1月9日朝、クルーズ船「飛鳥II」が名古屋、金城ふ頭に入港した。
このふ頭は1960年代から埋め立てをはじめたらしい。金城(きんじょう)というのは、蓬左城(ほうさ)、金鯱城(きんこ)とともに名古屋城の別名の一つであり、そこから埠頭の名にしたのだろう。
このまま船内にいても映画や読書、お茶、スイーツなど十分楽しめるのだが、もう二度と名古屋は来ない気がして、市内に出ることにした。
とりあえずの目的地は熱田神宮。
2025₋01₋09 9:01
地上に降りると埠頭では観光協会の関係者だろうか、和太鼓で歓迎パフォーマンスをされていた。
救命ボートの下のオープンデッキで少数の乗客が見物していたが、ほとんどの乗客はせっかくのおもてなしに気づかなかったのではないか?
しかし、巨大な壁に向かって小さな点のような人々が(写真右下)けなげに太鼓をたたいているのは、何か景色としてバランスが悪かった。
最寄りのあおなみ線・金城ふ頭駅まで750メートル、11分なので、船から駅までの無料バスの発車は待たずに歩いた。
バスは、飛鳥が個人参加者の為に無料バスを何本か出すが、旅行業者のツアーで来た人は業者のチャーター観光バスがあるようだ。
埋立地らしく、ひと気がなく倉庫と駐車場しかない殺風景な広い道路を行くと、金城ふ頭駅。
周辺には、ポートメッセという大きな国際展示場とリニア鉄道館があった。
あおなみ線も駅も2004年開業という。
9:16
金城ふ頭駅から来た道(西)を見ると停泊中の飛鳥がいた。
名古屋港について。
消費、生産の都市が海から離れている場合、必ずしも港が市域にあるとは限らない。
江戸時代の佐倉藩の外港が千葉、長岡藩の外港が新潟であったように、また、ロサンゼルスの外港がロングビーチであるように、名古屋の外港は1896年に築港工事が始まった熱田湾だった。1907年に熱田町、小磯村の一部が名古屋市に編入され、名古屋も海を持つようになり、熱田港を名古屋港に改称した。
名古屋港は、名古屋市、東海市、知多市、弥富市、飛島村の4市1村にまたがり、臨港地区の面積は日本最大。埠頭も名古屋地区に金城ふ頭など13、東海地区、飛鳥地区、知多地区に3つずつ9つ、弥富地区に2つ、ほかにポートアイランドがある。
そんなことで港から名古屋までは意外に遠かった。
9:53
名古屋駅に到着
9:28 金城ふ頭駅発、名古屋駅乗り換えで
10:11 熱田駅着
560円、43分。
熱田神宮は1995年3月末に来た。
日本生理学会(3/30-31)に参加したときだった。会場の名古屋大学東山キャンパスは造成中で、市営地下鉄名城線の名古屋大学駅(2003年開業)はまだなく、東山線本山駅が最寄り駅だった。
ちょうど宿が熱田神宮のそばだったから、夕方、学会終了後、急いで神宮を訪ねたのだった。
・・・
さて、30年ぶりのJR熱田駅はまったく覚えていない。
名大との往復は地下鉄の熱田神宮西駅だったからかもしれない。
熱田駅から西にすすむとすぐ大津通り(県道)に出る。
名古屋の道はどこも広い。
通りは神宮に面した片町になっていて、西は神宮の森が続き、東はアーケードの神宮前商店街だが、どの店もシャッターが下りていた。
歩いているうちに神宮の東入口があり、そこから境内に入った。
10:25
右に行くと勅使門だが、大鳥居のある東門のほうへ行く。
10:27
東門の大鳥居
10:28
人が多く、参道両脇に屋台が並ぶ。
そうだ、まだ世間は初詣の時期だったことに気づく。
正月は毎年200万人以上が訪れるらしい(名古屋市の人口は233万人)。
西門から入ってくるバスの団体客も目に付いた。
10:33
第二鳥居をくぐると、左に手水舎があった。
30年前を思い出す。
10:34
明治神宮もそうだが、最近はきれいで大きな説明パネルを作る神社も出てきた。
「熱田神宮は草薙剣を祀ってより1900年を迎えました~」で始まる。
もう神話などすっかり忘れている。この剣は静岡あたりでネズミが日本武尊に授けたのではなく、出雲でスサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチの尾から出て、それが天照大神に献上されたという。そうだった。
しかし年のせいか、パネルの続きは読む気がしなかった。
剣は天照大神の孫(ニニギノミコト、日向三代の初代、神武の曽祖父)と一緒に、他の神器とともに地上に降りた。しかし神器とともに暮らすのは恐れ多いということで崇神天皇の時代に形代が作られ、本物は伊勢神宮に移されたという。
景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かう甥のヤマトタケルにこの神剣(天叢雲剣)を与え、草薙剣の話が生まれる。
ヤマトタケルの死後、剣は伊勢神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀った。これが熱田神宮の起源である。
当然、社格は高く、延喜式の官幣大社(明神大社)である。延喜式は平安中期、養老律令に対する施行細則を集大成した古代法典であり、その神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座あった。
そこでは毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられ、さらに大社、小社に分けられた。すなわち、
官幣大社 198社 304座
国幣大社 155社 188座
官幣小社 375社 433座
国幣小社 2133社 2207座
官幣大社、国幣大社353社のうち200社余りは明神大社と言われた。
また、明治後の近代社格制度(官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社)でも熱田神宮はもちろん65社の官幣大社の一つであり、なかでも16社ある勅祭社の一つである。
しかし、なんといっても三種の神器の本体の一つを持ち、元日の早朝、宮中の四方拝で天皇によって遥拝される一社である。
(ちなみに、四方拝で拝されるのは、伊勢神宮、神武天皇陵・明治大正昭和三代の各陵、天神地祇(天孫降臨時代の天と地の神々の総称)、武蔵国一宮(氷川神社)、山城国一宮(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)、石清水八幡宮、熱田神宮、常陸国一宮(鹿島神宮)、下総国一宮(香取神宮)の神社、神々である。)
これほど格の高い熱田神宮でも尾張国三宮というのが面白い。
一之宮は一宮市の真清田神社(延喜式の明神大社だが、明治後は官幣中社)。二宮は犬山市の大縣神社(明神大社、明治後は国幣中社)である。
再び30年前の春の夕方を思い出す。この日と違って誰もいなかった。
東門の大鳥居のあたりから私の前を歩く女性がいた。
参道の玉砂利の端を歩き、鳥居のたびに礼をしていた。
30代前半だろうか。
ついていくと、手水舎で浄めた後、本殿の前、参拝場所のいちばん端に立たれた。
そして紺のカーディガンを脱ぎ、きれいにたたんで置いたあと祝詞を上げ始めた。
10:40
本殿前はお賽銭の受け取りプールができていて、30年前に立った場所には近づけない。
10:40
30年前の夕方、他には誰もいなかったので、祝詞が終わって帰ろうとするところを話しかけた。すっかり暗くなっていたが、東門のそば、少し下がった土の道に並ぶ茶店の一軒であんみつを食べた(御汁粉だったかもしれない)。
「数年前から月一回、京都の○○先生の古事記の勉強会に通っていたんです。それ以来、毎日仕事が終わったら来ています。いったん始めたら習慣になってしまい、やめるきっかけがないんです。・・・・」と静かに笑った。
名刺を交換すると市内のトヨタの販売店に勤務されているようだったが、その後発展することはなかった。
10:40
本殿には近づけなかったので、今回、その茶店を探してみた。
わざわざ飛鳥IIを下船して来たのは、30年前の自分を思い出すためだった。
まだ30代だった。留学から帰ってきて半年、博士論文も提出し、新しい研究テーマを考え、明るい未来を思う日々だった。女性に声をかけられたのも、そうした解放感があったからかもしれない。
境内をくまなく見たが、茶店はどこにもなかった。
本殿の東には1942年竣工の斎館、勅使館があり、その東に熱田神宮会館(結婚式場)があるが、当時はあったかどうか。その南は第一駐車場だった。
2,3軒あった茶店は駐車場か結婚式場か、あるいはこの立派な門になってしまったのだろうか。
再び手水場のほうまで坂を上がり、西門から出た。
国道22号線(熱田の国道1号と岐阜市の国道21号を結ぶ)に沿って熱田神宮の敷地の北の端まで歩いた。
30年前の宿はどこだったか、名前も分からないし、それらしい建物もなかった。
熱田神宮は南に伸びる岬の先端にあったらしく、坂を東におりた。
11:02
伏見屋書店
外の景色は記憶にないが、中に入るとここだと思った。しかしみると令和6年12月31日で閉店とある。
いまは令和7年正月だよな。
本棚もだいぶ空いている。
30年前、ここで何か買ったかどうかは忘れたが、根本曽代子著「日本の薬学 東京大学薬学部前史」を見つけ、立ち読みしたことを覚えている。
しかし迷った末、買わなかった。
その10年後の2005年、日本薬学会の会報誌「ファルマシア」の編集委員となり、「薬学昔々」の連載コラムを始めた。明治時代の薬学雑誌から面白い記事を見つけるコラム。このとき「日本の薬学~」を買っておけばよかったと大いに後悔し、熱田神宮の書店に電話しようと思ったほどだった。
しかしそのうち、東大薬学図書館で本書を見つけ、全頁をコピーしてしまい、また毎月の「薬学昔々」も9年続いて107話で終わり、その後、熱田神宮の古書店のことは忘れていた。
1960年代の小学6年生や少年マガジン、少年キング、白土三平や手塚治虫、本だけでなく天地真理のシングルレコードとか、お宝もいっぱいありそうだ。
珍しい本を見ている最中に老人男性が本を売りに来た。
袋から出したのは古くて汚れた百科事典が2,3冊。実家から出てきたのだという。彼は70代80代だから実家って、無人なのではなかろうか。
閉店でなくても古書店では絶対引き取らない本である。しかし、作業中だったオーナーらしき男性は優しく買い取れないことを言い聞かせていた。
老人が帰った後、店内を写真に撮っていいか聞きながら、いつから店があるか尋ねると、40年以上前からだという。
今後のことを聞くと、店をたたんでネット販売にするらしい。
しかしこれだけの本をリスト化するのは大変だろう。古い本ほど入力は手間取る。
JR東海道線は線路が何本も走り、熱田駅も大きく回送電車も止まっている。
しかし名古屋行きの電車は1時間に4本ほど。
名古屋城は数年前に行ってブログにも書いたし、名古屋は他に知識(記憶)もないので船に戻ることにした。
12:07
ガラガラのあおなみ線が埠頭に近づくと窓の外に大量の自動車が並んでいた。
12:07
名古屋港の総取扱貨物量は2002年から22年連続日本一という。
自動車輸出台数は1979年から44年連続で日本一である。
駅から船まで歩く途中、駐車場があった。名古屋自体が車社会だが、特に港湾地区で働くには車がないと不便である。駐車場は広く、車種はほとんどがトヨタであった。
船に帰って、美味しいごはんを食べて昼寝。
翌日10日は一日駿河湾、相模湾を行きつ戻りつしながら正月の富士山を堪能し、
11日朝、横浜に帰港する。
もう名古屋港も熱田神宮も二度と来ないだろう。
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