2025年1月14日火曜日

クルーズ2 乗船、出航、ベイブリッジ

1月8日、初めてクルーズ船に乗った。

私的な旅行ではなく、ダンスのアルバイトである。

2025₋01₋08 15:15
地下鉄みなとみらい線の日本大通り駅から県庁の前を南に歩くとすぐ海に出て飛鳥IIがみえた。
15:19
大さん橋、国際客船ターミナル
隣にも客船がいる。
アプローチは木のデッキ。
ここは2回来たことがある。
2013年5月と2015年5月。
クルーズとは関係なく、いずれもダンスの競技会だった。
15:21
この入り口は覚えている。
(と思ったが、競技会で来た大さん橋ホールはもう少し先のほうで、これと入口もそっくりだった。)
国際客船ターミナルの内部
広々して、各ツアーの集合場所、待合い、乗船受付スペースになっている。
10年前に踊った大さん橋ホールかと思うほど、内部は似ていた。

ここで今回、一緒に仕事をするT先生(2012年から飛鳥の専属契約ダンサー)、ベテランのKさん、若いN君と合流した。

我々はスタッフ側なので、お客さんファーストで行動しなくてはならない。
乗客の最後尾について、受付で郵送された乗船券を出し、部屋のカードキーも兼ねる乗船証をもらった。
長々としたタラップを歩いて船長以下、クルーの出迎えを受けながら乗船する。本来私どもは客ではないのだから、ちょっときまり悪い。

さて、私の記念すべき初クルーズは横浜発着、1月8~11日の3泊4日「旅はじめ・名古屋クルーズ」である。
価格は、一番安い部屋で199,000円(2名1室、ひとり分料金)、いちばん高いロイヤルスイートで931,000円とパンフレットに書いてあった。

部屋にASUKA DAILYというA3裏表の船内新聞がおいてあった。
1月8日 出発日
その日のイベント、アトラクションスケジュールや船内生活での案内が書いてある。

部屋で荷を解き、くつろいでいると避難訓練の案内放送があった。
要するに自分のカードキーに書かれた救命艇のところまで行き、カードキーを見せてスキャンしてもらう。私の救命艇は7階のデッキの上につり下がっていた。ライフジャケットの着用練習などはないから簡単に終わった。

ちなみに部屋番号、救命艇とも偶数は左舷、奇数は右舷に並ぶ。つまり部屋番号が偶数の人は左舷にいるはずで、緊急時はボート乗り場である7階の左舷に行けばよい。
2025₋01₋08 16:45
避難訓練の帰り際、桟橋の反対側に停泊中の三井オーシャンフジが間近に見えた。
今年就航したラグジュアリークラスのクルーズ船である。飛鳥より小さいが、乗客定員458、乗組員330、スペースレシオは約71トン/人、パセンジャー・クルーratioは約1.4。客室数は229室で全客室28平方メートル以上のオールスイート、うち89%はベランダ付きという豪華客船である。
ちょうど韓国、九州、瀬戸内を周るニューイヤークルーズ11日間(ひとり88万~331万円)から帰って来た日のようである。

いっぽう飛鳥IIは、乗客定員872、乗組員が490人、パセンジャー・クルーratioは約1.8。日本(横浜市)船籍だから公用語は日本語だが、クルーは外国人のほうが多い。
ウィキペディアによると乗組員の3分の1弱が日本人、3分の2強が外国人である。
外国人の大半はフィリピン人で、彼らはレストランやカフェ、また在庫部門、客室係として働いている。他にもアジアや欧米各国の出身者がおり、国籍数は20を超えるという。一流ホテルと同じだから、性格か教育か皆感じがよい。言葉に不便がないなら、船旅は外国人が多いほうが非日常感が出て楽しい。

避難訓練の帰り、4人で11階のカフェに行き、腹ごしらえした。
船内の飲食は(アルコールを除き)どれも無料で美味しい。

飛鳥IIは、定刻17:00横浜港を出港。
16:45からSail Away Party、すなわち出航イベントが7階デッキであったらしい。
他の3人はすでに見たことがあったため話題にならず、おいしいハンバーガーを食べていた私は、見るものすべて初めてで、もちろんそんなイベントがあることは知らなかった。

そこで二回目のクルーズ(1/11-13駿河湾周遊)のときは出航パーティを見に行った。
その前にまた避難訓練があり、7階デッキに行く。
2025₋01₋11 16:34
避難訓練
16:36
乗船証(部屋のカードキー)をスキャンするだけだからすぐ終わる。

タイタニックの時代とは違って、救命ボートには屋根もついていて、また人が乗ってから降ろすのでなく(映画では落っこちた)、海面に降りたボートに乗るようだ。
このボートは小さな港に本船が入らないとき上陸用としても使うらしい。

避難訓練が終わった後、前回のクルーズで見られなかった出航パーティを見に行った。
同じ7階デッキの反対側(桟橋側)だった。
16:48
場所は救命ボートがぶら下がっているオープンデッキ。
乗客も少しずつ集まり(といっても最後まで少人数)、時間が近づくと制服の男性乗務員が端から端までドラを叩いて歩いていった。現代的なホテルのような船に、時代がかったアナログの演出が新鮮だった。
16:49
ドラを合図にSail Away Drink(シャンパンとホットワイン)がふるまわれ、フィリピンのバンド「ナマナ」が演奏を始めた。
16:54
ボーカルの声も良いので、対岸の大さん橋にも見物人が増えてきた。
なかには「いつか飛鳥に乗ってみたいものだ」と思っている人もいるだろう。
本来私はあちら側の人間なのだが、幸運にも無料でこちら側にいる。
曲調がだんだん派手になって、クルーのなかでも若手の人が音頭を取って盛り上げる。
乗客の中でも手を振り回し踊り始める人が出てきた。

やがて再びドラを叩く乗務員が現れ、17時定刻に出航するようだ。
船の汽笛が鳴ると、バンドの曲はマーチ風の蛍の光に変わった。
女性乗務員の音頭に合わせ乗客は「いってきま~す」と叫び手を振る。
すると桟橋の見物人も(見送り家族かもしれないが)、かなりの人が手を振ってこたえてくれた。
17:02
いつの間にか船が岸壁を離れ、間に海面が見えていた。
最近まで紙テープ(海水に溶けるもの)を投げていたようだが、いまは環境を配慮し、発光スティックを手渡される。これを音楽に合わせ、桟橋の見送り客に振り続けて出航する。
17:03
蛍の光マーチのあと、曲が「聖者が街にやってくる」になり、女性乗務員がリードして乗客はジェンカのように前の人の肩をもって列になって踊り始めた。

このまま船が離れないと間が抜けるのだが、割と早く桟橋を離れていった。
17:04

やがて、人々はワイングラスや発光スティックを返しながら、みな船内に入っていった。
私は部屋に戻らず、ベイブリッジをくぐる瞬間を見ようと12階のデッキに上がった。
1月11日の日没は16:47。もうすっかり暗い。
17:17
寒いから早くベイブリッジに行ってほしいと思うが、なかなか船は進まない。
17:19
と思ったら急に近づいた。
17:19
遠くの景色は動かないから船は遅いと思ったが、橋がすごい勢いで近づき、飛鳥はかなりのスピードで航行していることが分かった。

時速18ノットとすれば時速33キロメートル
ちなみに1ノットは時速1海里(=1.85km)
1海里は地球の円周を360度で割ってさらに60で割った距離(=1分)である。
40,000/360/60=1.85
17:20
通過する瞬間は船の構造物が橋に激突するのではないかと思うほど近かった。

部屋に戻るため外階段で11階におりた。
17:20
11階のプール「シーホース」
向こうの室内はカフェになっている。

次回は船内の様子を書く。


(追記 1月17日)
3回目の出航のときのSail Away Party
2025₋01₋13 16:42
ホットワインとシャンパンの準備
2025-01-13 16:50
シャボン玉発生器
2025-01-13 16:56
出航の合図

2025年1月13日月曜日

名古屋港から熱田神宮と古本の伏見書店へ

1月9日朝、クルーズ船「飛鳥II」が名古屋、金城ふ頭に入港した。
このふ頭は1960年代から埋め立てをはじめたらしい。金城(きんじょう)というのは、蓬左城(ほうさ)、金鯱城(きんこ)とともに名古屋城の別名の一つであり、そこから埠頭の名にしたのだろう。

このまま船内にいても映画や読書、お茶、スイーツなど十分楽しめるのだが、もう二度と名古屋は来ない気がして、市内に出ることにした。
とりあえずの目的地は熱田神宮。
2025₋01₋09 9:01
地上に降りると埠頭では観光協会の関係者だろうか、和太鼓で歓迎パフォーマンスをされていた。
救命ボートの下のオープンデッキで少数の乗客が見物していたが、ほとんどの乗客はせっかくのおもてなしに気づかなかったのではないか?
しかし、巨大な壁に向かって小さな点のような人々が(写真右下)けなげに太鼓をたたいているのは、何か景色としてバランスが悪かった。

最寄りのあおなみ線・金城ふ頭駅まで750メートル、11分なので、船から駅までの無料バスの発車は待たずに歩いた。
バスは、飛鳥が個人参加者の為に無料バスを何本か出すが、旅行業者のツアーで来た人は業者のチャーター観光バスがあるようだ。
9:06
少し歩き始めて飛鳥を振り返ると、
まさに動くホテル、巨大なビルである。

埋立地らしく、ひと気がなく倉庫と駐車場しかない殺風景な広い道路を行くと、金城ふ頭駅。
周辺には、ポートメッセという大きな国際展示場とリニア鉄道館があった。

あおなみ線も駅も2004年開業という。
9:16
金城ふ頭駅から来た道(西)を見ると停泊中の飛鳥がいた。

名古屋港について。
消費、生産の都市が海から離れている場合、必ずしも港が市域にあるとは限らない。
江戸時代の佐倉藩の外港が千葉、長岡藩の外港が新潟であったように、また、ロサンゼルスの外港がロングビーチであるように、名古屋の外港は1896年に築港工事が始まった熱田湾だった。1907年に熱田町、小磯村の一部が名古屋市に編入され、名古屋も海を持つようになり、熱田港を名古屋港に改称した。

名古屋港は、名古屋市、東海市、知多市、弥富市、飛島村の4市1村にまたがり、臨港地区の面積は日本最大。埠頭も名古屋地区に金城ふ頭など13、東海地区、飛鳥地区、知多地区に3つずつ9つ、弥富地区に2つ、ほかにポートアイランドがある。

そんなことで港から名古屋までは意外に遠かった。
9:53
名古屋駅に到着

9:28 金城ふ頭駅発、名古屋駅乗り換えで
10:11 熱田駅着
560円、43分。

熱田神宮は1995年3月末に来た。
日本生理学会(3/30-31)に参加したときだった。会場の名古屋大学東山キャンパスは造成中で、市営地下鉄名城線の名古屋大学駅(2003年開業)はまだなく、東山線本山駅が最寄り駅だった。
ちょうど宿が熱田神宮のそばだったから、夕方、学会終了後、急いで神宮を訪ねたのだった。

・・・
さて、30年ぶりのJR熱田駅はまったく覚えていない。
名大との往復は地下鉄の熱田神宮西駅だったからかもしれない。

熱田駅から西にすすむとすぐ大津通り(県道)に出る。
名古屋の道はどこも広い。
通りは神宮に面した片町になっていて、西は神宮の森が続き、東はアーケードの神宮前商店街だが、どの店もシャッターが下りていた。
10:17
神宮前商店街(左)と熱田神宮の森

30年前、宿に帰るとき古書店をのぞいて寝る前の本を探した。
その本屋がどこだったか。
10:19
成田書店。
古さは十分だが、剥げた看板は古書ではなく新刊とある。

歩いているうちに神宮の東入口があり、そこから境内に入った。
10:25
右に行くと勅使門だが、大鳥居のある東門のほうへ行く。
10:27
東門の大鳥居
10:28
人が多く、参道両脇に屋台が並ぶ。
そうだ、まだ世間は初詣の時期だったことに気づく。
正月は毎年200万人以上が訪れるらしい(名古屋市の人口は233万人)。
西門から入ってくるバスの団体客も目に付いた。

10:33
第二鳥居をくぐると、左に手水舎があった。
30年前を思い出す。
10:34
明治神宮もそうだが、最近はきれいで大きな説明パネルを作る神社も出てきた。
「熱田神宮は草薙剣を祀ってより1900年を迎えました~」で始まる。
もう神話などすっかり忘れている。この剣は静岡あたりでネズミが日本武尊に授けたのではなく、出雲でスサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチの尾から出て、それが天照大神に献上されたという。そうだった。
しかし年のせいか、パネルの続きは読む気がしなかった。

剣は天照大神の孫(ニニギノミコト、日向三代の初代、神武の曽祖父)と一緒に、他の神器とともに地上に降りた。しかし神器とともに暮らすのは恐れ多いということで崇神天皇の時代に形代が作られ、本物は伊勢神宮に移されたという。
景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かう甥のヤマトタケルにこの神剣(天叢雲剣)を与え、草薙剣の話が生まれる。
ヤマトタケルの死後、剣は伊勢神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀った。これが熱田神宮の起源である。

当然、社格は高く、延喜式の官幣大社(明神大社)である。延喜式は平安中期、養老律令に対する施行細則を集大成した古代法典であり、その神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座あった。

そこでは毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられ、さらに大社、小社に分けられた。すなわち、
 官幣大社 198社 304座
 国幣大社 155社 188座
 官幣小社 375社 433座
 国幣小社 2133社 2207座
官幣大社、国幣大社353社のうち200社余りは明神大社と言われた。

また、明治後の近代社格制度(官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社)でも熱田神宮はもちろん65社の官幣大社の一つであり、なかでも16社ある勅祭社の一つである。

しかし、なんといっても三種の神器の本体の一つを持ち、元日の早朝、宮中の四方拝で天皇によって遥拝される一社である。

(ちなみに、四方拝で拝されるのは、伊勢神宮、神武天皇陵・明治大正昭和三代の各陵、天神地祇(天孫降臨時代の天と地の神々の総称)、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)の神社、神々である。)

これほど格の高い熱田神宮でも尾張国三宮というのが面白い。
一之宮は一宮市の真清田神社(延喜式の明神大社だが、明治後は官幣中社)。二宮は犬山市の大縣神社(明神大社、明治後は国幣中社)である。
10:36
3つ目の鳥居をくぐると本殿が見えた。

再び30年前の春の夕方を思い出す。この日と違って誰もいなかった。
東門の大鳥居のあたりから私の前を歩く女性がいた。

参道の玉砂利の端を歩き、鳥居のたびに礼をしていた。
30代前半だろうか。
ついていくと、手水舎で浄めた後、本殿の前、参拝場所のいちばん端に立たれた。
そして紺のカーディガンを脱ぎ、きれいにたたんで置いたあと祝詞を上げ始めた。
10:40
本殿前はお賽銭の受け取りプールができていて、30年前に立った場所には近づけない。

10:40
30年前の夕方、他には誰もいなかったので、祝詞が終わって帰ろうとするところを話しかけた。すっかり暗くなっていたが、東門のそば、少し下がった土の道に並ぶ茶店の一軒であんみつを食べた(御汁粉だったかもしれない)。

「数年前から月一回、京都の○○先生の古事記の勉強会に通っていたんです。それ以来、毎日仕事が終わったら来ています。いったん始めたら習慣になってしまい、やめるきっかけがないんです。・・・・」と静かに笑った。

名刺を交換すると市内のトヨタの販売店に勤務されているようだったが、その後発展することはなかった。
10:40

本殿には近づけなかったので、今回、その茶店を探してみた。

わざわざ飛鳥IIを下船して来たのは、30年前の自分を思い出すためだった。
まだ30代だった。留学から帰ってきて半年、博士論文も提出し、新しい研究テーマを考え、明るい未来を思う日々だった。女性に声をかけられたのも、そうした解放感があったからかもしれない。
10:46
境内図には勅使門とあるが、熱田神宮宮庁、熱田神宮会館という表札がかかっていた。

境内をくまなく見たが、茶店はどこにもなかった。
本殿の東には1942年竣工の斎館、勅使館があり、その東に熱田神宮会館(結婚式場)があるが、当時はあったかどうか。その南は第一駐車場だった。

2,3軒あった茶店は駐車場か結婚式場か、あるいはこの立派な門になってしまったのだろうか。

再び手水場のほうまで坂を上がり、西門から出た。
10:52
国道22号線(熱田の国道1号と岐阜市の国道21号を結ぶ)に沿って熱田神宮の敷地の北の端まで歩いた。

30年前の宿はどこだったか、名前も分からないし、それらしい建物もなかった。
熱田神宮は南に伸びる岬の先端にあったらしく、坂を東におりた。
11:00
坂下のJR熱田駅前の交差点に出た。
電車に乗って帰ろうと思って信号を待っていたら
ふと、斜め北東に古書店があった。
11:02
伏見屋書店
外の景色は記憶にないが、中に入るとここだと思った。
しかしみると令和6年12月31日で閉店とある。
いまは令和7年正月だよな。
本棚もだいぶ空いている。

30年前、ここで何か買ったかどうかは忘れたが、根本曽代子著「日本の薬学 東京大学薬学部前史」を見つけ、立ち読みしたことを覚えている。
しかし迷った末、買わなかった。
その10年後の2005年、日本薬学会の会報誌「ファルマシア」の編集委員となり、「薬学昔々」の連載コラムを始めた。明治時代の薬学雑誌から面白い記事を見つけるコラム。このとき「日本の薬学~」を買っておけばよかったと大いに後悔し、熱田神宮の書店に電話しようと思ったほどだった。
しかしそのうち、東大薬学図書館で本書を見つけ、全頁をコピーしてしまい、また毎月の「薬学昔々」も9年続いて107話で終わり、その後、熱田神宮の古書店のことは忘れていた。
1960年代の小学6年生や少年マガジン、少年キング、白土三平や手塚治虫、本だけでなく天地真理のシングルレコードとか、お宝もいっぱいありそうだ。
珍しい本を見ている最中に老人男性が本を売りに来た。
袋から出したのは古くて汚れた百科事典が2,3冊。実家から出てきたのだという。彼は70代80代だから実家って、無人なのではなかろうか。

閉店でなくても古書店では絶対引き取らない本である。しかし、作業中だったオーナーらしき男性は優しく買い取れないことを言い聞かせていた。

老人が帰った後、店内を写真に撮っていいか聞きながら、いつから店があるか尋ねると、40年以上前からだという。
今後のことを聞くと、店をたたんでネット販売にするらしい。
しかしこれだけの本をリスト化するのは大変だろう。古い本ほど入力は手間取る。
11:20
1970年代からの時刻表など、欲しいものもあるが、もう終活の時期だから買うわけにいかない。「日本の薬学~」は見つからなかった。

伏見書店を辞し、熱田駅に入った。
11:30
JR東海道線は線路が何本も走り、熱田駅も大きく回送電車も止まっている。
しかし名古屋行きの電車は1時間に4本ほど。
名古屋城は数年前に行ってブログにも書いたし、名古屋は他に知識(記憶)もないので船に戻ることにした。
12:07
ガラガラのあおなみ線が埠頭に近づくと窓の外に大量の自動車が並んでいた。


12:07
名古屋港の総取扱貨物量は2002年から22年連続日本一という。
自動車輸出台数は1979年から44年連続で日本一である。

駅から船まで歩く途中、駐車場があった。名古屋自体が車社会だが、特に港湾地区で働くには車がないと不便である。駐車場は広く、車種はほとんどがトヨタであった。

船に帰って、美味しいごはんを食べて昼寝。
翌日10日は一日駿河湾、相模湾を行きつ戻りつしながら正月の富士山を堪能し、
11日朝、横浜に帰港する。

もう名古屋港も熱田神宮も二度と来ないだろう。

2025年1月9日木曜日

クルーズ船と海運会社の一覧

「65歳からの職探し」シリーズが中断休止したままである。
人手不足とは言うが、この年だとなかなか良いアルバイトはない。
飲食店は能力的に無理だと分かったし、事務職はフルタイムの求人が多いし、
楽な作業で週2,3日という仕事はなかなかない。

そんななか、クルーズ船「飛鳥II」でのダンス教師(補助)という仕事があった。
1年半前の2023年7月、競技選手の先輩のIさんに紹介され、元締めのT先生のところで面接、合格した。

しかし10月21日~26日のクルージングは、水戸での講演が重なり行けなかった。
また飛鳥IIが(ディーゼルエンジンで発電し、電力でも進むハイブリッド船であり)12月から変圧器をすべて交換するため3か月間ドック入りした。そのため私の出番は、2024年が明けてからの世界1周クルージングからとなった。
豪華客船で3か月半、お一人様850万円の部屋にとまり、一般客と同じ食事、船内エンターテインメントなどを楽しみ、世界各地で上陸できるという内容だが、103日間も日本に帰ってこれないという長さに躊躇した。
ときに長野の母が何時亡くなるか分からず、弟夫婦に介護、面倒を見てもらっている立場で、とても仕事とは思えない能天気なクルージングに出かけるわけにいかない。

そんなことで断り、この仕事は忘れていた。
それが母が亡くなり、2024年も春になって夏になって、丸1年経った8月、連絡を頂いた。
長いのは困るが、今度は2025年1月の国内の短期間のツアーのどれかに乗ってほしいというので引き受けた。

飛鳥IIスケジュール 2024年末~2025年1月

ツアーは2泊3日からあるが、飛鳥自体の年間日程はタイトである。
各クルーズは横浜に朝9:00入港、その日の夕方17:00出航と忙しい。
飛鳥が港に一泊できるのは、1月だと5日と18日の夜の2日だけ。働きづめの船だ。

ところで、私はもちろんクルーズ旅などしたことない。
縁がない。
そもそもクルーズという単語だって違う意味で覚えていた。
戦艦がbattleshipに対し、巡洋艦がcruiser。
殴り合いのけんかのような大砲撃ち合いの海戦で生き残ることを目指した戦艦に対し、植民地と本国を往復する商船を護衛するのが目的だった巡洋艦は、大砲の大きさ、装甲の厚さを犠牲にしても、航続距離、速力を優先した。
だからクルーズという言葉は、外洋を遠くまで快適に巡行するという意味かと思っていた。またダンスのサンバでのっしのっしと大股で進むステップがクルーザード・ウォークというのも、この意味にあっている。
(もっとも、巡洋艦のcruiseは、ジグザグ航行するところからラテン語のcrux(十字架)から来たらしい)

もちろん今は「クルーズ」とは海賊や海軍が獲物を求めてジグザグ航行するとか、大洋を横断する(クロスする)という意味ではなく、「特に航海日程を決めないレジャー目的の船旅」という意味で使われている。これには「豪華」という意味も乗っかっているだろう。

横浜港大さん橋のグーグル鳥観写真
(撮影日は不明だが、閲覧は2025₋01₋06)
ちょうど2隻のクルーズ船、飛鳥II(向こう)とにっぽん丸(手前)が停泊中。

遠距離移動が飛行機になってしまった現代、船旅は目的地への移動ではなく、船上での滞在を楽しむものになった。
自分には縁がなくても、世の中はどのくらいの人が楽しんでいるかというと、国土交通省の調査、資料がある。

海外あるいは国内でクルーズを楽しむ日本人(国土交通省、2024)


日本人のクルーズ人口(船内1泊以上のクルーズを利用した日本人乗客数)は、20万人前後であったが、2017年に30万人を超え、コロナ前の2019年は35万人であった。これは海外で1泊以上する外航クルーズが23.8万人、国内クルーズが11.8万人の合計である。

国内クルーズは1989年以来、10万人前後であまり変わっていないが(グラフ赤色)、海外までいく外航クルーズは増えている。その中で日本の運営会社の船(グラフ黄緑)は4万人程度だったのが8千人に減少し、海外の船によるツアーが2万人から23万人に急増している(グラフ青色)。

(いっぽう訪日クルーズ外国人は中国からの博多長崎訪問を中心として215万人を数えた。)


2023年の外航クルーズは、日本の会社がわずかに3,200人、この行き先は香港、プサン、台北あたりだろう。これらのアジアの港まで連れて行くのもほとんど(12万人)海外のクルーズ船である。また、世界一周は年間3,800人ほど(2023年)。全て海外クルーズ会社の船のようだが、2024年から飛鳥IIも参入する。

さて、香港、プサンまで足を延ばす外航クルーズが23.8万人、国内だけのクルーズが11.8万人(2019年)というのがどういう数なのか、今一つぴんと来ない。
むしろ具体的なクルーズ船の規模を見たほうが良いかもしれない。
我が国の船会社が運航する外航クルーズ船(国土交通省、2013年現在)

上の表でのふじ丸は、商船三井が所有し、同社の子会社、日本チャータークルーズ(株)が運営していた。わが国のクルーズ客船の嚆矢として三菱重工業神戸造船所で建造、1989年4月に就航した。当時、日本籍で最大の客船であったが、2013年に引退した。

日本クルーズ客船(株)のぱしふぃっくびーなすは、1998年に就航、日本籍では2番目に大きな船で世界一周クルーズも実施していたが、コロナで運休が続いたあと、2023年1月、引退した。

また、クリスタル・クルーズ社は、日本郵船全額出資の米国子会社でロサンゼルスに本拠を置き、クリスタルシンフォニー、クリスタルセレニティを海外で運行している。

すなわち、2013年から日本の会社が運営するクルーズ船で現存するのは、日本郵船の飛鳥IIと商船三井のにっぽん丸の2隻である。総トン数は5万トンと2万2千トン。

クルーザー(巡洋艦)と大きさと比較してみる。
商船や客船の総トン数は船の体積をもとにした値であり、軍艦のトン数と少しちがうが、基準排水量(燃料と水を引いた重さ)だと、旧海軍の高雄型重巡洋艦が9,850トン(改装後1万2千トンくらい)、巡洋戦艦の金剛型が26,330トン、航空母艦の飛竜が17,300トン(満載時21,887トン)、瑞鶴が25,675トン(満載時32,105トン)。ニミッツ型原子力空母は基準排水量74,086トンである。

また、飛鳥II、にっぽん丸の速力は、21ノット、18ノットだが、巡洋艦が高雄で34.2ノット、巡洋戦艦金剛で30.4ノット、昔の航空母艦はカタパルト発射でなかったから艦載機を出すときは風上に向かって全速で走った。速力は飛竜、瑞鶴とも34ノットだった。

いまのクルーズ船は昔のクルーザーとちがい、船体ははるかに大きいが、速力は著しく遅いということがいえる。

国土交通省の資料は日本籍のクルーズ船しか扱っていないので、消費者の目線の最新のクルーズ船を見てみた。

豪華客船・クルーズ専門旅行会社「クルーズプラネット」(HISグループ)のホームページを見ると、日本籍、外国籍の各クルーズ船と商品が乗っている。

国内のクルーズ船は2024年現在5隻。

1.飛鳥II 2006年就航 50,444トン 乗客872人
2.にっぽん丸 1990年 22,472トン 532人 
3.ガンツウ 2017年。3,200トン、38人。
4.MITSUI OCEAN FUJI 2024年 32,477トン 458人
5.パシフィック・ワールド 2021年 77,441トン 1,950人(最大 2,250名)

パシフィックワールド号(世界一周)を除くと4隻併せて乗客定員は2000人行かない。
それでも飛鳥で見ると、2泊3日の横浜出入港のジャズフェスティバルから、103日間の世界一周旅行まで、年間全部で33回のクルーズがある。乗客定員が872人だから毎回満室なら28,776人。4社合わせると国内業者、国内ツアーは10万人に行くのかもしれない。

ちなみに、
1.飛鳥IIは、1990年6月、日本郵船の子会社クリスタル・クルーズの「クリスタル・ハーモニー」(バハマ船籍)として三菱重工長崎で竣工した。その後2006年1月、グループ会社の郵船クルーズが本船を買い取り日本市場向けに改装、飛鳥IIとした。同時に飛鳥(1991年竣工、28,856トン、604名)はドイツの会社に売却された。

2.にっぽん丸は、商船三井クルーズの船で、内閣府の青年国際交流事業「世界青年の船」と「東南アジア青年の船」でも使用されている。初代は1958年竣工、現在の3代目は1990年に三菱重工神戸で竣工。

3.ガンツウは、常石ホールディングス傘下のせとうちクルーズが運航するクルーズ客船。尾道を発着港として、瀬戸内海を周遊。瀬戸内の集落に見られる切妻屋根を模して設計された船体は、船名(イシガニの備後地方における方言)とともに、クルーズ客船のイメージから大きく違っている。

4.MITSUI OCEAN FUJIも商船三井クルーズの船である。
2009年6月、イタリアのシーボーン・オデッセイ号としてT.マリオッティ造船所で竣工。
2023年、商船三井がクルーズ事業を拡大するため購入、新ブランド「MITSUI OCEAN CRUISES」と合わせて新船名は「MITSUI OCEAN FUJI」とした。
この船名は、富士山だけでなく、日本の近代的なクルーズ客船の先駆けとなった「ふじ丸」(1989年三菱重工神戸で竣工、23340トン、商船三井と日本クルーズ客船が共同運航、2013年引退)を意識したものという。

5.パシフィック・ワールドは、ピースボート(世界一周クルーズ)を企画実施しているジャパングレイス社(本社東京)が2021年春からチャーターしているもの。世界一周を年3回おこなっている。この船はもともとプリンセス・クルーズ社(本社米国)が運行していたサン・プリンセス号(1995年竣工)である。2013年から日本に投入され、2014年はダイヤモンド・プリンセス号と合わせて2隻体制で日本発着クルーズを40回以上展開したが、のち撤退した。

この5隻の他に、日本では以下の外国籍のクルーズ船も、9隻就航している。
ちなみに、クルーズ船は、サービス(価格)により、便宜上以下の3つのクラスに分けられる。
1.カジュアル US$100~350/泊 
2.プレミアム US$150~400/泊
3.ラグジュアリー US$400~1,000/泊。
いずれも二人部屋を二人で使用したときの一人当たり料金。
3食、娯楽付きであるから豪華ホテルより安いといえる。


1.ダイヤモンド・プリンセス
2.コスタ・セレーナ
3.ノルウェージャン・スピリット
4.MSCベリッシマ
5.セレブリティ・ミレニアム
6.バイキング・エデン
7.クイーン・エリザベス
8.ウェステルダム
9.ノールダム

このうち一番有名なのはダイヤモンド・プリンセスだろう。
115,875トン、乗客定員2706人。2020年2月、まだコロナが得体のしれないころ、乗客に患者が発生、横浜への入港を拒否され、連日テレビに出た。
イギリスP&Oクルーズ社が所有しアメリカのプリンセス・クルーズ社によって運航されている。この船はたまたま日本に来航していたわけではなく、1年を通して日本近海で(冬季のみはオーストラリアで)営業している。

他の外国籍船も日本の港から出て日本の港に帰ってくる。
例えばバイキング・エデン(48,000トン、930名)は那覇発着で厦門までいく7日間のツアーは一人29万から84万円である。

MSCベリッシマは171,598 トン、旅客定員4,418名(最大 5,686名)、イタリアの巨船。今まで日本に来たクルーズ船で最大だが、公式サイトを見ると2025年は国内各地発着のクルーズがいっぱいある。

一般に海外のクルーズ船は巨大でその分コストを抑え、大衆的になっている。
大きさを比較した図があった。

国土交通省港湾局の資料から(2024)
https://www.mlit.go.jp/kowan/content/001744972.pdf

どれを見てもずんぐりしていて軍艦とは違って、攻撃されたら簡単に沈没しそうだ。
世界最大のアイコン・オブ・ザ・シーズは20階建て、25万トンもあり、ロイヤル・カリビアン・インターナショナルが運航する。乗客乗員を合わせると最大で1万人、「海の上の超巨大テーマパーク」といわれる。

ところで、飛鳥II、にっぽん丸とも、実は今回乗る前から知っていた。
というのは、日本郵船と商船三井の株を持っていて、株主優待としてクルーズの割引券が届くからだ。(もちろん行く気も興味もないから捨てていた)
この機会に商船会社(海運会社ともいう)のこともまとめておく。
業界としては海運業界という。

国内の5大会社は
       創業  売上高  営業利益 (百万円)連結従業員数
1位 日本郵船 1885   2,387,240 174,679 35,165
2位 商船三井 1884   1,627,912 103,132 9,795
3位 川崎汽船 1919    962,300  84,763 5,629
4位 NSユナイテッド海運 1950  233,100  21,601 618
5位 飯野海運 1899   137,950  19,063 680

業界トップの日本郵船は岩崎弥太郎がはじめた汽船廻漕業・九十九商会を源流とし、これがのちに三菱財閥に発展するから、いまも三菱グループの中核企業である。
明治初期、わが国の海運を二分した郵便汽船三菱会社と三井系国策会社の共同運輸会社がともに赤字となったため、1885年(明治18年)、政府の仲介で合併、日本郵船会社が設立された。
現在、国内・海外の350以上の港へ684隻が乗り入れており、連結売上高で世界2位である。
クルーズ船は飛鳥IIを保有し、2025年中に飛鳥IIIを投入する。

商船三井は、1964年、三井物産の商船部門から1942年に独立した三井船舶が、1884年(明治17年)創立の大阪商船と合併したもの。
過去にふじ丸を保有、現在にっぽん丸とOCEAN MITSUI FUJIを保有。

業界3位の川崎汽船は1919年、川崎造船所(現・川崎重工業)の船舶部が独立したもの。第二代社長は、先日、西洋美術館のブログで書いた松方幸次郎である。クルーズ事業は、過去にソング・オブ・フラワー号を持っていたが撤退した。

海運業は戦争、為替などの国際情勢で景気が左右されやすいため、大手三社は多角化の一環としてクルーズ事業に力を入れたが、バブル崩壊、コロナ禍に加え、近年は外国資本のクルーズ船の参入によって、国内企業としては簡単ではないようだ。