2020年2月19日水曜日

スモンの謎3 中止後の発症激減

スモン協議会はキノホルム服用率の調査を2回行った。
1回目は、45年9月開始、18班員の890例
2回目は、46年7月開始、18班員含む全国医師から2456例

2回目は、グリーンブックNo8(昭和47年2月発表)に載っている。
 ・確実になし     269
 ・無いらしいが不確実 189
 ・あり        1381
 ・使用状況不明    617
 合計        2456

「確実になし」と「ないらしいが不確実」を入れると、458人、使用状況不明を除いた1839人のうち、24.9%になる。
それでも例数の多さから、1回目とほぼ同じ結果とし、協議会側は自信を深めて発表した。

しかしイギリスのMeadから、全患者9249名から確実な患者として5839名を選び、さらに「服薬状況の明らかな」2456名を調査したという操作に批判を受けると、重松班長は
「あれは精度が低いので890例の方を使うべき」と述べた。(文献1,p254)

単なる服用率だけでは対照群がないから不十分だと批判されると、昭和45年9月8日のキノホルム販売中止という行政措置のあと、スモン患者が激減したことこそ「動かぬ証拠」とする。
文献7
確かにキノホルム禁止後に激減している。
確実に服用なしの15%分まで消えてしまったのは、減りすぎだが。

スモン協議会の公式報告書を見てみる。
なお、報告書の結論は、
「行政措置は、疫学的にいって全国規模で行われた一種のProspective study であるが、その結果スモン患者の発生は激減した。(下図参照)このことはキノホルム剤がスモンの発生と直接あるいは間接に関係あることを意味している・・・」
グリーンブック No8 p2(要約)
よく見ると前年44年秋から理論推定値よりも新規患者発生が減り始め、バラつき下限2シグマあたりを推移している。そしてキノホルムが自由に処方されていたにもかかわらず、45年6月から2シグマを下回り、例年なら流行する7,8月は明らかに少ないのである。

もっと重要なことは、なるほど全国的に見ると発生は増加を続け、キノホルム禁止後に激減したが、地域的に見ると、各地ともキノホルムに関係なく急に発生、その後激減している。

例えば、釧路地方では昭和33年に1例あり、段階的に増加、昭和37年に一度ピーク(20例)があって、減少したあと40年に最多26例の発症を見、その後急速に減少、43年2例、44年1例、45年は7月までに4例を見たが、その後1例も発生していない。(グリーンブック、No2 伊東弓多果 p3)

戸田、蕨では昭和39年に大量発生、翌年は6分の1に激減、以降は散発した。
グリーンブック No8  p167(山本俊一)

また岡山県井原地区では昭和41年から発生数が急増し、キノホルム販売停止の1年ほど前から発病が減った。このことについて朝日新聞(昭和46年6月16日)は、A医師が41年1月に井原市民病院に勤務し始めキノホルムを乱用、45年1月に退職したせいであると報じた。
しかし、患者発生はA医師の退職前から減少していたこと、乱用はない、などA医師(高木医師)、岡山大第一内科、井原市民病院の関係者らは、6月18日朝日を相手に「事実と反する」と公開質問状を出し、ねつ造偏向報道を批判した。その内容は7月10日付の岡山県医師会報353号にあるらしい(文献1、p208)。

すなわち各地でのスモン発生は一時的で、キノホルムの使用禁止前にもかかわらず、終息したのである。国内で新規患者がどんどん増加したのは発生地点がどんどん広がったことによる。45年9月の急激な減少は、全国に広がった発生が、初期の発生地点と同じように、一斉に終息した結果であるとも考えられる。

感染病などはこれと全く同じ流行、終息パターンを示す。

キノホルム説は大きな矛盾があったから、協議会の中でも反対意見があった。
しかし甲野礼作会長は45年度報告(文献3、No2-4、46年3月)の序文の中で

「スモンの病因究明に対する多くの有力な手掛かりが、昭和45年度の研究から生まれて来た。この網にかかった最も大きな魚はキノホルムであるといえよう。(略)もとより現時点においてはキノホルムを原因と断定するのは時期尚早ではあるが、スモン発症に対する影響はもはや何人も否定できないと思われる」と書いた。

その後、東大神経内科とその関係者を中心としてキノホルム説を進めていく。
彼らが発表する証拠、論文の問題点については後で述べる。
ちなみにスモン協議会は64人もいたが、会長、班長、幹事の多くは東大医学部出身であった。

最後に一つ、キノホルム処方件数が患者発生と並行しているとしたグラフ。
証拠として挙げられたグラフは一見一致しているように見えるが、棒グラフと折れ線にして、たくみにずらしていた。
文献1 p56
田辺は両方とも棒グラフに書き換え、一致しないではないかと反論、控訴したが、裁判遅延策であると日本中の非難を浴びた。

この少し前の、記憶に新しかったであろうサリドマイドは、
1957年10月1日  グリューネンタール社がコンテルガンの商品名で発売。
1961年11月18日  ウィドゥキント・レンツが催奇性を学会で報告。
   11月26日   グリュネンタール社が製品の回収を開始。
1962年5月17日  大日本製薬が製品の出荷停止。
   9月18日  販売停止と製品の回収を開始(ドイツでの回収開始から294日後)

アメリカでは1960年9月に販売許可の申請があったがFDAの審査官フランシス・ケルシーがその安全性に疑問を抱き審査継続を行ったため、治験段階で数名の被害者を出しただけだった。

一方、日本ではこのときの当局の遅れが問題になったこともあり、キノホルムに対する厚生省の対応は非常に早かった。
この速さが、キノホルム説の弱さにもなり(減少が禁止のせいか自然現象かどうか確実ではなくなった)、裁判が長引く原因となった。

文献3 スモン調査研究協議会研究報告書
昭和48年から平成7年まで東大医学部図書館にあった。
それ以前はグリーンブックと呼ばれ本駒込の日本医師会図書館にある。

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980
7.薬害スモン全史(1~3) スモンの会全国連絡協議会編、1981

なお、書く人によって内容は著しく異なる。
3~5は権威者側の記録、総説、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。7は患者、支援者側の記録
3~6はネットで読める。(ただし3はNo1~No6)


別ブログ
20200215 スモンの謎2 キノホルム服用率85%
20200214 スモンの謎1キノホルム説の登場


千駄木菜園 総目次

2020年2月15日土曜日

スモンの謎2 キノホルム服用率85%

「スモン患者の85%がみそ汁を飲んでいた。だから味噌汁が原因である。」
権威者とマスコミ、裁判所は、これと同じ結論を下したのである。

前回、
「スモン患者の85%がキノホルムを飲んでいる」
という結論のもととなった調査が誤り(もしくは故意?)であると書いた。

100歩譲って、結果と原因を一緒にしているという根本的な誤りに目をつぶり、
服用率85%が正しいとして、なお3つの初歩的な問題がある。

1つは、
スモン協議会の権威者たちや原告は、キノホルム服用率の85%は、サリドマイドの服用率80%と比べても高く、文句なしとした。

しかし、サリドマイドは
・障害児を生んだ母親の服用率が 80.4%
・健康児を生んだ母親の服用率が  1.8%
という、この大きな差で犯人とされたのである。

だから、長期にわたる激しい下痢をして、
・スモンになった人のキノホルム服用率 85%
・スモンにならなかった人のキノホルム服用率 ?
を比較しなくてはならない。

このデータがあったのである。
国立呉病院第一内科 大村一郎 グリーンブック No2 p60 (1971)

すなわち、昭和43年に当院の内科を受診した7496人のうち、
 スモン患者のキノホルム服用率 76%(107人中82人)
 下痢患者のキノホルム服用率  73%(119人中87人)

で、スモン協議会の臨床班員である大村は、
「有意な差を認められないことから考え、キノホルムに毒性があるとするならば、SMONを発病した個体側あるいはもう一つ何かの因子が組み合わされる必要があり、その因子も重大な役割をしているのではないかと想像する」
と結論した。

これは権威者が集まったスモン協議会の公式報告書である。
何故か無視されおり(当然か?)、批判的な文献1,疑問点を説明する文献2にもなかった。私も今回調べているうちに初めて知った。

「スモン患者の85%がみそ汁を飲んでいた。だから味噌汁が原因である。」

権威者とマスコミ、裁判所は、これと同じ結論を下したのである。


2つ目は、
キノホルムを飲まなかったスモン患者が15%いることである。
これは早くからスモン協議会でも反対派のあいだでも問題になった。

飲んでいるが把握できなかったのではない。
アンケートでは890人のうち、
  あり   610
  確実になし 110
  ないらしいが不確実 22
  不明 148
で、不明の148人を除いた、
  アリが、82.2%
  確実になしが 14.8%
  「ないらしい」をいれれば 17.8%である。

いったい、結核菌に感染していない結核患者が15%もいるだろうか?
HIVに感染していないエイズ患者が15%いるだろうか?
考えられるのは、
 1.キノホルムが犯人ではない
 2.スモンでない神経疾患が15%混じっている。
どちらかしかない。

1970年9月8日のキノホルムの販売禁止という行政措置の後、一気に患者がゼロまで激減するのだが、この15%分も消えてしまうのである。
すなわち、スモン患者が出ても、9月8日以降はスモンと届けなかったことを意味する。

3つ目は、統計処理の問題である。

890例は、18人のスモン協議会の班員が集めた。
ところが、キノホルム服用率は班員によってばらばらである。
(グリーンブック No2 p261)
非服用者(確実になし)は 
 椿忠雄 35人中 ゼロ
 伊東弓多果 28人中 ゼロ
 藤原哲司 62人中 ゼロ
ところが
 小坂淳夫 29人中 19(66%)
 杉山尚  19人中 7(37%)
 大村一郎 135人中 43(32%)

班員によってこれだけ違うものは施設によるバラつきではなく、同じ現象を見ているとみなさない。
だから合計して解析、85%という数字は出せない。人間と犬を混ぜて平均寿命を見るようなものだ。

なぜ、こんな差が出たかというと
調査票の
「キノホルム剤服用調査票」というタイトルと、そのすぐ下の注意書き「確実なスモン患者で、発病前後の服薬状況の明らかなものを対象とする。従って、できれば貴施設の自験例であることが望ましい」
に引きずられ、キノホルム服用者だけ集めた班員がいたのではないか?

また昭和46年全国の医師に送ったキノホルム服用率の調査票も
「確実なスモン患者で発病前後のキノホルム剤の服用状況が明らかなものの」
(グリーンブックNo8,p89)
としていたら、新聞でスモン=キノホルム原因説で騒がれている状況では、確実に飲んでいない患者の報告をためらう医師もいたのではなかろうか。

また、田辺製薬の解析室長・朝尾正は、スモン協議会報告書を読みこみ、班員の把握するスモン患者数を抽出した。すると平木班員以外、ほとんどの班員はごく一部しか報告しなかった。
 椿 55人中33人
 杉山 190人中20人
 豊倉 398人中60人
この選択基準は何か?
服薬状況のはっきりしている者に限ったというなら、調査票の服薬状況「不明」「ないらしいが不確実」が出てくるのはなぜか?

自説に都合のいいように患者を選んだと言われても仕方がない。

(続く)

参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するものだが原告寄り。

日本医師会図書館(本駒込)
公式報告書である文献3は、色からグリーンブックと言われた。
昭和47年度からは厚生省特定疾患スモン調査研究班研究業績となり、ベージュとなった。

スモン調査研究協議会研究報告書(グリーンブック) 
No1 昭和44年度疫学班 45年11月 
No2 昭和45年度臨床班 46年3月
No3 昭和45年度病原班 46年3月
No4 昭和45年度病理班 46年3月
No5 昭和45年度疫学班保健社会学部会 46年3月
No6 昭和46年度治療予後部会 47年3月
No7 昭和46年度保健社会学部会 47年3月
No8 昭和46年度疫学部会 47年3月
No9 昭和46年度キノホルム部会 47年3月
No10 昭和46年度微生物部会 47年3月
No11 (欠番)
No12 昭和46年度総括報告 47年3月


2020年2月14日金曜日

スモンの謎1キノホルム説の登場

スモンという難病がある。
発生は昭和30年代後半から10年間のあいだに突然流行、終息した。
患者は神経を侵され、歩行困難となり患者数1万人を超え失明、死者も多数出た。原因は整腸剤キノホルムと決定され、我が国史上「最大の薬害」とされる。

この「真実」にたいして書いてみる。

きっかけは先日、田辺製薬の社内報を見て、いろいろ思いだし、久しぶりにスモンの本を読んだことによる。
本をだいぶ処分してきたが、この二冊は手元に置いていた。

スモンは Subacute Myelo-Optico-Neuropathy(亜急性脊髄視神経症)の略であり、そのとおり運動麻痺、視力低下がおこる。
1955年頃より発生し、1967~1968年頃に全国で大流行した。
患者数11,000人(潜在患者入れると2万人とも)、裁判に訴えたもの5000人、賠償金請求額2000億円だけでも大きな事件であるが、原因究明と裁判が長期間にわたり、何度も新聞1面をにぎわすほど大きな社会問題になった。

現在ほとんどの人はその騒動を忘れ、教科書などに記されるだけになっている。
50年ほどたった今、どの資料を見てもキノホルム犯人説は疑いない。
たとえば、

1.ウィキペディア
「整腸剤キノホルム(クリオキノール、5-クロロ-7-ヨード-8-キノリノール)による薬害。(略)当初はウイルス原因説も出たが、現在ではキノホルムが原因と判明している。」

2.薬学部の教科書「スタンダード薬学シリーズ・薬学総論」(日本薬学会編、東京化学同人、2015)
「1969年、厚生省はスモン調査研究会を設置、原因究明に乗り出した。翌年患者の尿からキノホルムが結晶化されたことをきっかけに、疫学調査を実施、”スモン=キノホルム中毒説”が登場した。これが確定するのは1972年であるが、厚生省は1970年9月の段階でキノホルムの試用販売中止の措置を取った。その結果、スモン患者の発生は激減し、キノホルム説は証明された」

3.厚労省「スモン手帳」(2012)1ページ目
「キノホルムにより健康被害を受け、長期にわたっての苦しい闘病生活を送っている皆様に、お見舞い申し上げるとともに、」で始まる。

すなわち、キノホルム犯人説は、学会権威がお墨付きを与えた、日本中、誰もが疑う余地のない科学的事実となっている。

しかし当時、この事件を最も「研究した」人々は、そう思わなかった。


まず、なぜ権威者たちがキノホルムに至ったか書いておく。

スモン患者の一部の人々は特有の緑舌、緑便、緑尿を呈した。
疾患解明の糸口として「みどりの窓口」といわれた。(東大・生理の時実教授が最初に口にしたという)

1970 (昭和45)年5月、東大神経内科の豊倉康夫教授、井形昭弘助手が緑尿の分析を東大薬学の田村教授に依頼。
6月30日、これがキノホルムの鉄錯体と判明。
直ちに椿忠雄新潟大教授(東大神経内科出身)らは、新潟で疫学調査、171人の患者のほぼ全員がキノホルム服用をつかむ。
8月6日、椿は新潟県衛生部を通じてキノホルム原因説を厚生省に報告。
9月7日、中央薬事審議会、スモン協議会を通じてもキノホルムの報告を受け、翌8日、販売中止の措置を取る。
(以上文献5)

それまで京大のウィルス説などを中心に回っていた研究が急転直下、電光石火、大転換である。

スモン協議会は改めて全国調査、9月20日に調査票発送、10月20日回収。
890人中、84.7%がキノホルムを飲んでいることが分かる。
さらに販売中止により、患者は激減した。

これだけ読めば疑問の余地がなさそうだが、当初から疑問はあった。

すなわち、スモンは初めに下痢、腹痛など消化器症状が「必発」する。
スモン協議会の報告書に、中心となった臨床班3人の代表的診断基準が載っている。
(文献3、No1 p10-11)

椿忠雄
1.腹部症状に続いて神経症状をおこす。
2.神経症状の発現は急性または亜急性
 (以下略)

祖父江逸郎
1.下痢、腹痛などの腹部症状に続いて急性または亜急性に発症する。
2.足の裏のしびれに始まり、左右対称にしびれが上行する
(以下略)

高崎浩
1.前駆症状として下痢、腹痛などの胃腸症状を有する。
2.突然に下肢麻痺に始まる上向性知覚異常と痙性対麻痺をきたす。
(以下略)

文献4 スモン研究の回顧
椿がスモンと命名する前、病名はさまざまなものあったが、
「腹部症状を伴う脳脊髄炎症」など、腹部症状の単語を必ず入れていた。
腹部症状があるのはALSなど他の神経疾患と区別するスモンの定義である。
『スモン(腹部症状を伴う脳脊髄炎症)調査個人票』
1969年末調査 文献3 No1 p8

ところで、キノホルムは下痢を止めるための薬である。
日本薬局方にも収載され、長年、安全で効果のある第一選択薬であった。
つまり、スモン患者がキノホルムを飲んでいるのは当たり前である。
キノホルムを犯人にするには発症前に全員飲んでいることが必要となる。

ところが、患者の84.7%が飲んでいるとした調査をみれば仰天する。
 
「スモン患者のキノホルム剤服用状況調査票」1970年9月20日送付
文献3 No2 p230
ここでは
「神経症状発現前6か月以内の服用」と
「神経症状発現後の服用」
について聞いているのである。
いつのまにかスモンから腹部症状が消えている(タイトルからも)。

ちなみに腹部症状発現から神経症状発現までは

神経症状が先 1.7%
1か月以内 34%
1か月 29%
2か月 11%
3か月 6%
4~6か月 8%
それ以降 12%
(文献3 No1 p20)

つまり神経症状発現前というのはほぼ全員、98%が腹部症状を先に発症しており、キノホルムを飲んでいておかしくない。
84.7%は当たり前だ。
腹部症状がスモンならその前にキノホルムを飲んでいなければならない。

なぜスモン協議会は<神経>症状前でなく、
「<腹部>症状発現6か月以内の服用」
を聞かなかったのか?

誰でも気づくことであろう。
実に不自然である。

ここからは、キノホルム説に批判的な文献1,6にも、また騒動解説書の文献2にも書いてないことだが、
私の推理だが、
故意だったのではないか?
なぜ故意か?

「腹部症状発現6か月以内の服用」を調べたらキノホルムを犯人にできないだろう。
なぜなら下痢をしていないのにキノホルムを飲むことはないだろうから。
スモン協議会はこのことを知っていたからではなかろうか。
単なる初歩的なアンケートミスではないと思う。

文献4 座談会「スモン研究の回顧」
スモンのことなどみな忘れてしまった1993年のことである。

田村(善蔵)「15%は飲んでいないというでしょう。だから反対説が非常に強かった。その時にどういうわけか、甲野先生がキノホルム説に肩持った。裏は知りませんよ。私は甲野先生に「どちらもまだ灰色じゃないですか、どうして甲野先生、キノホルム説に肩持つんですか」と聞いたら甲野先生が「田村先生、考えてごらんなさい。どちらも間違ってるとして、どちらが患者を苦しめますか」。びっくりした。僕はそういう考えは全然もっていなくて、サイエンスとして真実を追求していく。甲野先生だって基礎の医学者ですからね。甲野先生からそういう臨床医の、医者の魂というのか、そういうのをパッと出されてびっくりしました。
だけど裏にはおそらくウィルスなど感染性病原体がいつもネガティブ、ネガティブとこれが蓄積されていたから、それだけの強いことが言えたんだと思いますね。
豊倉(康夫)「それはいいお話ですね」

・・・・
苦しむ患者を救うことが正義。
正義のために働くのが立派な医学者。
朝日などマスコミもそうであった。

しかし、サイエンスと患者救済は別のものだと思う。
ただ、国の「医薬品副作用被害救済基金」(1979 年 10 月設立)医薬品副作用被害救済制度(1980 年 4 月)の設立以前は、こうしないと患者が救われないと多くが思った。

ところが現在、教科書、国、大学はじめ、日本中のあらゆる知識人がキノホルム説を無条件で信じていることに違和感を覚えるのである。


参考文献
1.謎のスモン病  高橋秀臣 行政通信社 (1976) 
2.田辺製薬の「抵抗」 宮田親平 文芸春秋社 (1981)
3.スモン調査研究協議会研究報告書 No1~No12 (1969-1972)
4.厚生省特定疾患スモン調査研究班 スモン研究の回顧 1993
5.スモン・薬害の原点 小長谷正明 医療 63, 227 (2009) 
6.スモン病因論争について(1)~(4) 増原啓司 中京法学15,  1980

3-5は権威者側の公式発表、1,6はそれに疑問を呈したもの、2は一連の経緯を説明するもの。
3-6はネットで読める。

(続く)

追記 2月15日

腹部症状を無視したのは故意ではないか?という根拠をもう一つ示す。
890例集めたという調査票の集計用コードがある。
スモン患者のキノホルム剤服用状況調査票集計用コード一覧
文献3 No2 p233

先に示したように、調査票(文献3 No2 p230)では
 腹部症状発現年月日
 神経症状発現年月日
 薬品名とその服用期間(年月日~年月日)
を聞いているのである。だから手間はかかるが、ここから腹部症状前のキノホルム服用率を出せないこともない。ところが集計用コード一覧では、腹部症状の年月日と、服用期間は設定されていない。集計するとまずいことになったのだろう。また神経症状は「年月日」で聞いたのに「年」と集計し、恣意的操作がしやすいようになっている。

以降、このブログで何回か論じる(シリーズ化)。



2020年2月11日火曜日

サクラ保護樹木とプロの植木職人

2月7日(金)
昨日から今期最強の寒波が入り、今朝はマイナス2度、この冬初めて氷が張った。
8:40植木職人さんが3人到着。

8:53
桜は大きく切ると枯れてしまう。
特にこの太さ(周囲3.4メートル)になると、幹を最低限生かすだけでもかなりの葉っぱが必要だから、下手に切れない。
2011年11月以来、少し切っては下の枝を育て、だんだん低くしてきた。二階の屋根をすっぽり覆っていた巨木も8年でここまで低くなる。

しかし、昨年の台風15号は怖かった。
桜が倒れたら家がつぶれる。夜中、暴風の音で熟睡できなかった。
一年一刻でも早く桜を低くしなければならない。
8:56  右はファーブル昆虫館
そこで老木枯死のリスクはあるが、思い切って大枝(幹)を切ることにした。
幹の途中で切ると残った部分が葉っぱの不足(栄養不足)で枯れてしまうだろう。
だから大胆に枝分かれのところから切る。

この木は文京区保護樹木になっている。
2013年は剪定費用の半額を援助してくれたのだが、翌年は予算がなくなったといって援助なし、次の年からは剪定費用は3年に一回になってしまう。
さらに数年前から道路にはみ出た部分は自己責任、敷地内部分(7割)だけを支給するとなった。
つまり、かつては50%だったのが、現在は
0.5x0.33x0.7=0.11
すなわち、10万ずつ10年、剪定に100万かかっても、総額の11%、11万円しか援助してもらえなくなった。

しかし1割援助でも大きいから担当者に連絡、見積書を送り剪定内容を伝えた。
すると電話がかかってきた。
指定保護樹木は樹形を変えてはいけない、毎年伸びた部分を切るだけにしてほしいという。
そう言われるなら、台風で倒れ家が壊れたら保険で補償してくれるのか?
枯れかけている枝が落下して人に当たってけがをしたらどうするのか?
補償はできないということで担当者のトーンは弱くなったが、なかなか許可しない。
そのうち、こちらも文化人の旧宅や街並み、樹木の保存に無関心な文京区に対する不満をぶつけ始め(彼の責任ではないのだが)、平行線となる。もうこちらも保護樹木指定解除でもいい、と譲らなかったら向こうはようやく剪定を許可した。

9:10
ここは道が狭くて高所作業車が入れない。
だから一番最初のとき足場を組んで4人で作業するといって80万円の見積もりを出した業者がいたが、どんな高くても登って切る芳樹園さんをみつけ、以来そこに頼んでいる。

彼らは実にプロフェッショナルである。
まず木を見上げ作戦を立てる。どこにはしごをかけるか、どの順番で、どちらの方向から切っていくか。
高辻さんはいつも同業者の福地さんをヘルプで連れてこられる。彼が信頼する相棒と相談しながら決めていく様子は興味深く、いつも仕事を休んで見物している。

そして登れば両足をはしごに絡め脚力だけで全身を支持し、強靭な腹筋で上体、両腕を自由に使う。柔軟さと筋力で、時には不安定な形になりながらも幹と格闘する。
怪我したら即失業するのに、作業は危険極まりない。
だから大胆かつ慎重、はしごは必ず幹にしっかり縛り付け、ぐらつかないようにする。

山茶花、金木犀も頼んであるが、体力あるうちに大物をやりたいと最初に3人がかかりで桜に取り掛かられた。

幹の半身が枯れていた下の太い枝は、上の大枝にはしご、ロープをかけられたので簡単に落とした。

そしていよいよ本丸に取り掛かる。
細い枝をすべて落とし幹を裸にした後、上から輪切りにして少しずつ切っていく。
正月の出初式の曲芸的はしご技は、あまり実用的でない危険な格好をするためだけの演技で、しかも演技者の怖さが見えてしまう。
しかし植木屋さんたちは全く普通の様子で、もっと高度な作業をしている。
アマとプロの違いだろう。

9:55
あるところまで落として来たら、二つのはしごを適切な位置にかけられなくなった。すると丸太を車から降ろしてきて、3人がのぼり、作業に必要な足場を作り始めた。

出来上がると「一本いきます」と煙草を吸われ始めたので慌ててお茶の準備。
庭の野菜を眺めながら休憩。

福地さんは昨日、根津神社の大イチョウの剪定にヘルプで行っていたとのこと。
斜面の上のほうの20メートルの木だったから高所作業車も使えず、強風にあおられ怖かったらしい。この日は今季一番の寒さだったが、風がないため体力の消耗がないから楽だという。

都心ではだんだん大きな家がなくなって、庭木のない小さな家になっていくという話から、近所でも高村邸の消失や西日暮里のマンション建設、はては中国マネーによる不動産買い占め、相続問題などに話題は尽きない。
10:32 作業再開

これだけ太いと少しずつ輪切りにしても相当な重量となり、落とせば道路を傷めたり、ブロック塀を破壊したりする(数年前一度あった)。
そこでロープを幹の先に縛り付け、はしごの上端に引っ掛ける。そして二人が上空で作業、残った一人が地上でロープを引っ張り、落下を防ぐ。

高辻さんが幹をかかえ、福地さんがチェーンソウで少しずつ輪切りにする。音もすごいが、顔のすぐそばでチェーンソウが回るのだから少しよろめいて手元が狂えば大けがする。
のこぎりくずが飛び散り顔面に吹き付けるから3人とも覆面、防護眼鏡をしている。風がなくてよかったというのは、のこぎりくずが近所の家々に散乱しにくいということもある。
11:42
こうやって少しずつ切っていくのだが、とても持てないから数十キロはあるのではなかろうか。
一つ椅子にぴったりのものがあり、記念に残したかったが、重すぎて室内では邪魔になるだろう。外に置いたらアリ、シロアリの巣となるから諦めた。

軽トラ2台で来たが、全部は積み切れず。

作業が終わり白菜と大根を3人にもっていってもらった。

白菜は白い部分があまりなく、鍋にしてもおいしくないのだが、前回福地さんがうまかったと言ってくれた。高辻さんが全幅の信頼を置き、大物を切るときは必ずヘルプに頼む彼は、ちょっとぶっきらぼうで怖そうだったが、その白菜いらい、私は彼のファンになっている。
2020-02-08 7:25
大きくあいた切り口から枯れなければよいが。


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2020年2月6日木曜日

西川口駅から歩いて田辺製薬、戸田閉所式

1月24日、田辺三菱製薬・戸田事業所の閉所式があった。
3月いっぱいで閉鎖、売却、更地になるという。

1981(昭和56)年以来、
職業人生の大半を過ごした場所。

閉所式は15時から。
待ち遠しいので早めに家を出ることにした。
西川口駅 2020-01-24 13:38 
改札口は変わっていないが、西口への連絡橋が二倍に広がっている。

入社したころは埼京線(1985年開通)がなく、川口駅から前新田循環のバスに乗った。
そのうち西川口駅からバスを使い、しばらくすると歩くようになった。
いろんな思い出のある西川口からの道をゆっくり歩いてみる。
久しぶりに来たらホームの上に新たな店舗フロア(Beans)ができていてびっくり。

西口   13:41
右手(蕨寄り)は関東いや全国屈指の風俗街だったが、2004(平成16 )年埼玉県警が西川口を「風俗環境浄化重点推進地区」とした。県主導の浄化作戦と風営法改正などにより、火の消えたようになった街を何年か前にあるいたことがある。
空き家が数年続いた後、今は中国人、韓国人らが飲食店など経営しだし、外国人街のようになっているらしい。

そちらのほうへは行かず、田辺製薬のある左手に歩き始める
駅前ロータリーの一角、たまに入った立ち食いソバのあった角と駅エレベーターの間の狭い路地を抜けると右にはせ川。
シャッターの壊れくらいから閉店してだいぶ経つようだ。
角のショーケースは水槽で、貝や魚が飼われていた。
ミルガイだろうか、二枚貝だが棒のような身(水管)が長くて、ほとんど裸の肉の棒が伸びていた。画像で見るミルガイより長かった気がする。

はせ川の向かいにも飲み屋があった。名前を忘れたが、三階か四階建て。
入社したころ山田健二さんと入り一階のカウンターで焼酎をおごってもらった。
飲み会は川口より西川口が多かった。
このあたりの線路際に中二階のような飲み屋があった。確か名前は魚大。
相席で、病理、安全性の人たちが好きだった店だ。


13:43  この古本屋はよく寄った。
ご主人は本籍が千代田区一番町一番一号で、歴史・作家の話が好きだったが、ほーっという話はなかった。
そうだ、宇佐美書店だった。

13:45
はせ川の並びになるこの角はいろんな店が入ったが、80年代初めは柿五郎という寿司屋だった。リーズナブルな値段だったから何回も入った

このビルの隙間を歩くと近道。
串揚げ屋があった。

13:47  熊石はまだあった。
1982年3月、杉原重孝さんがパサディナに留学するとき大橋研で壮行会をした。
大橋元明さん、杉原さん、それから私の上司だった菅原洋一さんの3人がリーダー格であったが、奇しくも3人とも東北大の出身、しかし店は北海道料理であった。
若手は食べ盛りで予約していたコース料理を平らげてしまう。
すると杉原さんがおごりで追加の鍋を注文してくださった。
その言い方がスマートだった。


クマイシのあたりはハングル語、中国語の看板ばかり。

駅のほうに少し戻ってみると、かつてのにぎやかな店が並んでいた駅からのメインストリートの角も空き家になっていた。

13:51
西川口陸橋通り。青木信用金庫は昔のまま。

焼肉の千山閣は何回か飲み会の会場になった。

ダンスを自由に踊れるようになり、ダンスパブにも出かけるようになったころ、西川口にエスパスという店ができた。来てみると25年ぶりの千山閣のビルだった。
スタッフに学連出身のうまい若者をそろえているとのことで、踊れる女性客を目当てに何回か会社を午後半休して来た。2009年、2010年のころ。まさか私がこんな近くで昼から遊んでいるとは会社の人は思いもしなかっただろう。

13:53
仕事が終わり、大塚峯三さんと西川口まで歩いて帰ったとき、ここでおごってもらった。
具沢山の汁がうまかった。

西川口陸橋通りもシャッターが目立つ。
普通の住宅に代わっているところもある。
千山閣の近くに東仙閣という焼き肉屋があり、ここも飲み会で使った。
探したが、ない。

13:56  鬼澤橋
住所は戸田市喜沢であるが、もとはこの字だったのだろう。
山は遠く、昔は田んぼしかなかっただろうから語源は不明。

橋の西の鋭角に交番があった気がする。
道のこちら側に中野さんの送別会など何回か使った店があったが名前を忘れた。

鬼沢橋のすぐ南の橋。
会社からここまで裏道を来て、ここで左折し陸橋通りに出た。

14:01  陸橋通りの南の裏道。

喜沢小学校の西の角に来ると、金属加工の金屑のにおい。
においにも懐かしさがある。
右、喜沢小学校

14:03   けん作はまだあった。
埼京線ができて歩かなくなった90年代に新しくできたのではなかったか?
菅野賢吉氏が酔っ払って、店内のいけすに飛び込んだという話。


いったん碁盤の目で宅地化した後、斜めに道を通したようで変な交差点が多い。

14:05   並行する陸橋通りに戻ると、とんでん。
1998年10月ころ、MacHoneyさんに論文の英語を見てもらい、そのお礼にここで御馳走した。当時は違うファミレスだったような気もするが、メモだととんでんになっている。
彼はどういう経緯で入社したか知らないが、小松原さん率いるスクリーニング部門におり、当時はまだ珍しかったネットでの株取引をしていた。アメリカの証券会社だったのだろうか?


この家は(とくに旧家という感じではなかったが)屋敷門があった。

14:08
右側は花屋だった。花昇とあるが廃業されたようだ。

14:10
ここはただの空き地のような公園だった。
当時はフェンスもなく、斜めに突っ切った。

大塚さんが「人間はどんなに大金持ちになっても、おにぎりやラーメンがうまいと思うんだろうな。それはなぜだろう?」なんて私に問題を出したのはこの真ん中を歩いているとき。

左側に戸田中央病院の看護師寮があった。

右側のヨークマートやマンションは埼京線ができて歩かなくなってから出来た。

14:15
この正面に田辺製薬・戸田事業所の液剤工場があったが、今は大きなマンションになっている。

戸二小通り、左が戸田事業所、右は田辺のテニスコートだった。

14:17
左はガソリンスタンド、右は田辺の敷地(バスケットコート)
まっすぐ歩くと西川口へのバス停、あるいは埼京線戸田公園駅にいく。

ここまで来るとさすがにワクワクしてきた。
7年ぶりだし、それ以前に転勤した人、退職している人も来ているだろう。

正門まで来ると守衛室横の特設受付から懐かしい人がいっぱい。
会場の食堂に行く間も、いろんな人に会う。
みんな笑顔、笑顔。
うれしい。
でも名前が出てこない。

15時からの式には時間があるので少し敷地を歩いた。
14:33
1960年以来、戸田最古の建物、本館。
1981年は工場長室、有機化学研究所、微生物研究所、図書室などが入っていた。

研究所はここから出発したが、近代的な研究棟が周りにできて、2000年代には医務室、資材部、スクリーニング部の一部などしか入っていなかった。
4号館
研究員の移動は以前から始まっていて、1年前に来た時もがらんとしていたが、いよいよ最後か。

流政之「天命拓新」
これは設置するのに基礎工事のやり直しも含め相当お金がかかったものだ。
更地になるにあたり、建物と一緒に廃棄するのだろうか?

かつて一緒に研究した若者も中堅になっていて、いろんな部署に散っていた。
研究員として残ったものは、半分は横浜事業所(旧三菱化成研究所)、半分は武田が作ったまま空いている湘南リサーチパークに移っていた。
彼らにとっても久しぶり、懐かしの戸田である。

15時からの閉所式は、ただの親睦パーティかと思ったら、ちゃんとした式だった。
式次第にのっとって三津家正之社長、子林孝司専務、上野裕明常務(次期社長)、松本健取締役などのあいさつがあった。
退職して7年、社長は3歳上、次期社長は2歳下。専務と取締役は私と同じ年になっていた。

しかし、壇上に立った人々は全員研究所出身であるが、戸田事業所の(80年代を知る生え抜きの)ひとは一人もいなかった。戸田の敷地でヘルベッサー、カルグート、カナグルなど独創的医薬品を創出した人たち、尊敬されていた所長たち、先輩たちを中心にして、もう一度お別れ会を開いてほしいが、3月閉鎖では時間がない。

別ブログ
 20190306 田辺三菱・戸田の変わりよう
 20190224 戸田公園駅2 酔月園から転職まで
 20190223 戸田公園駅1 田辺製薬までの道

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