2022年8月20日土曜日

飯田2 お城と偉人、民宿若松と味噌カツ

13日の迎え盆。日帰りで長野の実家に行く予定だったが、前日の午後、高速バスで南信州の飯田に来た。
同じ長野県とはいえ、飯田は山梨県の向こう、浜松市に境を接し、方角は長野とは全然違う。長野は上野から北へ新幹線で1時間半ほどだが、飯田は新宿から西へ南へ4時間以上、そして飯田から長野までは列車で4時間以上かかる。すなわち実家への途中で立ち寄るのではなく、全く別の旅行といえる。

13:05 に新宿バスタをたち、
17:23 飯田駅前着。
真っ先にバスを降りる。

暗くならないうちに、雨の中もくもく歩いて飯田城(長姫城)に向かう。
(別ブログ)

17:52 二の丸跡にくると飯田市美術博物館があった。
17:52
出丸から二の丸に入る門のあったところ。
すなわち二の丸の西の端。

飯田城は南北と東が断崖絶壁だが、西は市街地と標高差なく連続していたから廃城令のあと、いろんなものが建った。
二の丸跡には1884年(明治17年)長野県中学飯田支校(現飯田高校)がたてられた。それが1925年(大正14年)郊外に移転。その跡地に飯田町立飯田商業学校が建つ。この学校は後に県に移管され、戦後、長姫城にあることから飯田長姫高校と名を変えた。(別ブログ)

飯田長姫高校は1982年、下伊那郡鼎町に移転した。(鼎町はドーナツのように飯田市に囲まれていて1984年飯田市に編入)
その後、美術館、博物館が欲しいという市民の声を受け、空いた二の丸で翌年から調査が始まり、1987年着工、1989年に飯田市美術博物館が開館した。

美術博物館の西側に石が並んでいた。
17:53 岩石園

伊那地方は木曽山脈(中央アルプス)と赤石山脈(南アルプス)の間にあるが、南アルプスの手前(西)に並行して低い山脈、伊那山地が走っている。
だから天竜川沿いの狭義の伊那谷は木曽山脈と伊那山地の間である。
そして東の伊那山地と赤石山脈の間は伊那谷と並行してV字型の谷が延々と南北に伸びている。この谷が九州から四国、渥美半島をへて諏訪湖に至ってフォッサマグナにぶつかる大断層、中央構造線である。
すなわち伊那は日本でもとくに造山運動が盛んだった場所で、地質学的にも重要な場所である。それを反映して、美術館博物館の西側に岩石園がつくられていた。

しかし石を見る時間はない。
正面に向かう。
ここは飯田市立の美術館兼博物館であるから、岩石園に加え、中には恐竜の骨格模型も展示されている。
手前は美術館建設中に発見された二の丸の井戸。

17:55
当然閉館後なので、ガラス越しに中を覗き、ポスターを読んで想像する。
菱田春草記念室では第36期の企画展。
生誕160年記念・安藤耕斎もやはり飯田出身の画家。
博物館のほうでは特別陳列「南アルプスジオパークをめぐる」

美術館の前に石碑。
17:56
「菱田春草誕生之地」
リンゴ並木にあったものを移設したらしい。
写し損ねたが碑の題字は横山大観。

春草は飯田藩士の三男として生まれ、二の丸の西にある追手町小学校に入学、高等科では中村不折(ブログに何回か書いた)に図画と数学を教わった。
高等科を終えて上京、東京美術学校で日本画を学んだ。卒業後美校に残ったが、岡倉天心校長が美校を追われたとき、1学年上の横山大観、下村観山らと従い、在野の日本美術院を起こした。彼らとともに谷中八軒屋に貧しく住み、日本美術院が茨城五浦海岸に移転したときも従った。36歳、腎臓病で死去。無二の親友だった大観は大酒を飲みながら90歳まで生きたが、大家と呼ばれるたび「春草こそ本当の天才だ。もしもあいつが生きていたら、俺なんかよりずっと上手い」と語っていたという。
兄の菱田為吉は東京物理学校教授、弟の菱田唯蔵は九州帝大、東京帝大教授。


17:58
二の丸と本丸の間の空堀。

飯田城は自然の断崖を利用した城であるため、石垣がない。
また崖が高いため、濠に水もない。

本丸跡には二つの記念館があり、美術館博物館の付属施設となっている。
柳田國男館(旧喜談書屋)
柳田は兵庫県の医家、松岡家に生まれたが、東大法科を卒業後、旧飯田藩士の大審院判事、柳田直平の養子になった。
この建物は昭和2年、世田谷に書斎(兼住居)として建てられ、昭和63年に養父の出身地、飯田城址に移築された。今掲げられている表札が「民俗学研究所」となっているのは、昭和32(1957)年まで30年にわたって日本民俗学研究および教育の拠点となったからである。

18:00
日夏耿之介(ひなつこうのすけ)記念館
本名樋口國登。飯田の樋口家は清和源氏につながる家系という。
飯田中学のとき上京、京北中学に編入、早稲田を出て早大教授。
戦時中、早大教授を辞任して飯田に疎開、1956年からは飯田に定住した。
詩人、作家、英文学者である。

この本丸跡にはほかに長姫神社がある。

本丸の東、さらに台地の先端部分は弾薬庫などがあった山伏丸であったが、明治の廃城令の後ことごとく壊された。
明治8年、その地を譲り受けた者が眺望を生かした料亭をつくり、現在は天空の城「三宜亭本館」という温泉ホテルになっている。

雨天で暗くなってきたこともあり、長姫神社を柵越しにちらりと見ただけで引き返す。

18:07
長野県天然記念物「長姫のエドヒガン」
樹齢400年、周囲6.7メートル、樹高20メートル
このあたり二の丸だが家老安富氏の屋敷だったため、安富桜とも言われる。
近年までここは飯田長姫高校の校庭だった。

18:09
追手町小学校から二の丸に来るとき、道路側がすべてガラス張りでスーパーマーケットかと思っていたのは飯田市立中央図書館だった。
ちょうど閉館したところ。

図書館の裏に城門が見えた。
18:10 桜丸御門
この門の外から県合同庁舎のあたりは、桜丸といったようだ。
飯田城の郭(曲輪)は風雅な名前だ。


18:13
長野県合同庁舎の窓に
「売店 どなた様もお気軽にご利用ください。おにぎり、お茶、パン、、」
という手書きの貼り紙があった。

18:15
桜丸から谷川を隔て北東をみる

18:16
複雑な地形は建物も複雑になる。

18:19
谷川を埋めた中央公園の横を通り、橋北地区に入る。
細道をいくとこの日の宿、ファミリーハウス民宿若松があった。
お城から4分。
勝手口のような引き戸をあけると、こちらを向いておじさんが一人食事をしていた。突然現れた私にびっくりしながらも「受付は裏だよ」と教えてくれた。
裏に回っても受付は分からない。

18:20
食堂とは細い道を挟んだ別棟、ここかな?
戸を開けて声をかけると、おばあさんが出てきて、鍵を渡された。
部屋は向かいの食堂のある建物。崖の途中に立っているから2階にみえても403号室。

18:24
4畳半に板の間
素泊まり3000円だから文句は言えない。
野宿にあこがれたものの、ベンチや板の上は痛そうだし、寝袋など荷物を持って動くのは嫌だし、ま、こんなところだろう。

トイレ、洗面所は共同
冷水と熱湯は自由にとれる。

夕食に出る前に宿の中を探検してみる。
18:42
さきほど間違えて覗いた食堂。
調理室含め、誰もいない。

18:44
食堂から入るふろ場

後でおばあさんに聞いたら、もともとは理髪店をやっているかたわら、飯田工業高校の学生を下宿させていたのだという。下伊那郡の村々は広く、ポツンと一軒家もないくらい山が深い。例えば2005年に飯田市に編入された上村、南信濃村(遠山郷)は伊那山地と南アルプスに挟まれた谷と山の村で、静岡県(こちらも山)に境を接している。森泰生研で助手をされていた原雄二君の出身地、上村は日本のチロルと言われた。
飯田市内に下宿する高校生は非常に多かったようだ。

ちなみに飯田市には飯田高校、飯田風越(戦前の県立女学校と市立女学校が合併)、飯田長姫(旧飯田商業)、飯田工業、下伊那農業の高校があった。

下宿屋若松は平成元年に旅館に切り替えたが、改築資金がなかった。崖地のため工事費が高く、また将来あるとも思えず、建物は下宿時代のままという。

ちなみに飯田工業高校は、少子化が進んだ2013年に飯田長姫高校に吸収され廃校、長姫は飯田OIDE長姫高校と改名した。OIDEは、Originality(独創)Imagination(想像力)Device(工夫)Effort(努力)の頭文字で「おいで」と読む。初代校長が言われた言葉らしい。長野県人なら、校名にするにあたって何人も反対したと思うが。

夕食に街へ出る。
18:48
長姫橋(めがね橋)から来る銀座通り
橋から南は、昔、城(三の丸)と町家をわける堀端通りだった。

閉店時間が早いのか、ほとんど閉まっている。

ラーメン屋、飲み屋しかないかな、と思ったら千劇映画館の隣に食事処「信濃屋」があった。ここも人がいない。窓際の席をとる。
19:03
漫画があったが、ワンピースとドラゴンボールでは読む気がしない。


19:12
メニューの上から2つ目、味噌カツ定食 910円
名古屋名物が普通にあるのは、飯田が古くから三河、遠江と文化的に交流があり、今でも愛知県の主要都市と結びつきが強いからだろう。

県歌「信濃の国」4番の「~訪ねまほしき園原」は古代の東山道が信濃に入ってすぐの景勝の地とされるが、飯田の西のほうと考えられている。すなわち上代は都に一番近い先進地域だった。江戸時代の中山道、明治の中央本線は伊那谷ではなく木曽谷を通ったが、中央高速道路は再び伊那谷に戻ってきた。諏訪から南下して飯田から岐阜県中津川市、名古屋に抜ける。

中央道が開通したとき、飯田から時間的に一番近い県庁所在地は岐阜で、以下名古屋、津、甲府などがきて、長野市は7番目だった。それくらい北信は遠いが、しかし「信濃の国」でまとまっているのである。

みそ汁は非常にしょっぱかった。
信州を離れて47年、私の舌は受け付けなくなっていた。
伊那谷の行き止まりのような飯田は、長野、松本よりも昔の信州の味を残しているのかもしれない。

宿に帰って文庫本を読みながら早めに寝た。

8月13日。
スマホのアラームを初めてセットしたが、鳴るかどうか不安で自然と目が覚めた。
前夜に言われた通り、鍵をドアに差し込んで未明に宿を出る。
2022‐08‐13 4:41
千劇シネマズ
上映中の映画はワンピースとジェラシックワールド

ふたたびリンゴ並木を横断。
飯田が「日本一の人形劇の町」とは知らなかった。

4:43
リンゴ並木の間に田中芳男とその弟・義廉の顕彰碑があった。
田中芳男は、飯田の医師で長崎で蘭学も学んだ田中隆三の子として生まれた。名古屋の伊藤圭介の門下に入り、伊藤の助手として幕府の蕃書調所、開成所に勤めた。幕末から明治にかけて博物学、生物学、農学の分野で名を成し、官僚、貴族院議員としても活躍した。
日本の博物館の父とも呼ばれ、飯田市美術博物館だけでなく、上野の国立科学博物館のなかにも銅像があるらしい。

弟の田中義廉も兄の芳男とともに伊藤圭介の門下となり、蘭学や医学を学んだ。幕府に出仕し上野戦争では彰義隊に属した。明治政府では文部省に入り多くの教科書編纂に携わった。

そういえば、江戸、明治の人物を調べていると、よく「信州飯田の人」というフレーズに出くわす。かつてはそういう土地だった。
4:49
飯田駅到着。
並木のリンゴをイメージした新しい駅舎だがほぼ平屋。橋上駅ですらない。
5:00始発の茅野行きの電車で飯田を離れる。

私の飯田見物は、昨日の夕方着いて、駅からお城まで急いで歩いただけだった。
薄暗い雨の中、たった1時間にも満たなかったが、来たことがあるのと無いのとでは大違い。念願の地を踏んだだけで満足した。

(続く)
別ブログ

2022年8月19日金曜日

飯田1 高速バス、長姫の光沢毅氏

 13日の迎え盆。日帰りで長野の実家に行く予定だったが、ふと、前日に発ちどこかに泊まってみようと思った。

頭に浮かんだのが伊那谷。
思い立ったのが2日前。
定年退職老人の一人旅は楽だ。
その日の朝になって面倒になったらやめてもいいし。

人生で一度くらい野宿もしてみたいな。
しかし伊那谷と言えど今どき、軒下で寝られるお寺などもないだろう。お盆の前日で宿が取れないと困るので飯田の民宿素泊まりを予約。
これで当日になってやめることはできなくなった。
自由老人にはこういう縛りも必要。

ところが12日はパートタイムの家庭菜園の仕事が入っていた。
朝8時から11時。終了後、汗と泥の服のまま出発しなければならない。

東京から飯田に行くのに、時間、料金とも一番便利なのは高速バス。
片道4400円。これも予約。

11:31京成高砂出発、途中日暮里駅エキュートで実家への手土産を買う。
2022-08-12 12:18
新宿南口改札を出ると目の前にバスタができていた。初めて見る。

甲州街道、西の方向
ずいぶん景色が変わった。

バスタは広い券売所と待合室がある。
案内もしっかりしていて富士五湖方面への外国人旅行者もこれなら迷わない。
12:40
お盆前の一番混んでいるときでも、エアコンの中でゆったり座っていられる。
コンビニで買ったパンで昼食を済ませる。
2006年山中湖へ行った時は西口ヨドバシカメラの横の道路から出発した気がするから、ずいぶん便利になった。

12:44
出発ロビーは4階。JR新宿駅と甲州街道が見下ろせる。

13:05発、伊那、飯田方面は3号車まであった。
バスの中は帰省する若者ばかり。
この日は台風8号が近づいていて八王子あたりから雨となる。
景色があまり見えないので眠ってしまい、休憩のアナウンスで目が覚めた。
双葉サービスエリアというが、甲州らしくない地名にどこだか分からず。
スマホで確認すると甲府をすぎていた。

中央道はほとんど初めてなのに雨のせいもあり景色が楽しめず、昔読んだ文庫本「月山」(森敦)に目を落とすがすぐ疲れる。
16:03
諏訪湖が見えてようやく旅に来た実感がでる。

16:05
諏訪湖の西の端、岡谷の街が見えた。天竜川の始まりはどうなっているのだろう。
ここから伊那谷の始まり。

伊那谷の中心都市、飯田に行こうと思ったのは、信州なのに行ったことがなかったから。
長野県人は長野県が好きで、私も大好きなのだが、伊那、飯田は今まで行ったことがなかった。一度は行くべきだろう。理由はこれに尽きる。

長野県は南北に長くて長野から飯田まで164km、直通の快速で4時間13分、松本まで特急を使っても3時間49分かかる。実家の中野からならさらに1時間余計にかかる。一方、長野から大宮まで新幹線ならあさまで1時間25分、かがやきなら56分。信州中野から見ると南の伊那谷は、東京よりはるかに遥かな地。
憧れみたいなものも少しあった。

16:35 駒ケ根IC付近
晴れていれば中央アルプス(木曽山脈)が見えたはずだが。

17:24 飯田駅到着
ほぼ定刻(17:21)通り到着。
東京葛飾のパート先から急いで直行したのは、まだ明るいうちに少しでも街を歩きたかったから。

それにしても、飯田藩城下町、南信州の中心、人口は10万を超え県内5位の飯田市の駅前にしては、少し寂しい。大きなビルなどもなく、まっすぐな中央通りが東に伸びているだけ。

南が上
これは下の古地図に合わせたためだろう。

飯田城、飯田市街は、天竜川の河岸段丘が南の松川、北の野底川によって区切られた舌状台地に発展した。さらに間を流れる谷川(固有名詞、一級河川)によって、橋北5町、橋南13町に別れ、前者が三州街道の宿場町で、お城は後者にあった。武家屋敷、町家は両方にある。

飯田城は、鎌倉時代の13世紀に築かれた。長姫城とも呼ばれ、戦国時代は武田、織田、徳川の支配下にあったが、江戸時代は小笠原氏1代、脇坂家2代・5万5千石、堀家12代・2万石の城下町として明治維新を迎えた。

17:32 太宰春台邸址
駅を背に東へ歩き始めてすぐに出くわした。
県歌「信濃の国」5番で「しゅんだいだーざい先生も~」と長野県人は全員うたったはずだが、どういう人か誰も知らないという偉人である。
私のブログ内で「春台」と検索を掛けると2つヒットする。
松代2で佐久間象山と並べたときと、墓のある谷中天現寺を訪ねた時のもの。

17:33
なおも中央通りを東の飯田城址に向かって歩く。
ふつう城は丘の上にあるから、向かえば上り坂になるのだが、下っていく。
これは城が天竜川に向かった河岸段丘の先端部にあるためで、ちょうど浅間山麓の千曲川に向かった断崖に作られた小諸城(別ブログ)と似ている。

こういう洒落た店をみると「さすが飯田」と思う。

17:36 リンゴ並木
飯田でぜったい見るべきものの一つ。飯田大火のあと復興のシンボルとして作られ、遠く離れた北信濃の子供だった私にもこの並木の話は有名だった。

1947年の飯田大火は、碁盤の目に走る通りと古い町並みから小京都と言われた市の中心部の約7割が焼失。焼損面積48万平米、死者行方不明者3名、罹災戸数4,010戸、罹災人員は17,778人という。

復興に当たり、新しい市街は延焼を防ぐため4分割され、町の真ん中を東に流れる谷川を利用しながら、それと直行する広い防火道路が作られた。そして1953年から地元中学生によってここにリンゴの木が植樹されたのである。

りんごの木は思ったより低かった。一般農家でも矮化栽培が進んでいるが、ここも作られて70年、小さい木に置き換わったのかもしれない。先を急いだためしっかり見なかった。


17:39 千劇、センゲキシネマズ。
なおも中央通りを行くと映画館があった。地元の中高生がデートに使うのかな。

17:40
スナックやバーが並ぶ。駅と飯田城の中間あたり。

17:42
谷川の上に作られた中央公園。手前の「キッチン天竜」は廃業。

17:43
ずんずん中央通りを東に歩いてきたら、家がなくなり谷川の向こうの崖上に役所らしき建物がみえた。あれが飯田城址ではなかろうか。
しかし谷川を渡る橋がない。そのため少し来た道を戻り、城址にあがる。

17:47
長野県飯田合同庁舎。下伊那郡の中心都市だから県の出先機関が入る。
飯田市役所は駅のほうにある。

合同庁舎の裏に回る。
このあたり、二の丸の北、桜丸にあたる。
台地の東の端は高い崖の上から天竜川と伊那谷を望み要害の地であることがよく分かる。

17:49
合同庁舎の南におしゃれな建物
このあたり、二の丸と三の丸の間、出丸にあたる。

近づくと飯田市立追手町小学校

17:50
追手町小学校の北側にガラス張りの建物アリ。
中に人がいっぱいいる。スーパーマーケットだろうか。

17:52
小学校の東は飯田市美術博物館
このあたり旧二の丸であるが、ゆったりとした駐車場。

飯田城二の丸には、1884年(明治17年)に長野県中学校飯田支校が建てられた。本校が長野で、支校が松本、上田、飯田であり、これからも飯田は南信の中心都市だったことがわかる。飯田支校は後に独立、飯田中学校、飯田高校となった。

長野高校で数学を教えられた酒井武寿先生は、飯田高校から転勤されてきた。「計算するときはなるべく小さい字で書け。場所をとらないだけでなく、そのほうが速い」「運動部に入ったからといって根性なんてつくわけがない」など、記憶に残る言葉を残された。
そうだ、飯田高校は、薬学の同級生、牧島房夫氏の母校でもある。

飯田中学は1925年(大正14年)、市街地と野底川を挟んだ対岸の丘、すぐ隣の下伊那郡上郷村(1993年飯田市に編入)に移転した。
その跡地に飯田長姫高校が建つ。この学校は1921年飯田職業学校として創設、その後飯田商業高校と改称、さらに戦後、校地のあった飯田城の別名、長姫城から飯田長姫高校と名を変えた。

飯田長姫と言えば1954年の選抜高校野球、それまで長野県内でも目立たずで全国的にも無名であったが、大会出場校に選ばれた。エース光沢毅は甲子園常連校の強豪をなぎ倒し、4試合で失点わずか1点、3完封という快投をみせ、身長157センチ、体重51キロから小さな大投手と言われた。進学した明大では肩の故障を隠して島岡吉郎監督の命じた1000球ピッチングの練習に耐え、7勝した。卒業後は信州にもどり諏訪の三協精機に入社、外野手に転向、のち監督に就任。NHK高校野球の解説者も長く務めたが、体が小さいせいかスポーツ選手らしからぬ高めの声で、心地よい語りをよく覚えている。

明大で星野仙一や高田繁、鹿取義隆らをスパルタ指導した名物監督、島岡御大は、光沢と同郷(飯田の北隣、下伊那郡高森町)で、体調不良で休養したとき、後任に光沢を指名した。私が大学生の時1977年、78年ころで、信州人としては誇りに思った。
しかし光沢は1987年交通事故で失明、1991年には明大相撲部元監督と共に明大替え玉受験事件の仲介役を務め、逮捕された。

(続く)
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