2017年12月10日日曜日

文京グリーンコート、理研、科研製薬

千駄木に引っ越して5年になる。
4年ほど前、巣鴨駅の南、エムズダンススクールに行っていたころ、帰りは家まで歩いた。途中文京グリーンコートを突っ切る。ずいぶんおしゃれなところだな、と思っていた。12/10、今日は自転車で来た。


オフィス、マンション棟のほかにイーストウィングにはスポーツジム、文教堂書店やスーパー(ピーコック)、レストラン(イタリアン、中華など)もある。2階にはカフェテリアも入っている。
1994年着工、1998年竣工。
これだけの大規模開発ができたのは、科研製薬の工場があったからだ。

文京グリーンコートの開発主は科研製薬で、工場を移転した後もセンターオフィス棟に本社を構える。(受付が20階)

もちろん科研製薬工場の前には理化学研究所があった。
記念パネルが一枚だけ立っていた。
理研の正門は不忍通りに面した北側にあり、当時の航空写真を見ると、この林の向こうに2号館があった。木々は理研、科研製薬時代を経ている。

1号館とあるから、正門入って左側である。
科学博物館として残せなかったものだろうか。

理研は1917年、渋沢栄一を設立者総代として設立申請。皇室からの下賜金、政府補助金、民間の寄付金を基に我国の産業の発展に資することを目的に設立された。
この地にあった都立巣鴨病院(精神病院)が世田谷松沢に移転する(1918)のと入れ替わりである。

科学の面での貢献は、今と同じく、ここに書くまでもない。
注目すべきは、研究の産業化である。
1939年頃には会社数63、工場数121となった。
今日存在する会社としては陽画感光紙の理研光学から発展したリコー、生わかめの理研ビタミンなどがある。協和発酵は合成酒の理研酒工業を吸収した。

おなじ理研関連企業の科研製薬はなぜ理研製薬でないか?

戦後、GHQの命令により理研、理研コンツェルンは解体され、
1948年、株式会社科学研究所(社長仁科芳雄)が発足、財団法人理化学研究所は正式に解散した。そして
1952年、株式会社科学研究所(新社)設立。旧社は科研化学に改称、純民間企業となった。その後一部上場、1982年に山之内の関連会社、科研薬化工(株)と合併し、社名を科研製薬にした。
つまり、科研製薬が理研製薬でないのは、理研が科研であったからである。

科研から理研に戻ったのは1958年(昭33)。

ちなみに、理研は1967年、北足立郡大和町に移転した。市制を敷くとき大和市はすでに神奈川にあったので、和光市となった。113番元素の命名の時、ジャポニウム、ニホニウムなどのほかにヤマトニウムとあったのは、日本の古名の大和ではなく、単なる埼玉の町名であったことを知る人は少ない。

1963年(goo地図)
左上に大和郷、上に六義園。
左下は小石川高校。校舎とグランドが今と逆である。

なお、理研は周辺が焦土となる中、米軍の思惑か、爆撃を免れた。1,2,3,4,18、23号館はそのまま1991年取り壊されるまで科研製薬やアイソトープ協会が使っていた。科研の広報は、取り壊し寸前の、時代から取りこのされ、1990年というのに湯川や朝永が出てきそうな写真を残している。(山口栄一、日経デジタルヘルス)

復習
文京グリーンコートの場所の変遷を地図で見てみよう。

1909(明治42)大日本帝国陸地測量部
巣鴨病院
岩崎邸は六義園の部分だけでなく、本郷通りと中山道の間すべてだった。
池が二つあるのは、西半分が加賀藩の中屋敷だったからである。
同、明治42年
土井、酒井、徳川、亀井、松浦、川崎、伊達、土方、荘田などの屋敷が見える。

昭和7年
理化学研究所、府立五中がみえる。
岩崎邸西半分は分譲され大和郷に。
1957(昭和32)建設省地理調査所
理研は科学研究所になっている。土木研、小石川高校もある。

1998年文京グリーンコートが完成しても南の道に面して、日本アイソトープ協会の西隣に日本原子力研究所の研修センターが残っていた。しかし2003年に東海研究所に移設、敷地は売却され2013年、道沿いに細長い5階建てマンション、文京グリーンコートテラスが竣工した。


0 件のコメント:

コメントを投稿