政吉の自宅内研究所を発展させて1939年設立した。彼は吉田富三(第2代所長)とともに実験腫瘍学で学士院賞受賞、ノーベル賞候補にもなった。杏雲堂は今でもがん治療で知られている。

植え込みに大久保彦左衛門の屋敷跡という石碑があり、その向こうに銅像の後ろ姿が見えた。もちろん大久保ではなく、佐々木家三代の誰かであろう。

杏雲堂病院の東は日大の歯学部や理工学部などがニコライ堂の南、本郷通りまで広がっている。理工学部何号館だったか、CBI学会で来たことがある。

杏雲堂病院の横の歩道に法政大学発祥の地という説明板。
杏雲堂病院の東隣、旧日大病院の場所に明治13年東京法学社が設立されたとある。
社というのは有志による勉強会のようなものだろうか。
それが学会になることもあれば学校になることもあった。
駿河台はそういう土地柄である。

通りの西側は明大駿河台12号館(写真左、1994竣工12階)とアカデミーコモン(右、2004年竣工11階)。地下の明大博物館は以前入った。

14:24
さて通りの東側、杏雲堂病院の次の区画は主婦の友社があったところだが、日大病院になっていた。

この一帯は主婦の友社の子会社、御茶ノ水スクエア社がバブルのころ1987年開発しA館、B館、C館ができた。しかし経営が苦しく2001年日大が一帯を買収、北側のB館、C館は壊されて、すぐ北にあった1963年築の日大病院が2014年新築移転した。
カザルスホールなどもあったA館は残り、日大法科大学院となったが、2014年日大法学部のある神田三崎町に移転し、そのあとに理工学部の図書館が移転してきた。
日大公式サイトから
日大は6,9号館が2018年竣工18階建ての高層ビル、「タワー・スコラ」になった。
2014年の計画では5号館の敷地まで入る設計であったが、縮小された。

さて明大通りを続いて南下する。
日大理工図書館の南は明大紫紺館。2006年竣工、校友会館である。
学生時代このあたりでおいしい学食は中央大学と聞いたが見つからず、まだ古かったここに入った気がするが記憶はおぼろ。

14:26
明大紫紺館のとなりは内外地図があったはず。
中2階の店舗は楽器店になっていた。
昔はここがショールームのようになっていて全国の5万分の1地図が売っており、登山者などが買いに来た。私も地図が好きだったからたまにのぞいた。
1997年10月21日、ここで明治大正昭和の東京5枚地図セット「地図で見る東京の変遷」を買った。泉麻人が明治の原宿で渋谷川の水車を見つけたとエッセイで書いていた地図である。
当時私は東京の歴史より地形に興味があった。今のようにネットでデジタル標高地図が見れる時代ではなかった。明治初期の実測地図は建物や文字が少ないため都心でも等高線が書いてあり、それを赤鉛筆でなぞったりした。

ここは内外地図の自社ビルであり、店舗は6階に移動していた。
エレベーターで上がったら閉まっていた。

14:30 駿河台下交差点
辞書は三省堂 辞書はコンサイスという看板は意外だった。

交差点を渡り振り向くと明治大学リバティータワー23階建てがそびえていた。

以前この辺りはスポーツ用品店が集まっていた。
今でもビクトリア、石井スポーツなどはあるが、減った気がする。
昔はスキーやアウトドア製品も買うのにお茶の水まで来たものだが、いまはネットや家の近所のホームセンターで買う時代になった。

帰宅して、日大理工学部のキャンパス地図を見ていて、新しい日大「タワー・スコラ」18階建ての西隣に中大駿河台記念館があることに気づいた。
中央大学は私が大学3年生だった1977年に多摩キャンパス(八王子)が完成し、M2になった1980年、駿河台キャンパスを閉鎖、跡地は大正海上火災に売却、いま三井住友海上駿河台新館(22階建て)となっている。
中大記念館は1988年、創立100周年記念館として7階建てで竣工したが、周りに合わせて20階のビルに建て替えるらしい。2023年完成予定。
都心回帰の一環として中央の看板、法学部は茗荷谷に来るようだが、20階というのは学生も来るのかな?

かつてお茶の水、駿河台は若者の街だった。
日本のカルチエ・ラタンと言われ、たしかに中大、明大、日大、その他予備校、専門学校の学生が喧騒の中をたむろし、飲食店、書店、楽器、など若者文化の中心だった。ほかの大学の学食や校舎にも入れたから、一つのキャンパスのようだった。他大学の異性と出会うこともあったのではないか。

しかし中大が移転、周囲の商業ビルも高層化され景色は変わった。
近年大学にも都心回帰の流れがある。しかし校舎を高層ビルにしてキャンパスの収容学生数をむりやり増やしても、まるでビジネス街のようで、とてもカルチエラタンとは言えない。閉鎖的な箱に閉じこめられたようで、他の大学の学生と出会うこともないだろう。

2021年4月12日月曜日

神田川1 万世橋と昌平橋から聖橋まで歩く

4月4日、秋葉原に来た。
すっかり変わった秋葉原で、1974年高校3年以来の、いくつかの記憶を引き出した。
(別ブログ)
電気街から西のほうに歩くことにする。

2021‐04‐04 13:48
中央通りを渡って秋葉原電気街を振り返ると総武線が通った。

南の万世橋を渡る。
前回来たのは2017年、千駄木から自転車で日本橋まで行った時。(別ブログ)
最初に渡ったのは1975年、初めてのデートで畑さんと上野公園・広小路から歩行者天国を散歩していたら銀座まで行ってしまった。
万世橋
この名の橋は1873年(明治6年)、江戸時代の筋違橋と桝形門が壊されるときにその石を使って作られた。九州に多い眼鏡橋の技術者が招かれたという。石だからよろづよ橋と名付けられたが次第にマンセイ橋と呼ばれるようになった。
しかし筋違橋はここではない。
江戸絵図(安政6年)
筋違御門橋、昌平橋の内側は八ツ小路という広場になっていた。
数えれば9本の道が入っている。
中山道はここに入って昌平橋を渡る。

明治10年
その1873年、すぐ上流の昌平橋が洪水で流され、万世橋(筋違橋のところ)の下流に仮の木橋が作られた。
明治10年の地図を見れば今の万世橋の場所に昌平橋とある。

明治29年(1896)昌平橋が復旧した。
明治36年(1903)仮の昌平橋が撤去したあとに万世橋が架けなおされた。
1906年、筋違橋のところにあった元の万世橋は撤去され、現在の位置関係になった。

13:50
今の橋は関東大震災(1923)で被災した後、1930年に同じ場所にかけなおされたもの。
西を見れば昌平橋が見える。

13:52
中央線のガードを見上げながら万世橋を渡っていたら、まさかの「肉の万世」。
万世とは橋の名前だから、そこに「肉の」とつけるのは変な店名だが、社名は「万世」だから仕方ない。創業した鹿野明は、戦後秋葉原電気街でヤマギワに勤めていて、鹿野無線に独立するも売り上げ不振、1949年、精肉・コロッケ商「万世」へ業種転換したという。

大宮から川越に行く国道16号の万世でこま切れ肉と玉ねぎを炒めた鉄板焼きが好きだった。
30年も前だがまだあるのかな?

渡れない道路のむこうをしばらく見つめ、ふとこちらの道端に目を戻したら、万世のカツサンドの自動販売機があった。700円だったが、5千円札しかなかったこともあり買わなかった。

中央線のガード下はカフェなどが入っている。
マーチ・エキュートという。
通り抜けできるのかな? 駅のエキュートと違いおしゃれすぎて入らなかった。
煉瓦の壁に沿って外を歩くと途中、旧万世橋駅というドアがあった。
1935階段、2013プラットホームと書いてある。

13:54
万世橋駅に鉄道博物館(のち交通博物館)ができることになり、近い出口として1935年に作られた階段。万世橋駅は1912年開業、都心から新宿、立川方面に行く列車の起点として重要な駅だったが、東京・上野間、東京・万世橋間が開通して近くに神田駅、秋葉原駅ができると役割を終え、1943年に廃止された。

階段を上がるとプラットホームのように線路と並行したデッキ。
「2013プラットホーム」というから、2013年にできたのだろう。
神田川側に行き止まりの線路、南側は中央線快速の線路がある。

13:58
13:58
お茶の水側の古い階段を下りて外に出ると「1912階段」と書いてあった。
開業時はこちらの階段だけだったのだろう。

交通博物館は2006年閉鎖され、跡地(道を挟んだ南側)にはJR神田万世橋ビルが2013年竣工した。

14:01 昌平橋
左中央線、右総武線
国道17号は万世橋だが、旧中山道は昌平橋を通る。
東を見れば万世橋が見える。

実は昌平橋駅というのもあった。
明治45年 最新番地入り東京市全図
当時は中央停車場(のち東京駅)が建設中で、新橋と上野の間に駅はなかった。(秋葉原は貨物駅)
甲武鉄道(明治39年国有化)はお茶の水まで来ていたが、明治41年(1908)東に伸び、昌平橋停車場が終点となった(上図中央)。すなわち都心から西へ向かう始発駅で、かつ都電の路線も集まっていたから、交通の要衝だった。地図の停車場前広場には万世橋側に広瀬中佐銅像と書いてあるが、杉野兵曹の像もあった。

しかしその4年後、さらに東に延び明治45年万世橋駅ができると、昌平橋駅は閉鎖された。
さらに伸びて万世橋駅も閉鎖されたのは先に書いた。

14:04
昌平橋を過ぎるとすぐに淡路坂

これだけ近くで電車の底を見られる場所は少ない。
石が飛んできたら危ない。
淡路坂は神田川を挟んだ北側の昌平坂と並行しているから、両者を相生坂ともいう。

14:08
湯島聖堂などを見ていたら、赤い丸ノ内線が神田川を渡った。

御茶ノ水駅は近い。
わざわざ昌平橋駅、万世橋駅と、ほんの少しずつ伸ばしていった意味が分からない。

坂を上りきると左にお茶の水ソラシティ。
キョーリン製薬、小尾氏の好意で見せてもらった高層階からの絶景は以前書いた。

2021‐04‐04 14:11
御茶ノ水駅の工事はまだ続いている。
すっかり新しくなった聖橋のむこうに、新しい東京医科歯科大のビルが見えた。

初めて東京を歩いた高校3年の夏の日、聖橋を向こうから渡ってきて、たまたま目に入った千代田予備校にもぐりこみカレーを食べた。




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